妖魔の城
居合いの体勢で日本刀を携えたエミリアを前にして、俺は戦意を喪失していた。
絶対に勝てない相手であることくらい、見れば分かる。
今は勝つことより、この窮地を脱することが先決だ――
「……何をしてる、ウェステンラ! 逃げるんだ!」
「しかし、まだ聞きたいことが――!」
「馬鹿、そんなこと言ってる場合か!」
俺はウェステンラの腕を掴み、強く引っ張った――
その刹那、エミリアの刃が瞬いた。
その場から一歩踏み出しての、強烈な居合い。
剣圧だけで、フロア全体を撫で斬るほどの剣閃。
周囲の壁に、横一文字の断裂が刻まれる――
「う……ぁ……!」
まさに、死神が通過した一瞬だった。
俺はというと――体勢を崩し、地面に這いつくばっていたのだ。
ウェステンラの腕を引っ張ろうとして、体勢を崩してしまった――それが、思わぬ幸運を生む。
転びそうになった俺の背中を、エミリアの剣が掠めていったのである。
「……なるほど。初太刀を避けましたか」
エミリアは再び、居合いの体勢を取る。
「ぐっ……!」
ぞわぞわと、俺の背を悪寒が走った。
あんなもの、二度も三度もよけられるものじゃない。
さっきの回避とて、偶然――いや、奇跡に近いのだ。
「では、あらためてお覚悟を――」
エミリアは静謐な殺気を滲ませながら、静かに告げる。
その足が深く床を踏みしめ、神速での居合いが繰り出される――
「ぐ……!」
駄目だ、避けきれない――
眼前に迫った「死」を迎えるべく、俺は本能的に目を閉じていた。
その直後に響いたのは――俺の肉が刻まれる音ではなく、重い金属音だった。
覚悟していた鋭い衝撃も、いつまで経っても俺の体に届かない。
どうなった? もしかして俺は、知覚する間もなく死んだのか――?
俺は、恐る恐る目を開ける――
「な……!?」
そして、俺が目にしたものは――なんとメリアヴィスタの背中だった。
その右手から、鋭い爪を刃のように伸ばし――エミリアの刀を受け止めていたのである。
「お前、なぜ……!?」
俺は、その背に向かって呆然と呟いた。
「メリアヴィスタ――何を考えているのです?」
刀を止められたエミリアも、さすがに予想外の事態だったようだ。
そのまま彼女は、軽く後方に飛び退いた。
これは、思わぬ救援――なのか?
「おい、お前――何のつもりだ? 俺の敵じゃなかったのか?」
「知りませんでした……? 恋する乙女にとって、恋路を阻む輩はみんな敵です」
俺に背を向け、エミリアを凝視したままメリアヴィスタは言った。
「そういうわけで、この斬殺メイドは私がこらしめますから。ダーリンは、全速力で城から脱出して下さいね♪」
エミリアと対峙しながら、そう告げるメリアヴィスタ。
「……」
俺は、静かに腰を上げた。
そして、呆気に取られているウェステンラの腕を掴む。
「行くぞ、ウェステンラ――」
「あ、ああ……」
とりあえず、状況は把握した。
ここはメリアヴィスタを囮にして、この場から逃げ――そして、一気にマルガレーテを叩くのみだ。
俺はウェステンラを引きずりつつ、さらに奥だという『星見の間』への通路へと駆け出した。
「ちょっと、ダーリン!? そっちじゃなくて、城の外に逃げるんですよ!」
一瞬、俺の動向に気を取られるメリアヴィスタ――その脳天目掛け、エミリアの刀が振り下ろされる。
「……ッ!」
素早く体勢を返し、メリアヴィスタはその一撃を鋭い爪で受け止めていた。
その体勢から即座に繰り出されたメリアヴィスタの前蹴りを、エミリアは華麗にバク転してかわす。
こうして二人が火花を散らしている間が、まさに絶好のチャンス。
俺とウェステンラは、対峙する二人を残して『当主の間』を飛び出していた。
向かう先は、マルガレーテのいる『星見の間』――
「よし――このまま、敵首魁を潰すぞ!」
