妖魔の城
「私に傷一つ付けることはできないわ、あなたでは――」
「な、何を……!」
僕は完全にペースを握られ、平常心を欠いてしまっていた。
心を見透かされているという苛つきと、圧倒的な迫力。
僕より一回りも小さい少女が、まるで巨大な玉座に君臨する帝王のようにも見える。
「……いいえ。傷一つどころか、私をこの玉座から動かすことさえできはしない」
「ぐ……! ふざけるな!!」
声を荒げる僕は、巨人を相手に恐慌状態で吠える力無き野良犬そのものだった。
それは、圧迫感と絶望感に反抗するような虚勢――
……いや、落ち着け。
マルガレーテの言葉は、僕を惑わすための挑発だ。
向こうの口車に乗らず、自分のペースを取り戻して――
「惑わす……? 淫魔の女王たる私が、人間相手に小手先の心理戦など弄すると思っているの?」
またも僕の心を読み、マルガレーテは余裕めかして言った。
「もし私を玉座から動かすことができたなら――あなたの願いを、なんでも一つだけ叶えてあげるわ。
永遠の命、巨万の富――人間の望む程度の願いなど、私はいくらでも与えることができるのだから」
「じゃあ……あんたの命を貰うってのは?」
普段の軽口を意識し、僕はそう返した。
平静を、今はとにかく平静を――
「女王の言葉に変更はないわ。私の落命を願うなら――それさえも叶えてあげる。
私を、この玉座から動かすことができるのなら――」
「じゃあ、そうしてもらおうかな――」
僕はサブマシンガンを取り出し、その銃口を正面のマルガレーテに向けた。
正直なところ、玉座から動かすの動かさないの――そんな遊びはどうでもいい。
どうせ、僕の平常心を失わせるための戯言だ――
「言ったでしょう、そんな策など弄さないと……これは、あなたと私の楽しい遊びよ」
「……」
――マイペースを保て。聞く耳など持つな。
玉座から動かすことを考えるより、こいつ自身を迅速に始末すればそれで済む――
「ふふ……プロフェッショナルねぇ。そういう思考パターンは嫌いではないわ。
それも、あなたの師父の教えなのでしょう……?」
「……ッ! いちいち、人の思考を読むな!」
正面のマルガレーテに狙いを定め、そのままサブマシンガンを発砲する僕。
フルオートで撃ち出された無数の銃弾が、マルガレーテへと向かう――
「ふふ……」
涼やかな笑みを浮かべ――マルガレーテは、右腕をふわりと優雅に振った。
その瞬間――彼女の前の空間に、ピンク色のオーロラのようなものが現れる。
まるで、マルガレーテの周囲にカーテンを引いたかのようなピンクの障壁。
それが、サブマシンガンの銃弾を全て受け止めてしまった。
数十発以上の弾丸はオーロラもどきに弾かれ、ただの一発もマルガレーテに届かなかったのだ。
「なんだ……? 何をやったんだ……!?」
「絶対防御魔術『イージス』――あらゆる物理攻撃や魔術を遮断する、究極の魔力防壁よ」
ピンクのオーロラを自身の周囲に張り巡らせたまま、マルガレーテは告げた。
「つまり――この『イージス』を破らなければ、私に指一本触れることはできない。
私の命を奪うことも、ましてや玉座から動かすことも――」
「へぇ、そいつは凄いね……」
究極の魔力防壁――それは、マルガレーテが自分で言っているだけの話。
ならば、試してやる――
僕はライフルを取り出し、銃口をマルガレーテに向けた。
「脆弱ねぇ……そんな玩具で、『イージス』は破れないわ」
「とりあえず、試してみる主義でね――」
正直なところ、ライフルでも大した効果があるとは思えないが――
『切り札』を作動させるより前に、色々と試しておいた方が良いのは当然の話。
『イージス』とやらで『切り札』が防げるとは思えないが、計算外の事態はなるべく防ぎたい。
変な回避手段があっては困る。まずはマルガレーテの引き出しを見ておくべきなのだ――
「よし。これはどうだ……?」
そのまま、二度三度とライフルを射撃する僕――マルガレーテは玉座の上で微動だにせず、回避する様子もない。
そして――当たり前のように、銃弾は『イージス』の絶対防壁に防がれた。
「なるほど……」
一つ、分かったことがある。
ライフル弾が通じないことなどは、予想通り。
重要なことは、マルガレーテの心持ち。
こいつは『イージス』の性能を過信するあまり、回避する気はまるでないようだ。
つまり――『切り札』も、おそらくマルガレーテは『イージス』で防ごうとするはず。
瞬間移動などで回避する――そうした手段は取って来ない、すなわちこれは勝機だ。
「よし――」
『切り札』を使おうとした、その時だった。
「ふふ……じゃあ、少し遊んであげるわ」
玉座の上で脚を組み替え、おもむろにそう告げるマルガレーテ。
そして彼女は指を鳴らし、周囲に展開していた『イージス』を解除したのだ。
「え……?」
これは、攻撃チャンスなのか――?