「ああ、今こそ……!」
俺達は気迫をみなぎらせながら、延々と続く長い階段を駆け上がったのだった。
※ ※ ※
「……メリアヴィスタ。自分が何をしているか、分かっているのですか?」
メリアヴィスタと対峙しながら、エミリアは鋭い目で問い掛けた。
この気ままなメイドの行動は、マルガレーテに反旗を翻したも同然なのである。
主を何よりも第一とするエミリアにとって、裏切りは絶対に許しておけない行為だ。
「マルガレーテ様に造反した罪、看過してはおけません――この場で処断します」
剣先を真っ直ぐに突き付け、エミリアは断じた。
「へぇ……? なんで、私がマルガレーテ様を裏切ったことになるんですかぁ……?」
肩をすくめ、まるで挑発するかのようにメリアヴィスタは返す。
「私は今までもこれからも、マルガレーテ様を太陽のようにお慕いしているんですから〜♪
今、私がブチのめしたいのは――あんたよ、エミリア」
軽薄な態度の中に、メリアヴィスタは鋭い殺気を覗かせる。
「……詭弁です」
そう告げながら、刀を正眼に構えるエミリア。
格下の相手を撫で斬りにする居合いとは異なる、攻守共にバランスの取れた構えだ。
造反者メリアヴィスタは、ここで確実に仕留める――そんな殺意が、鋭い刃に宿る。
その殺気が熱のように立ち昇り、ゆらりと風景が歪むほどだ。
「ここであなたを斬り――そして、侵入者も始末します」
「……ダーリンを始末する、ですって……?」
メリアヴィスタは両手の爪を刃のように伸ばし、エミリアを睨む。
その瞳が、獣のようにらんらんと輝いた。
全身のしなやかな筋肉が活性化し、並外れた柔軟さと強靱さを帯びていく――
――メリアヴィスタは思い出す。
マルガレーテの下に仕え、この城でひたすらに尽くした数百年もの日々。
あの日から慕い続けた太陽――マルガレーテは、とうとう自分の手には届かなかった。
どれだけ尽くしたところで、一度として振り向いてはもらえなかった。
マルガレーテの側に、この女がいたから――
しかし、それも仕方がない。
それがマルガレーテの判断、自分にそれを呪う資格も筋合いもない。
結局、退屈で鬱屈した日々はノイエンドルフ城でも続く――
しかし――メリアヴィスタは、新たな太陽に出会った。
完成されたマルガレーテとは異なる、発展途上の原石。
少なくとも自分にとっては、マルガレーテにも劣らない輝きを放つもの。
今度こそ、あの太陽を手にすると決めた。
だが――
目の前のエミリアは、それを始末すると言った――
この女は、またしても――
「――二度もあんたに、大切なものを奪われるもんかぁっ!!」
「……ッ!!」
気迫のこもったメリアヴィスタの一撃を、エミリアは刀で受けるのに精一杯。
魔界でも、数十年に一度あるかどうかの戦い――
百八姫同士の激突が、とうとう『当主の間』で始まったのである。
※ ※ ※
「……なんだ!? 今の衝撃は――」
当主の間から、星見の間へ向かう階段の途中――
突然に巻き起こった異変に、俺は足を止めていた。
階上からの凄まじい閃光と、足下をグラグラと揺する衝撃。
まるで、至近に巨大な雷が落ちたかのようだ。
「いったい、何があった……?」
エミリアとメリアヴィスタの激突によるものか――いや、違う。
後方ではなく、向かっている先――マルガレーテのいる『星見の間』から響いてきたのだ。
「なんだか分からんが、魔術ではないようだ……」
衝撃に怯みながらも、ウェステンラは言った。
「魔術じゃない……? じゃあ、爆弾か何かか……?」
マルガレーテの変な遊びか?
それとも、もしかして『星見の間』でも戦闘が始まっているのか……?
そうだとしたら、相手は――深山優と、沙亜羅。
あの連中が先回りして、マルガレーテに挑んでいるとでも言うのか?