いや、違う。
僕は勝手に、マルガレーテは防御に専念していると思い込んでいただけだ。
向こうから、攻撃は仕掛けてこないと――僕は、愚かにもそう思い込んでいたのである。
「来なさい、炎龍――」
そして――マルガレーテは、短く呟いた。
その次の瞬間、玉座の前に現れる大きな魔法陣。
そこから――身をうねらせ、巨大な炎の龍が出現したのである。
「ちょ……、そんな……」
広間全体に吹き付ける凄まじい熱気と、その見上げるほどの巨体――
僕は、思わずあんぐりと口を開けてしまった。
あれは、マイが一分近くも詠唱した末に呼び出した召喚龍。
それをマルガレーテはろくに詠唱もせず、名を呼んだだけで瞬時に呼び出してしまったのだ。
なんという反則、なんという無茶苦茶さ――
「う、うわぁぁぁぁぁ……!」
そして召喚された炎龍は、その身を轟かせながら僕目掛けて突っ込んできた。
「ぐ――!」
とにかく逃げるしかない。
さっきのマイの時は、一本道の通路で逃げ場はほとんどなかったが――
今回は幸い、だだっ広い『星見の間』。逃げるスペースには不足しないのだ。
「あ、うわぁぁぁ――!」
必死で足を動かして逃げる僕を、炎龍は方向転換して追いかけてくる。
立ち並ぶ柱の間を縫って、ホーミングしてくる巨大な炎の塊――
「ふふ……」
そんな僕の様子を見て、くすくす笑うマルガレーテ。
間違いなく、あいつは遊んでいるのだ。
小動物の入った水槽に水を注ぎ、慌てふためく様を楽しむように――
「ぐっ……!」
僕の足よりは、空中を泳ぐ炎龍の動きの方が少しだけ速いようだ。
そのまま背中に迫ってくる炎龍、背中に浴びせられる凄まじい熱気――
「うぉぉぉぉ……!」
炎龍が突っ込んでくる瞬間、僕は真横に飛び退いた。
なんとか直撃を免れた僕は、ゴロゴロと床を転がる――
そのまま炎龍は大理石の床へと突っ込み、ドロドロと石面を溶かしながら穴を穿っていく。
凄まじい熱量を発散しながら、炎龍は消滅してしまったようだ。
「ふぅ。なんとか凌いだぞ、マルガレーテ――」
「……あら、そう」
腰を上げた僕は、次の瞬間に信じられないものを目にした。
「そ、そんな……?」
「なら、もう一匹……」
なんと魔法陣から、先程のものと同じ巨大な炎龍が出現したのだ。
「れ、連発……!?」
これほどの召喚魔術を、連発できるなんて――
熱気を吹き散らしながら迫ってくる炎龍を前に、またも僕は駆け出さざるを得なかった。
「ぐぅぅ……!」
さっきのように、ギリギリで避けるなんて何度も出来る事じゃない。
こうなれば――
「うぉぉぉぉぉ……!」
その背に炎龍を引き連れながら、僕はマルガレーテ目掛けて猛然と突進していた。
このまま、炎龍をマルガレーテにぶつけてやる――
「あら――」
マルガレーテが、軽く手を振ると――
途端に、僕の背に迫っていた炎龍が弾けて消えた。
「うあっ……!」
熱の塊を散らしながら背後で消散し、僕は弾き飛ばされてしまう。
「ふふ……色々と考えつくのねぇ。
脆く弱い人間だからこその機転、その生への執念は実に面白いわ」
マルガレーテは、地を這う僕を眺めてくすくすと笑った。
ともかく――二度目も、なんとか避けきったのだ。
マイの時のような一本通路ならともかく、これだけスペースがあれば多少の連発はさばききれるはず――
「じゃあ――来なさい、炎龍。五匹ほどね」
「……なっ!?」
おもむろに、魔法陣から姿を現す五体の炎龍。
さっきの炎龍と同じ豪壮な姿が、並んで五つ。
その凄まじい熱量に、周囲の空気はまるで煮えたぎるようだ――
「そ、そんな……」
それは、あまりにも現実離れした光景。
ここまでの召喚龍を、同時に五体呼び出すなんて――これが、女王級淫魔の実力。
こんな相手に、まともに太刀打ちできるはずがない――
「う……うわぁぁぁぁぁぁ!!」
そして――五体の炎龍が、激しく轟きながら広間の中を荒れ狂った。
炎の胴体を振り乱しながら、熱風を撒き散らせて――
「こ、こんなの――」
これは、避けることなど不可能。
いっそ回避は捨て、マルガレーテに特攻するか――
そう考えた僕の視界に、さっきの炎龍の激突でできた床の穴が映った。
炎の性質から考えて、あそこに飛び込めばダメージは少ないはず――
「ぐっ、ここは――!」
僕は、さっきの炎龍がぶち抜いた床の穴に飛び込んでいた。
深さにして2メートルほど、中で身を屈めるにはちょうどいい。
まさにそこは、偶然に出来た防空壕そのもの。
その中で息を潜め、『星見の間』内で荒れ狂う五体の炎龍が消えるのを待った――
「く……あちち……」
服の背中部分がチリチリと焼け焦げたものの、何とか乗り切ったようだ。
しかしこれも、窮場の一策。ここをピンポイントで狙われれば終わりである。
「あら……今度は、モグラの真似事? 次は、何を真似てくれるのかしら――」
「悪いけど――そこまでサービス旺盛じゃないさ」
僕は穴から身を乗り出し、グレネードランチャーを構えた。
そして、玉座の上で余裕風を吹かしているマルガレーテに弾頭を撃ち込む。
「私に届かないと――学習したでしょう?」
再び、マルガレーテの周囲にピンク色のオーロラが発生し――弾頭を空中で破裂させてしまった。
そこからもうもうと白い煙が発生し、周囲は煙幕に包まれる。
さっきの弾頭は攻撃用ではなく、発煙弾だったのだ。
「ふふ、面白いわね。こういう遊びは好きよ――」
「……そうかい」
僕は素早く穴から這い出し、柱の影へと移動した。
心を読める相手に煙幕が有効とは思えないが、少しでも惑ってくれれば――
「さて……どこかに隠れたかしら……?」
煙幕の向こうで、マルガレーテの掌が光るのが分かった。
同時に、さっきまで僕がいた穴のところで小規模な爆発が起きる。
続けて、少しずれた位置で二度三度――
その小さな掌がきらめくたび、小さな爆発が巻き起こっているのだ。
「……ッ!」
どうやらマルガレーテは、煙幕の中を適当に攻撃しているようだ。
さて――これ以上戦いを長引かせたところで、勝機を失う一方。
僕が一番確かめたかったこと――瞬間移動などの魔術を用いての回避はないことは分かった。
マルガレーテはあの『イージス』に絶対の自信を持ち、どんな攻撃に対しても動かずに防ごうとするはず。
いよいよ、『切り札』を使う時が来た――
「……」
僕が道具入れから取り出したのは、拳銃のような形状をした小型器具。
それを構え、マルガレーテの方に銃口を向ける。
すると――器具の銃口部から赤外線レーザーが照射され、『イージス』を突き抜けてマルガレーテの体に当たった。
「あら……これは?」
レーザーを浴びながら、目を丸くするマルガレーテ。
想像通り、殺傷能力を持たない程度の光量なら『イージス』を透過することができるようだ。
光さえ完全遮断してしまえば、絶対防壁の向こうは見えなくなってしまうのだから――それも当然の理屈である。
「このか細い光が、あなたの『切り札』なのかしら……?」
「……」
マルガレーテの問いかけを無視し、後はただ待つのみ。
当然ながら、この赤外線レーザー自体が殺傷能力を持っているわけではない。
この赤外線レーザーは、ターゲットの認識用。
これで地表上の座標を測定し、そして発射準備に入るのだ。
衛星軌道上に待機している衛星光学兵器、『パルジファル』が――
「……」
レーザーを当ててから五秒後に、照射が開始されるはず。
焦点温度は2万5千度、攻撃半径は20メートル。
直射範囲内の全てを蒸発させる、人類史上最強の光学兵器だ。
『イージス』さえ突き抜け、マルガレーテを消滅させるはず――
あと、四秒――
「……どうしたのかしら? この光はまやかし? それとも――」
白煙で満ちた部屋に視線を這わせながら、余裕の表情で語るマルガレーテ。
こいつの敗因は、あまりにも自身を過信しすぎたことだ――
あと、二秒――
「変ねぇ。これは攻撃の光ではない、だとすると――」
「……」
柱の陰で、僕はじっと息を潜めるのみ。
今のマルガレーテの位置だと――攻撃地点から、40メートルは距離を保っている。
だだっ広い部屋が幸いし、自分まで巻き込まれる恐れはない。
あと、一秒――
「……まさか――!?」
不意にマルガレーテは、頭上を見上げた。
まずい、気付かれたのか――
いや、それでも動く気配はない。
ただ、頭上を睨み――
0秒――
その刹那、全てを焼き尽くす極大の光が天から降り注いだ。
直径40メートルにも達する極大のレーザーが、大気圏外からノイエンドルフ城『星見の間』――マルガレーテを一撃したのだ。