「急ぐぞ、ウェステンラ!」
「ああ……!」
俺とウェステンラは、全速力で階段を駆け上がった。
正面に見える入り口扉を蹴り開け、そして『星見の間』へと踏み込む――
「こ、これは……」
そこで俺達が目にしたのは、凄まじい破壊の痕跡だった。
広間の至るところに瓦礫が散らばり、壁も崩れていたり、ヒビが入っていたりと崩壊寸前。
無数に立ち並ぶ柱も、折れたり倒壊したりと無惨な有様だ。
ガラス張りの天井は、半分ほどが円形に切り抜かれたように消滅していた。
そして床にも、ぽっかりと巨大な穴が開いている――
「おい、ウェステンラ。あいつが――」
「あ、姉上――」
そして――そんな惨状の中、平然と玉座に君臨している少女。
どこかウェステンラに似た、いかにも高貴そうな女――あれが、マルガレーテ。
そして淫魔の女王と対峙している男は――なんと、深山優だった。
沙亜羅の方の姿は見当たらない――別行動なのだろうか。
「深山優、お前……」
正直、うさんくさい奴と思っていたが――たった一人で先回りし、マルガレーテと激突していたとは。
少しは、こいつのことを見直してもいいようだ。
深山優は、ちらりとこちらに視線をやり、そして――
「じゃあ……後は任せた!!」
おもむろに深山優は吐き捨て――そして、出入り口の方向に一目散に駆け出したのだ。
「おい……お前! 何を考えてる!?」
「き、貴様……いきなり逃げるか!」
非難の嵐を浴びせる俺達の間をすり抜け、脱兎のように逃げ去っていく深山優――
「ぐ……」
追いかけてぶん殴りたいところだが、そうはいかない。
目の前には、女王マルガレーテが控えているのだから。
「あ、姉上……」
マルガレーテの前につかつかと進み出て、声を掛けようとするウェステンラ――
それを無視し、マルガレーテは俺の方に視線をやった。
「ようこそ、お客人――まさかあなたが、ここまで来るとは思わなかったわ。
エミリアが、もてなしに出て行ったというのに……」
「ああ……何か、メリアヴィスタと遊んでいるみたいだな。
大したメイド連中だ、主人の教育が悪いんじゃないか……?」
対峙して分かる、圧倒的な迫力。
そして、目の前の全てを足下に跪かせるような悪魔の魅力。
これが、淫魔の女王――その存在に圧倒されつつも、俺は余裕を演じるしかなかった。
「まさか、メリアヴィスタがああ動くとは――現実は、チェスのようにはいかないものね。
メリアヴィスタを惹き付けたのも、あなたの実力の一環。運が良い――とは言わないわ」
余裕めかし、マルガレーテは笑う。
これだけ広間が破壊されているにも関わらず、目の前の少女は無傷。
こんな怪物に、俺達が太刀打ちできるだろうか――
「さて……とりあえず、私の足下に跪きなさい。そうすれば、ご褒美に甘い快楽を与えてあげるわ」
おもむろに、マルガレーテは不遜な口を叩いた。
これから戦う相手に、いきなり跪いたりする馬鹿がどこにいるか――
「ぐ……!?」
頭の中で、ぞわぞわと何かがうずく。
このまま、マルガレーテの足下にひれ伏したい、と――
そんな欲求が、唐突に頭をもたげてきたのだ。
「どうした、啓……!?」
俺の横で、困惑した様子を見せるウェステンラ。
そして、俺は――
「ぐ……ふざけるな!」
誘惑をはねのけ、俺は怒鳴っていた。
「あら……申し訳ないことをしたわ。これでも淫気を抑えているのだけれど、あなたの感情を乱してしまったようね。
あまりに強大な力も、時として考え物だわ――特に、じっくり遊びたい場合は」
マルガレーテは、俺にくすくすと微笑みかけ――そして、ウェステンラへと視線を移した。
その瞳が、やや厳しさを帯びたようにも見える。
「……あ、姉上……」
ウェステンラはというと、びくっと身を竦ませていた。
マルガレーテの鋭い視線を受けた、ただそれだけで――
「ウェステンラ――あなたは、何をしに城に戻ってきたのかしら……?」
「そ、それは……」
ウェステンラは明らかに気圧された様子で、床へと視線をやった。
「ど、どういうことなのです……姉上は、なぜ――」
床に視線を落としたまま、ウェステンラは言葉を濁らせる。
「ウェステンラ――私は、あなたと話をしているの。あなたは、床と話をしているのかしら……?」
「あ、姉上……」
ウェステンラは、おずおずと様子を伺うかのように視線を上げた。
――怖じ気づいている、というレベルではない。
これではもはや、主従関係だ。
「相変わらずねぇ、ウェステンラ……私を殺しに来ておきながら、まともに顔も見られないの?