それはまるで、神の雷のようでもあった――
「う……ぐぁ……!」
柱を壁にしていたにもかかわらず、凄まじい爆音と衝撃波が僕を襲う。
視界に焼き付くかのような強烈な閃光、太陽を間近に控えたような熱量。
まるで、核爆弾がこの広間の中に落ちたかのようだ。
そして一瞬の破壊の後、場は静まり――
「……す、すごい……」
薄れてゆく白煙の中、僕が目にしたのは予想以上に凄まじい破壊の跡だった。
頭上のガラス張りの天井は、玉座周辺の真上部分がぽっかりと消失している。
まるで、何十メートルもあるコンパスで綺麗に切り抜かれたかのようだ。
衝撃で何本もの柱が倒れ、壁のあちこちにも亀裂が入っていた。
さらに白煙が薄れ、視界に映る床――そこにはぽっかりと、まるで奈落のように穴が開いている。
衛星兵器『バルジファル』の一撃が、上空から城の階下に至るまで大穴を穿ったのだ。
当然、ここにいたマルガレーテもチリ一つ残さず消滅したはず――
「ちょっと待て、これ……位置が――」
その時僕は、奇妙な事実に気が付いた。
衛星光学兵器『パルジファル』によって穿たれた、床の大穴――
それは、マルガレーテのいた玉座の位置から左にズレていたのだ。
「そんな――」
そんなはずはない。
あの赤外線レーザーで解析した座標は、確かにマルガレーテのいた場所。
それなのに、着弾地点がズレているなんて――
「まさか、そんな……」
「――驚いたわ」
白煙が徐々に薄れ、露わになる正面の視界――
ぽっかりと開いた穴の横で、玉座はなおも健在。
そして、そこには淫魔の女王が当たり前のように座していたのである。
「そ、そんな……馬鹿な……」
「さすがの私も、大気圏外から攻撃されたのは生まれて初めてよ。
……初めてというのは、何であれ素敵なものだわ」
「あ、ありえない……まさか……」
まさか――あの『パルジファル』の直撃を、耐えたのか……?
「ええ、その通りよ――」
またしても、マルガレーテは僕の心を読んだ。
「なんとか、『イージス』によって角度を逸らすことができたみたいね。
その代償に、『イージス』は相殺されてしまったけれど――」
「相殺……だと?」
焦点温度2万5千度の極大レーザー光と、防御魔術とやらが相殺。
当のマルガレーテは無傷――こんな馬鹿な話があるだろうか。
「今のは、『切り札』に相応しい威力だったわ。あれを二発連続で撃たれていれば、流石の私でも――」
マルガレーテは、静かに微笑んだ。
「――玉座から腰を上げて、直接避けなければいけなかったわ」
「ぐ……!」
それでも、玉座から動いて避けるだけ――その程度なのか。
――信じられない怪物だ。
いくらなんでも、『パルジファル』を防ぐなんていう事態は想定していない。
砲身冷却のため、二発目の発射にはあと三十分以上待たなければいけないのに――
「あら、そうなの……残念ね。二発目を撃てずに、あなたは終わってしまうわ――」
くすり……とマルガレーテは笑った。
絶対に知られてはならない事実さえ、心の中から探られてしまう――
もはや、切り札は使えない。
なんとか三十分後に再発射が可能になっても――
「ええ、二度目は通用しないわ。光学兵器であることが分かった以上、いくらでも手の打ちようがあるもの――」
そして、心が読まれているのだ。
これでは、どれだけ策を巡らそうとしても――
「ええ。どんな奇策でも、読まれている限り通じない――」
当然、読まれているのを覚悟の上で、力を持ってねじ伏せようとしても――
「あなたに、それほどの事ができるわけがないわねぇ。
この私を力でねじ伏せるほどの火力、人間の軍隊一個師団を総動員しても適わない――」
読まれている。
読まれている。
何を考えても、全て読まれている――
「ええ。あなたの心は、全て私の手の内にあるの。
淫魔の女王の前では勝機などないことを、分かってもらえたかしら……?」
「う、うぅぅ……」
勝ち誇るマルガレーテを前に、僕はただ惨めに震えていた。
絶対に勝てない者を前にして、ただ無力さに打ち震えるしかないのだ――
「そろそろ、戦意喪失かしら? そのまま屈服すれば、この私がたっぷり弄んであげるわ……」
「ぐっ……!」
僕はライフルを取り出し、マルガレーテに向けて乱射していた。
「う、ぐ……わぁぁぁぁぁぁ……!」
無様な声を張り上げながら、無茶苦茶に撃ちまくる僕。
しかし――撒き散らされた銃弾は、またも出現したピンク色の防壁に遮られてしまった。
「ふふ……御存知、『イージス』よ。少し集中する時間があれば、再発動も容易なの――」
「あ……うわぁぁぁぁぁぁ……!」
困惑と恐怖、そして絶望に駆られるまま、僕はライフルを乱射し続ける。
銃弾は全て、『イージス』に遮られるにも関わらず――
「そんなに取り乱すなんて……ずいぶんと無様ねぇ。
それ以上のことが出来ないのなら、そろそろこの遊びも終わりにしたいのだけれど――」
「あ、あぁぁぁぁぁ――!」
……どうする。
もうダメだ。
勝てるはずがない。
逃げよう。
逃げられるはずがない。
もうダメだ。
どうしようもない。
師父なら――
師父なら、こんな時どうするだろうか――
「う、うぅぅ……」
マガジン内の弾丸を撃ち尽くし、カチカチとトリガーを引く空虚な音が響く。
肩が、腰が、ガクガクと震えているのが自分でも分かった。
このまま恐怖に身を委ね、淫魔の女王に屈服してしまいそうになる。
――それも、仕方がない。
相手は淫魔の女王。人間ごときに、敵うはずがないのだ――
『この世の中に完璧なヤツはいない。生きてる限り、絶対に滅ぼせるんだ――』
そんな声が、ふと頭に蘇ってきた。
「師父――」
あの人ならば、最後まで戦いを投げたりはしない。
相手が何者だろうが、どんなバケモノだろうが、何をしてこようが、何だろうが――師父ならば、戦い抜くはずだ。
だから僕も、最後まで――
「……」
僕は、静かに銃口を下ろした。
淫魔の女王とは言え、生きている。
生きている以上、絶対に滅ぼせる――
「ふふ……とうとう諦めたのかしら? 大人しく、私の餌食になってしまう――?」
「……え?」
――なんだろうか、この違和感。
マルガレーテは、僕の心を読んでいるはず。
それなのに、こいつは何故わざわざ問い掛けてくる……?
何かの挑発――というわけではなさそうだ。
こいつの行動パターンからして、僕の心を先回りして言葉で弄んでくるはず。
それが、今は来ない。
こいつは今、僕の心を読んではいない――
「ふふ……抵抗はしないみたいね。本当に、万策尽きたみたい……」
「……」
やはり――今、僕の心を読んではいない。
なぜだ……?
単なる気まぐれか?
それとも、何か明確な理由が――
「そうか――」
次の瞬間、僕の脳裏にマルガレーテのとある言葉が蘇った。
それは――
「絶対防御魔術『イージス』――あらゆる物理攻撃や魔術を遮断する、究極の魔力防壁よ」
思い返せば、さっきの戦いでも腑に落ちない点が多かった。
マルガレーテは、僕の心を読んでいたはず――
それなのに、明らかに読めていなかった時が何回かある。
例えば、『パルジファル』を発動させてからの五秒。
マルガレーテは、大気圏外でレーザーが発射された瞬間に初めて察知した。
僕の心を読んでいたのなら、『切り札』がどんなものかあらかじめ分かっていたはずだ。
まだ、他にもある。
煙幕で、僕の姿を見失った時――
あの時も、明らかに僕の心を読んでいなかったのだ。
心を読んでいる時、心を読めていない時――その違いは、どこにあるのか。
――そうだ。
その答えは、マルガレーテを守るように展開されている『イージス』。
マルガレーテ本人が言っていたはずだ。
『あらゆる』物理攻撃や『魔力』を遮断する絶対防壁だと――
つまり、『イージス』が遮断しているのは、マルガレーテへの攻撃だけではない。
マルガレーテが放つ、内側からの魔力さえも遮断しているのだ――
「ふふ……何を悩んでいるのかしら?」
『イージス』越しに、マルガレーテは微笑む。
あの行動こそが、今の僕の心を読めていない証。
この事実を、何とか勝利の鍵に出来れば――
「ん……なんだ?」
「あら……?」
不意に、後方――『星見の間』の出入り口から足音が響いた。
階段を駆け上がり、この広間に飛び込んで来たのは――須藤啓と、ウェステンラとかいう淫魔。
まさに、絶好のタイミング。救援が来た今こそ、神が与えれくれたチャンスだ――
「じゃあ……後は任せた!!」
僕はくるりとマルガレーテに背中を見せ、一気に駆け出した。