やはりあなたは、私に反抗なんてできない――顔色を伺うだけの存在。つまり、私の人形でさえいればいいの」
「ち、違う……! 私は――」
「……まともに取り合うな、ウェステンラ」
俺はライフルを構えながら、ウェステンラとマルガレーテの間へと割り込んだ。
こんな会話を続けさせていては、向こうにペースを握られる一方だ。
「さっきと同じ戦法で行く。俺はオフェンス、お前は魔術でサポートだ……分かったな」
「あ、ああ……」
俺の背中に回り、静かに精神を集中し始めるウェステンラ。
そんな妹の姿を見据え、マルガレーテはくすくすと笑った。
「随分といい男を見つけたわね、ウェステンラ。あなたのような、自由意志を放棄した人形が――」
「違う! 私は、私の意志で姉上を殺しに来た……!!」
激高しながら、掌に光の玉を生み出すウェステンラ。
そんな魔力の塊を、そのままマルガレーテへと放つ――
「……!」
そして俺が、すかさず追撃を仕掛けようとした時だった。
ウェステンラの放った魔力の光弾が、マルガレーテの体に届くことなく空中で爆発したのだ。
ちょうどそこに、ピンク色のオーロラのようなものが見える。
それは、マルガレーテの周囲をぐるりと取り巻いていた。
「なんだ、あれは――!?」
俺はすかさずアサルトライフルで銃弾を撃ち込んだが、同様に弾かれてしまう。
空中で止められた弾丸は、ぱらぱらと床に転がった。
「ウェステンラ、あれも魔術の類か……?」
「あれは、『イージス』……!」
俺の問い掛けに、ウェステンラは表情を強張らせて答える。
「あらゆる物理攻撃も魔術も遮断する、絶対の魔力防壁――
現在では消息不明となった伝説の盾、『イージスの盾』に込められている魔力だ。
しかし『イージスの盾』無しで、この魔術を発動できるなど――」
「愚か者というのは、なぜそう既成観念に縛られるのが好きなのかしら……?」
マルガレーテは玉座の上で足を組み、余裕めかして笑う。
「この程度の魔術、黴臭い盾など使わずとも発動できるわよ――この私なら」
「ぐっ……!」
魔術の障壁を前に、困惑している様子のウェステンラ。
それを尻目に、マルガレーテは足を組み替える。
「さて――さっきの男も逃げてしまったことだし、今度はあなた達に遊び相手になってもらおうかしら。
もし私をこの玉座から動かせたら、どんな願いでも叶えてあげる。
永遠の命、巨万の富――なんでも思いのままよ。もちろん、私の命でさえも――」
「……勝手に言ってろ」
俺は、こいつと遊びに来たわけではない。片付けに来たのだ――
アサルトライフルの掃射を、俺はマルガレーテに浴びせかけていた。
しかし弾丸は『イージス』とやらにことごとく弾かれ、床へと落ちてしまう。
「ウェステンラ、魔術でサポートしろ!」
俺は、背後のウェステンラに言った――が、返事はない。
「あ、姉上……」
見れば、ウェステンラは完全に気圧されている様子だ。
おそらく――ノイエンドルフ城にいた際、この姉がよほど怖かったのだろう。
反抗することなど、考えてもみなかった――そんな態度だ。
さっきも言っていたではないか、勇気を振り絞ってここへ来たと――
「ウェステンラ! 戦う前から負ける気か!?」
「あ、あぁ……分かっておる!」
ウェステンラは、どこからか弓のようなものを取り出した。
そこに番えたのは、魔力で生み出された光の矢。
それを、玉座のマルガレーテ目掛けて何発も射掛ける――が、やはり効果はない。
銃弾どころか、魔力の矢さえも『イージス』は無効化してしまうのだ。
「退屈ねぇ……弾と光は見飽きているの。もっとスペクタクルな出し物を見せて――」
「……ッ!」
玉座の上でふんぞり返っているマルガレーテに、俺は憤慨せざるを得なかった。
向こうにとって反撃のタイミングなどいくらでもあるだろうに、全く攻撃してこない――
すなわち、『イージス』とやらに苦慮する俺達の様子を見て、遊んでいるのだ。
こうなれば――
「うぉぉぉぉぉぉ……!」
俺は『イージス』に突進するも、それはまるでコンクリートの壁面のように接近をはねのけた。
見た目は透けたピンク色の薄い壁――それなのに、とてつもなく重量感がある。
「ウェステンラ、お前の魔力で破れないか……?」
「今、やっているが……今の我の魔力では……」
光の矢を連続で射掛けつつ、ウェステンラは言葉を濁した。
その額に、大粒の汗が伝う――
「……無理よ、ウェステンラ。あなたのような人形に、『イージス』が破れるはずがないわ」
「わ、私は……人形じゃあ――」
マルガレーテの言葉に、ウェステンラの動きが止まった。
弓を構えているその腕が、小刻みに震える。
「……いいえ、あなたは人形よ。あなたが今まで、自由意志で何かを成したことが一つでもあったかしら?」
「私は、人間に味方して淫魔狩りを――」
「……それは、ただの幼稚な反抗よ。結局のところ、私と逆のことをしているだけ。
つまるところ、あなた自身の意志などではない。単なる私のアンチテーゼ。
その行動にあなたの意志も、意味も、使命感もない――私に反抗しているというポーズ作り。違うかしら……?」
「ち、違う……! 私は、私自身の意志で姉上を殺しに――!」
ウェステンラの言葉を、マルガレーテはいとも簡単にいなす。
「私と別の道を歩む上で、私を殺さなければいけない――そんな幼稚な強迫観念。
それは、本当にあなたの意志? 何のために私を殺すの? 人間のため? 自分のため? その他の何かのため――?