須藤啓とウェステンラの真ん中をすり抜け、『星見の間』の出口へと――
「おい……お前! 何を考えてる!?」
「き、貴様……いきなり逃げるか!」
僕の背中に投げ掛けられた二人の声――
それを聞き流しながら、僕は広間から飛び出て階段を駆け下りた。
逃げた――わけではない。
これは、あくまで戦術的撤退。
マルガレーテにとって、僕はもう価値のないオモチャだ。
新しく現れた二人と遊ぶ方が、よほど楽しいだろう。
そして計算通り、マルガレーテは僕を追ってなどこなかった。
あの淫魔の女王は、僕が逃げたと思い込んでいるはず。
最後に彼女が僕の心を覗いたとき、敗北感と困惑、恐怖感に支配されていたのだから――
――だが、今は違う。
淫魔の女王にさえ、確かに攻略の糸口はあった。
あの『イージス』を使用している間は、相手の心を読めないのだ。
そればかりか煙幕の際に僕を見失ったことからして、『イージス』使用時は探知能力まで落ちているようだ。
おそらく、魔力の類は全て『イージス』で遮断されてしまうのだろう――
ゆえに魔力を用いた探知は使えず、目と耳に頼るしかないのだ。
この『イージス』の思わぬ穴を、なんとか逆手に取れば――
「よし、ここまで来れば……って、何だこりゃ……!?」
『当主の間』まで戻った僕は、その惨状に度肝を抜かれた。
そこは『星見の間』以上に破壊し尽くされ、柱も壁も床もボロボロ。
いったい、何があったのか――考えているヒマはない。
僕は『当主の間』をも抜けて、廊下沿いの回廊へと足を運んだ。
「……あっ、優!」
僕が廊下に出た瞬間、不意に呼び掛けてくる声。
そこに出くわしたのは――なんと、沙亜羅だった。
「沙亜羅……? なぜ――」
少し考えてみれば、不思議でも偶然でもなんでもない。
目覚めた沙亜羅が最上階へと進み、僕が最上階から下れば――遭遇するのは、当然の道理。
ここは、あの修羅場に沙亜羅が飛び込んでこなかったことを喜ぶべきだろう。
そして当然のごとく、沙亜羅は怒っている様子だ。
「優、よくも――」
「ちょっとストップ! 今、生きるか死ぬかの戦いの途中だ!」
「え……?」
いかに沙亜羅とて、現在の状況が分からないほど馬鹿ではない。
「マルガレーテは今、『星見の間』で須藤啓やウェステンラと戦っているんだ」
そして――彼らも、マルガレーテには歯が立たないだろう。
「大変じゃない、すぐに助太刀に――」
「……正面から行っても無駄だ。太刀打ちできそうにない」
僕は、沙亜羅をたしなめた。
「なら、見捨てるって言うの……!?」
「正面から行っても無駄だ、と言っただろう。つまり――死角から回り込む」
そう言いながら、僕は廊下沿いの窓から身を乗り出した。
下を見れば、ビル百階分くらいのとてつもない高度。
しかし――物怖じしてはいられない。
「『星見の間』の天井は、ガラス張りで丸開きの状態になっているんだ。
だから――この窓から出て、壁を登りつつ『星見の間』の真上に回ろうってわけさ」
自分で言っておきながら、こんな無茶苦茶な作戦に賛同する者がいるはずがない――
これに賛同するとしたら、マルガレーテの化け物振りを直に目にした人間。
あの怪物と正面から戦うくらいなら、ビル百階分の高さでアクロバットする方がよほど安全だ。
問題は、沙亜羅をどう説得するか――
「なるほど……考えたじゃない」
しかし沙亜羅は、あっさりと承諾した。
「へ……? いいのか……?」
「いいのか、って……その作戦、何かマズいことでもあるの?」
沙亜羅はそう言いながら、窓からひらりと身を躍らせた。
そして外壁の出っ張りを掴み――足場になる場所があれば、そこを蹴って跳び上がり――
つま先を食い込ませるほどの窪みがあればステップし、ひょいひょいと外壁を登っていくのだ。
「何してるの、優……置いてくよ!?」
沙亜羅は常備していたらしいフック付きロープを用いて、一気に城の屋上まで上がる。
そして、そこから僕の覗く窓にロープを垂らしてくれた。
「う、うぅぅ……」
僕は窓から身を乗り出し、へっぴり腰のままロープをよじ登る。
「さ、沙亜羅も……恐れるな、この先に勝機はあるんだから……」
「わ、分かったけど……優こそ、大丈夫なの?」
「僕は本来、頭脳派なんだよ……」