その答えは、あなたの中にはない。自分でも分かっていない。分かるはずもない――そんな理由、最初から存在しないのだから」
「ちが……姉様、私は……」
どんどん弱々しくなっていくウェステンラを、マルガレーテはさらに責めたてる。
「あなたは最初から最後まで、いっさい自分の意志で行動していない――だからあなたは、人形なの。
自分で何も決められない。常に他人に依存し、自分の意志はどこにもない。
その場の状況に流され、状況のままに振る舞い続ける。
私が人間に敵対すれば、人間の味方をし――私が人間を狩れば、あなたは淫魔を狩る。
いわば、ベクトルが逆方向への依存。そんな行動のどこに、あなたの意志があるというの……?」
「……」
ウェステンラは、とうとう床へと視線を落としてしまった。
「ついには、とうとう本末転倒。私と敵対しているという論拠を持って、ここに来た。
来たはいいけど、まともに戦えない。正視もできない。正面切って逆らえない――愚かさ極まるわね、ウェステンラ。
勝ちの覚悟も負けの覚悟もなく、この私の前に立つ――その恥を知りなさい!」
「ひっ……!」
叱られる子供のように、ウェステンラはびくっと体を震わせた。
そして――マルガレーテの鋭い瞳が一転し、まるで母親のように慈愛に満ちる。
「ウェステンラ。あなたの抱く唯一の意志は――私に対する劣等感。
でもね……それを克服するために、私に抵抗する必要などないのよ。ただ、私に従えばそれでいいの――」
マルガレーテは、うつむいているウェステンラへと手を差し伸べた。
「だから――あなたは、私の人形でいなさい。
この城で暮らしていた時と同じように――そうすれば、もう何も怖がる必要もないわ」
「ねぇ、さま……」
ウェステンラはうつむいたまま、まるで動かなくなってしまった。
「……おい、ウェステンラ!?」
俺はマルガレーテに銃口を向けたまま、背後のウェステンラに呼び掛ける。
しかし黙りこくったまま、まるで返事はない――
「……おい、どうしたんだ!」
それでも微動だにしないウェステンラに、俺は――
「さあ、私の人形に――」
「――うるさい、少し黙ってろ」
俺は、苛立ち混じりにマルガレーテの言葉を封じていた。
こんな奴に分かるものか。
ここに来るまで、どれだけウェステンラが苦しんでいたのか――
そして――
俺は、呆けるウェステンラの片面を平手で張り飛ばした。
「あんな言葉に惑わされるな。お前は今、ここに立っているんだろうが――」
「わ、私は――」
頬をはたかれ、ウェステンラはわなわなと震える。
「私は、もう……怖くて……」
「……俺だって怖い。あいつは、俺の見てきた中でも最悪の化け物だ」
そう言いながら、俺は淫魔の女王に向き直った。
マルガレーテは余裕の笑みを崩さないまま、こちらを楽しそうに眺めている。
「あんな化け物に挑む決意をしたのは、紛れもなくお前だろうが。
その道を選んだのもお前自身だし、ここまで突き進んだのもお前だ。そんなお前が、人形であるはずがないだろう?」
「人形ではない……? なら、私は……なんなんだ……?」
「仕方ない、認めてやる――お前は、俺の相棒だ」
あくまで、淫魔と戦うときのサポートとして。
淫気などは、こいつがいないと中和できないからな――そういう意味での相棒だ。
「け、啓……」
「分かったら、とっととあのバケモノを叩きのめすぞ。俺も付き合ってやる」
そして俺は、あらためてマルガレーテへと向き直った。
「……すまない、啓。もう、二度と我は迷ったりしない――」
「……当然だ。あんなヘマ、二度も三度もやったら本気で怒るぞ……!」
そう言いながら、俺はマルガレーテに挑み掛かった。
素早く位置を変えながら、銃弾をフルオートで浴びせかける。
どこか脆いところはないか。思わぬところに弱点はないか――
「そういうことだ、姉上……! もう、あなたの人形であった頃の我ではない!」
そしてウェステンラも、光の矢を連続で撃ち込んでいく。
今は通じなくても――必ず、どこかに『イージス』を打ち破る糸口はあるはずだ。
「確かに――『心』は随分と成長したようね、ウェステンラ。でも――」
『イージス』で全ての攻撃をはね除けながら、マルガレーテは告げる。
「――その『器』の方は、随分と粗悪なようねぇ。この決戦に、本来の『器』の回復が間に合わなかったのかしら?」
「ぐ――!」
攻撃の手を緩めないながらも、唇を噛むウェステンラ。
器――確かメリアヴィスタも、似たようなことを言っていたはずだ。
「……どういうことだ、ウェステンラ?」
「一言で言えば――二百年前、姉上に負わされたダメージはまだ回復していないということだ」
「なるほど……そういうことか」
道理で、大層な家柄の淫魔なのにも関わらず、実力が伴っていなかったはずだ。
「私の見たところ……その『器』は、そこらの上級淫魔程度というところかしら?
百八姫クラスになれば太刀打ちすることもできず……女王級なら、足下にも及ばないわ」
全ての攻撃を『イージス』で掻き消しながら、マルガレーテは勝ち誇っていた。
いくらなんでも、この防御壁は強力すぎる。
なんとか、破る手だてはないものか――
「どうにかならないのか、ウェステンラ――?」
「……世の中に、『絶対』というものはない。よって、『絶対』防壁というのもハッタリだ。
『イージス』の防御力を上回る魔力や破壊力をぶつければ、破壊できるはずだが――」
「……ええ、その通りよ」
ウェステンラの言葉を、マルガレーテが引き継いだ。
「さっき、あの男はそれをやってのけたわ。
光学兵器というものを使用して、この『イージス』を一回は破壊した――結局、それ以上のことは出来なかったけれど」
「そうか……このフロアがボロボロなのは、そういうことか……」
このフロアの惨状を、俺はようやく理解した。
そして――『イージス』を破るには、その規模の破壊力をぶつけなければいけないということか。
「手持ちの火器じゃ、さすがに厳しいか……」
「ぐ……助けでも、来ればいいのだが――!」
光の矢での攻撃を繰り返しながら、ウェステンラは弱音を吐いた。
「もはや、仲間など来ない――分かっているでしょう? 世の中、そんなに都合良く出来ていないと――」
マルガレーテは、疲れの見え始めた俺達を勝ち誇った表情で見据える。
「覚えておきなさい。そう都合良く、勝利の女神は微笑みはしないわ――」
そうマルガレーテが断じた、その時だった。
「――違うわね、淫魔の女王」
不意に、頭上から声がした。
突如、頭上に残っていた天井のガラス板が割れ――粉々の欠片となって、広間へと降り注ぐ。
「覚えておきなさい――勝利の女神とは、常に都合良く現れるものよ」
きらきらと光を反射し、舞い散るガラス片――それと共に、一人の美しい女性が降り立った。
「あ、あいつは……!?」
沙亜羅――とかいう少女に似ているが、少し違う。
前に見たときより大人びている――というよりも、明確に年を取っている。
あの時は十代半ばから後半といった風だったが、今は二十代半ばといったところか。
そしてその背には、蝶のような虹色の羽根が備わっていた。
「どういうことだ、お前。人間じゃなかったのか……?」
こいつは確かに人間だと――そう、ウェステンラは断言したはずだ。
当のウェステンラも驚いた顔をしているところからして、予想外だったらしい。
つくづく、当てにならない奴だ――
「私はアレクサンドラ・ハイゼンベルグ。サーラの姉にして、その身に棲む女――」
突然にその場へと下り立った美女――アレクサンドラは、玉座のマルガレーテを見据えた。
「なるほどねぇ……遺憾ながら、しばらく女王の名は控えておくわ。
あなたの位置に、この私が届くまで――それまでは、『勝利の女神』の名でも冠しておこうかしら」
アレクサンドラの言葉を受け、マルガレーテは艶やかな微笑を浮かべる。
「ふふ……あなたが、H-ウィルスの変異体淫魔ね。その不遜さのみ、女王級であると認めてあげる……」
「ふふ……ありがとう、女王……」
「どういたしまして、女王……」
にこやかな笑顔のまま、アレクサンドラとマルガレーテの間で激しい火花が散る。
俺は、そんなアレクサンドラの背中に銃口を向けた。
「……どういうことだ、お前。敵か、味方か……? どちらに加勢しに来た……?」
「もし私がマルガレーテの側だとしたら、わざわざ加勢に来ない――すでに勝敗は決まっているのだから。
……つまりは、そういうことよ」
「味方なら味方だと、素直に言え」
「ええ、味方よ……」
アレクサンドラは素直に言うと、マルガレーテの方に向き直った。
「じゃあ、行くわ……私に続きなさい!」
おもむろに、前方へと腕をかざすアレクサンドラ――
すると――緑色の粘液のようなものが、周囲の床からじゅるじゅると染み出してきた。
それはみるみる量を増し――津波のように、マルガレーテ目掛けて押し寄せていく。
「……やれやれ。いきなり出てきて、命令か」
ウェステンラも加勢し、光の矢を雨のように放っていた。