沙亜羅に呆れられながら、おっかなびっくり外壁を上がる僕。
なんとか安全な屋上部分まで上がり、僕は一息吐いた。
そして、『星見の間』の真上に移動しながら沙亜羅にざっと説明する。
そこでの熾烈な戦い、『イージス』の驚くべき防御力と、その弱点――
「つまり……隙を見て、マルガレーテを暗殺しようってこと?」
「ああ。『イージス』を使っている最中は、向こうの探知能力は大幅に下がるからね――」
そして僕達は、『星見の間』の真上付近に到着した。
あの広間から見た天井はガラス張りで、そのうち半分は『バルジファル』が吹き飛ばしている。
僕達の目の前に、半分ほど残っているガラス天井が広がっていた。
ここからなら広間の様子がほとんど視界に入り、なおかつマルガレーテからは死角――いいポジションだ。
僕は道具入れからスナイパーライフルを取り出し、腰を落として狙撃スタイルとなった。
「あの二人が、戦ってる……」
沙亜羅は広間を見下ろし、口惜しそうに唇を噛む。
ガラス張りの天井の真下では、須藤啓とウェステンラがマルガレーテと戦火を交えていた。
『イージス』で守られたマルガレーテに、二人は無駄な攻撃を仕掛ける――さっきの僕と、同じ展開だ。
「ねぇ、優。ここから、その衛星兵器をブチ込んだら?」
「いや、『バルジファル』は使えないな。まだ砲身冷却中で再発射できないし……
再発射可能になるまで待ったって、あの二人を巻き込んでしまう可能性が高すぎる。
何より、一度見せた『切り札』なんだ。マルガレーテにはたやすく回避されるさ――」
「なら……このまま、二人が殺られるのを待つつもり?」
沙亜羅は、僕を睨んで言った。
「マルガレーテが攻撃に移る場合、『イージス』を解かなければいけないはずだ。その瞬間を狙って、狙撃すれば――」
「でも……その作戦には穴があるわね」
おもむろに、沙亜羅は言った。
「まず、その瞬間はとてつもなくシビア。向こうが『イージス』を解けば、こちらの位置もすぐに把握される。
つまり、『イージス』を解いた瞬間を狙わなければいけない――少しでもタイミングを外せば、それで終わりよ」
「そうだけど、お前……」
「それに、もう一つ大きな問題――おそらく、そのスナイパーライフルの弾丸程度じゃマルガレーテの命など奪えないわ。
せいぜい、怯ませるだけで精一杯――その隙に猛攻を掛けないと、この一発は無駄に終わる」
こんな冷静な分析が、沙亜羅にできるはずがない。
こいつは、まさか――
「仕方ない……私が行くよりないみたいね」
すっくりと立ち上がった少女は、やはり沙亜羅ではなかった。
外見は沙亜羅のままなのに――中身は、アレクサンドラに切り替わっていたのだ。
「アレクサンドラ……いつの間に!?」
「さっき、あなたと合流した時から――気付かなかったのかしら?」
「ぐ……!」
ぬけぬけと、よく言ったものだ。
こいつ、ずっと沙亜羅の振りをしていたのか――
目の前のこいつも、とんでもなく厄介な淫魔だ。
「じゃあ、行くわ――健闘を祈っていてね」
ばさりと、アレクサンドラの背から蝶の羽根が開く。
同事に、足下のガラスが砕け――きらきらと広間内に舞い落ちるガラスと共に、アレクサンドラは室内へと舞い降りた。
「う、うわっ……!」
こんな派手に真上から登場したら、ここに僕が潜んでいることまでバレてしまう――
慌てて身を隠す僕だったが、そんなことは気にならないくらいアレクサンドラの登場は派手だった。
全員の目がアレクサンドラに集中し、一同の注視を一挙に浴びているのだ。
おかげで、屋根裏にまだ僕が潜んでいることに気付かれた様子はなさそうだ。
「……」
僕は再び息を潜め、スナイパーポジションに移行していた。
眼下では、激烈な戦いが始まっている。
弾丸の雨を浴びせる須藤啓に、魔力の矢をもって支援するウェステンラ。
さらに、粘液の津波で攻撃するアレクサンドラ――
その全ての攻撃が、ことごとく『イージス』に防がれてしまっていた。
その間、マルガレーテも攻撃してこないが――
決して、防戦一方などという状態ではない。
単にマルガレーテは余裕綽々で、こちらが必死で足掻く様子を楽しんでいるに過ぎないのだ。
「分が悪いな、これは――」