そして、俺はというと――
「ちっ……俺が一番火力不足か」
そう呟きながら、アサルトライフルの弾丸を叩き込む俺。
弾薬を温存しようかとも考えたが、黙って見ているわけにもいかない――
「ふふ……面白いわね。もっと、私に見せなさい。あなた達の力を……」
マルガレーテは余裕の表情を崩さず、玉座で足を組み替える。
その『イージス』にのしかかるように覆い包み、ぎしぎしと圧力を掛けるアレクサンドラの粘液。
「ぐ……! なんて強固な壁……!」
両腕をかざし、その粘液を操作するアレクサンドラ。
渾身の力を込めているようだが、それでも『イージス』は崩せない。
その状態で、ウェステンラの放つ無数の矢を浴びてなお――
『イージス』は、壊れる気配がまるでないのだ。
「ぐ……信じられん防御力だな」
息を乱しながら、ウェステンラは言った。
「ええ……計算外ね。まさか、これほど強固だとは――」
自信たっぷりに現れるも、早くも弱音のアレクサンドラ。
しかし、その様子はいくぶん余裕が残っている風だ。
まさか、何か策でもあるのか……?
「そろそろ終わりのようね。では、私の方からも攻めさせてもらおうかしら――」
おもむろにマルガレーテが言った、その時だった。
不意に、グラグラと地響きが起こる。
その揺れはフロア全体を支配し、柱や壁が崩れ出した。
「な、なんだ……!?」
そして、次の瞬間――床や壁から、人間の胴体ほどもある巨大な触手が這い出したのだ。
それはにゅるにゅると蠢きながら、俺達の方へと襲い掛かってくる――
「くっ……!!」
俺の体を巻き取ろうとした触手を、素早く後方に飛び退いてかわす。
他にも、唐突にフロアに浸食してきた触手は十本以上――
これは、マルガレーテの攻撃か……?
――いや、違う。
無数の触手は、マルガレーテの方向にさえ攻撃しているのだ。
その巨大なムチのような一撃さえ、『イージス』で軽く防いでいるが――
「な……なんなのだ、これは!?」」
ウェステンラも、すばしっこく身をかわしながら困惑している様子だ。
しかし、一人だけ全く触手の攻撃を受けていない者がいる。
アレクサンドラ――彼女は触手の荒れ狂う広間にて、涼しげに立っていたのだ。
そして――
「……女王が命じる。ネメシア、あの者を滅ぼしなさい――」
静かに、しかし威厳をもって――アレクサンドラは、何者かに向かって命じた。
すると――
「な、何だと……!?」
「これは、どういうことだ……!?」
俺とウェステンラに伸びていた触手が攻撃目標を変え、マルガレーテの方へと伸びたのだ。
その巨大なムチのような攻撃が、二度、三度と『イージス』を直撃する。
「それでは効果はないわ、ネメシア――全力でいきなさい」
「……」
すると、広間の一点に無数の触手が集まり始める。
それは複雑に絡まり合いながら縮んでいき、一人の女性の姿となった。
そこに立っていたのは、細身で長身、拘束服姿の美女――
「おい、アレクサンドラ……! いったい、どうなってる……!」
「この子はネメシア……味方よ。女王の私がいる限りはね――」
ネメシアと呼ばれたそいつは、マルガレーテと対峙していた。
この奇妙な化け物は、アレクサンドラの命令を聞くようだ――
「ヴェロニカ……こんな祝福されないモノまで造ってしまうなんて。つくづく、神を呪っているようね――」
ネメシアを前にして、そう呟くマルガレーテ。
そしてネメシアは、その両腕を巨大な触手に変えて――マルガレーテへと叩きつけていた。
「ぐっ……!」
その衝撃と風圧だけで、側にいた俺でさえ身じろぎしてしまうほどの一撃。
どうやらネメシアとやらは、この細身の形態である時が最も実力を発揮できるらしい。
しかし、それでもなお――『イージス』は、破れなかった。
「これでも無理なのか……!? いったい、どうやったら――」
「確かに、バラバラに攻撃していては難しいようだな……」
ウェステンラは、おもむろに言った。
「皆の者。これから我は、全生命力を魔力に変えて『イージス』にぶつける。
お前達も、それに合わせてありったけの力を叩きつけてくれ――」
「集中同時攻撃ってわけか……」
もう、それしかない。
これだけの数で、同時に攻撃をぶつければ――『イージス』も、壊れるかもしれない。
それでも無理だったら――もはや、絶望だ。
「アレクサンドラ、ネメシア……頼むぞ」
目を閉じ、精神を集中させながら――ウェステンラは言った。
「ええ……これが、最後の一撃ね。ネメシア、頼んだわよ……」
アレクサンドラは軽く髪を掻き上げると、ネメシアに視線をやった。
「……」
そして、静かに頷くネメシア。
女の形をした三人の妖魔は、それぞれ力を集中し始める。
「行くぞ、姉上! 我が力の全てを乗せた生命の矢、受けるがいい――!」
太陽のごとく光り輝く魔力の矢を、ウェステンラは弓に番える。
「範囲極狭、零距離射程――狙いは定まったわ」
カメラマンがやるように両手の親指と人差し指で長方形を作り、その中央にマルガレーテを捉えるアレクサンドラ。
ネメシアの右腕は、びきびきと筋肉の塊に変貌していく。
十メートルほどに肥大した、巨大な右腕――その拳が、ゆらりと振り上げられた。
「ふふ……こういうのが最も楽しいわ。あなた達の全力か、私の『イージス』か――いざ勝負、という趣向ね」
その三人と対峙しながら、マルガレーテは笑う。
そして、俺は――
次の瞬間、三人は動いた。
周囲を照り付けるほど熱い生命の矢が、マルガレーテ目掛けて放たれる。
範囲を絞られ、破壊力を凝縮した粘液の大海嘯が、正面に直撃する。
ネメシアの肥大した右腕が、まるで神の鉄槌のように振り下ろされる――
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃と爆発、そして閃光が場を染め上げた。
びりびりと空間自体を震わすインパクト。吹き飛ばされそうな風圧。
マルガレーテの周囲の床や壁が砕け、瓦礫が爆散していく。
そして――
ぴしり、と『イージス』の表面にヒビが入った。
そのまま、散々に俺達の攻撃をはね除けてきた障壁は、ガラス細工のように砕け散ってしまう。
「まさか――」
ほんの僅かながら、驚色が浮かぶマルガレーテの顔。
その瞬間にはすでに、俺はマルガレーテの間近にまで踏み込んでいた。
俺が息を潜めて狙っていたのは、『イージス』破壊と同時の奇襲。
ナイフを抜き、玉座に座るマルガレーテの白い首筋に目掛けて――
ふ……とマルガレーテの目が細まった。
そして、その右腕がナイフを構えた俺の方へと伸びる。
触れたら瞬時に堕とされる、淫気のこもった右腕。
俺の動きを予測していたのか、明らかに反応が早い――
「ぐ――」
――しまった。完全に、隙を突いたはずなのに――
マルガレーテの右腕は、そのまま俺の体に触れようとする――
「……!?」
その瞬間、視界右上方に奇妙なものが目に入った。
天井に上がったまま瓦礫に身を隠し、スナイパーライフルを構えている男の姿――
――あれは、深山優か?
「……ッ!?」
時を同じくして、マルガレーテもそいつの気配を察知する。
「まさか、伏兵――?」
同時に、その場に轟く銃声。
俺を掴もうとしていた右腕が、不意に別方向へと向かった。
それは、背後の深山優に向けられ――発射された銃弾を掌で受け止めたのだ。
「うぉぉぉぉぉぉぉ――!!」
まさに、一瞬。
そのまま俺は、マルガレーテ目掛けてナイフを振り抜いた――
「く……!」
ふわり……と、マルガレーテの小さな体が舞った。
玉座の肘掛けに手をつき、そのまま軽く跳ねたのだ――
まるで胡蝶のように宙を舞ったマルガレーテは、玉座から三歩ほど離れたところに着地する。
「……」
そのマルガレーテの右頬に、微かに傷が入り――そこから、うっすらと血が滲んだ。
まるで時が止まったかのように、誰もが言葉を発さない。
俺も、ウェステンラも、アレクサンドラも、ネメシアも、天井の上の深山優も――
ただ固唾を呑んで、マルガレーテに視線をやっていた。
とうとう、淫魔の女王が玉座から動いたのだ。
マルガレーテ自身は、それを「負け」と定義した――
それができたら、どんな願いでも叶えてやると豪語した――
そして今、マルガレーテは玉座から離れたところで、二本の足で立っているのである。