かと言って、僕までが加勢するわけにもいかない――そう思った時だった。
不意に、背後から嫌な気配がした――
「な……?」
振り向いた僕に襲い掛かってきたのは、壁を伝って屋上まで這い上がってきた触手。
まさか、ネメシアが――
「うわぁ……!」
僕を巻き上げようと迫ってくる触手を、なんとか紙一重で避ける――
まずい、気付かれたか――そう思って眼下を見下ろした僕だが、幸いにもその心配はなかった。
と言うのも、『星見の間』内でも無数の触手が乱舞していて、それどころではないのだ。
「……わっ!」
またしても、僕を捕らえようとする触手――それを、何とか身を屈めてかわした。
「くそ――」
僕は巨大な触手を前に、表情を強張らせる。
このままここにいては、触手の餌食になってしまうだろう。
しかし、この射撃ポジションから動くこともできない――
「……女王が命じる。ネメシア、あの者を滅ぼしなさい――」
不意に、眼下から鋭い声が響いた。
その声は、アレクサンドラのもの――
「え……?」
すると――なんと、目の前の触手がしゅるしゅると消えていく。
そして、触手は全てマルガレーテへと襲い掛かったのだ――
「そうか、アレクサンドラは――」
アレクサンドラは、H-ウィルスの影響下にある者全てを支配する女王。
そしてネメシアもH-ウィルスにより生み出されたクリーチャーである以上、女王の支配下にあるのだ。
「ぐ……! 凄いことになってきたな……!」
眼下の戦闘は、激しさを増す一方。
ネメシアは人型になり、触手での攻撃を繰り出している。
そしてウェステンラも、アレクサンドラも――魔術や粘液での攻撃を浴びせているのだ。
そんな猛攻の前でさえ、マルガレーテの『イージス』は破れない。
まさに絶対防御という肩書きがふさわしい、圧倒的な防御力だ――
「……」
そして人外女性三人は、攻撃の手を止めた。
ここで見ている僕にも分かる――三人は、力を集中させようとタイミングを計っているのだ。
おそらく、これが最後の攻撃。
これで『イージス』を壊せなければ、僕達は敗北する――それが、はっきりと分かった。
「……頼むぞ、みんな……」
スコープを覗き込み、僕は呼吸を整える。
照準を、マルガレーテの頭に合わせる――チャンスは一回きりだ。
そして――アレクサンドラが、ネメシアが、ウェステンラが動いた。
「うぐっ……!」
三人の同時攻撃により、周囲に凄まじい衝撃が駆け抜けた。
こんなに離れた距離にいても伝わってくるほどのインパクトと、目もくらむような閃光。
砕け散る柱や壁、舞い散る瓦礫――そんな中でも、僕はスコープでマルガレーテを捉え続けた。
そして――
「……ッ!」
そこから、まるで場の流れがスローモーションになった気がした。
粉々になって割れる『イージス』。
マルガレーテが見せた、一瞬の困惑。
そして、須藤啓は――その一瞬の間に、ナイフを片手にマルガレーテの眼前まで接近していた。
その刃を、マルガレーテの首に突き立てようとする――
と……マルガレーテが我に返る方が早かった。
その右腕を、迫り来る須藤啓の方へと――
――その瞬間、僕はライフルの引き金を引いていた。
「まさか、伏兵――」
ほぼ同時に、マルガレーテは僕の存在に気付く。
須藤啓に差し伸べられていた右腕を、すかさず後方に回し――
そして、僕が放った銃弾を掌で受け止めた。
そこに――強引にこじ開けられたマルガレーテの隙へと、須藤啓の刃が一閃する。
「く……!」
ふわり……と、マルガレーテの小さな体が舞った。
玉座の肘掛けに手をつき、そのまま軽く跳ねたのだ――
まるで胡蝶のように宙を舞ったマルガレーテは、玉座から三歩ほど離れたところに着地する。
「……」
そのマルガレーテの右頬に、微かに傷が入り――そこから、うっすらと血が滲んだ。
まるで時が止まったかのように、誰もが言葉を発さない。
僕も、アレクサンドラも、ネメシアも、ウェステンラも、須藤啓も――
ただ固唾を呑んで、マルガレーテに視線をやっていた。
とうとう、淫魔の女王が玉座から動いたのだ。
マルガレーテ自身は、それを「負け」と定義した――
それができたら、どんな願いでも叶えてやると豪語した――
そして今、マルガレーテは玉座から離れたところで、二本の足で立っているのである。