妖魔の城


 

 

            ※            ※            ※

 

 

 俺の生まれ故郷は――北海道旭川の山奥、霧花村。

 まるで文明から隔絶するように存在する、数百人規模の小さな集落。

 幼い俺は、そんな片田舎で暮らしていた。

 優しい両親や村人に囲まれた、何不自由ない毎日だった。

 

 両親――その記憶もすっかり霞み、もはやおぼろげにしか思い出せない。

 母は常に和服で、とても美しかったことが記憶にある。

 涼やかな笑みを浮かべ、俺の頭を優しく撫でた――その、どこか寂しげな表情が印象的だった。

 また母は、ムラオサと呼ばれていた人物の一人娘。

 つまり、俺の祖父はムラオサ――村長ということだ。

 周囲から尊敬されていた祖父は、幼い俺にとって自慢の存在でもあった。

 が――その顔も、もうほとんど思い出せない。

 

 父は、東京の大学からやってきた民俗学の教授。

 この霧花村には調査で足を運び、そのまま母と添い遂げてしまったという。

 いつも黴臭い書斎で煙草を吹かしていた覚えがある。

 俺が書斎に足を運ぶと、幼い俺を膝に乗せ――

 各地に伝わる面白い民話や怪談話を教えてくれた、そんな優しい父だった。

 情けないことに、父の顔さえほとんど思い出せない。

 

 そんな穏やかな村落で、幼い俺は小さな幸せを満喫していた。

 それを全てブチ壊したのは――近隣の山に潜んでいた妖魔、妖怪などの化け物ども。

 静かな霧花村を何百匹もの人外が襲撃し――そして、村は阿鼻叫喚の惨劇となった。

 ここから、俺の記憶は真っ赤な鮮血とドス黒い狂気に染まっていく。

 

 

 

 普段は穏やかな村の大通りには、大量の血が飛び散っていた。

 腕を引き千切られ、足を裂かれ――悲鳴を漏らしながら地を這う村人達。

 優しかった隣のおじさんも、牛飼いのお爺さんも、初恋のお姉さんも――

 見知った村人達が、次々に肉塊へと変えられていく。

 人外どもは容赦なく人々に襲い掛かり、その体を引き裂いていく。

 逃げ惑う村人達の中に、幼い俺の姿もあった。

 まだ六歳の俺はあまりに非力で、泣き叫びながら逃げ回るしかなかった。

 

 修験服に赤い顔、長い鼻――天狗のような妖怪が、大きな羽根をはためかせて滑空している。

 その血走った目が、ぎろりと俺の方を向き――そして、地を揺るがすような声で何かを叫んでいた。

 和装に長い黒髪の美女、その肌は氷のように青い――そんな雪女が、ひたひたと道を行く。

 その細い手を振りかざすごとに、人々は次々に氷像へと変えられていった。

 

 「啓……おまえ、だけは……」

 俺をかばうように覆い被さってきたのは、血まみれの父親。

 その広く温かい胸から、段々と体温が――生命が抜け去っていくのがはっきりと分かった。

 俺は父の屍に抱かれながら、何も出来ずに震えていた。

 もう、泣くことさえできなかった。

 

 そして――突如として空を埋めたのは、十機以上ものヘリ。

 そこから次々に降下してきたのは、黒い迷彩服に身を包んだ武装集団。

 彼らは圧倒的な力を持って、村を壊滅させたバケモノどもを葬っていく。

 人外に鉛の弾を叩き込み、ナイフでその体を引き裂き――

 俺にはまるで、救いの神が降り立ったかのように見えた。

 こうして俺は、彼らに保護されたのだ――村のたった一人の生き残りとして。

 

 

 

 「選ぶがいい、少年――」

 

 虚脱する俺に、軍服の女性は問い掛けた。

 あれは確か、保護された直後のヘリの中。

 彼女の年齢は分からないが――おそらく、この武装集団のリーダーだろう。

 「何もかも忘れ、都会の施設で孤児として生きるか――」

 その女性の目が、静かに見開かれた。

 「それとも――我々の仲間となり、人外の者どもから人間を守るか」

 「……殺したい、です」

 歯を食いしばり――唇を噛み締めながら答えた。

 俺は、許さない。

 俺に地獄の光景を見せた連中を――そして、その同胞を絶対に許さない。

 

 「バケモノなんて……みんな、殺してやりたいです……」

 

 

 

 それから、血も滲むような訓練が始まった。

 都会の学校にも通わされたが、それ以外はひたすら訓練の毎日。

 そして訓練を修了してからは――殺し、殺し、殺し、殺し、ひたすらに殺す日々。

 人々を救うためなどではない。

 誰かを守るためでも、被害を最小限に抑えるためでもない。

 俺の中の何かが、ドス黒く染まっていくのがはっきりと感じ取れた。

 個人的感情を晴らすため、任務に没頭し――全身を憎悪に浸しながら、人外どもを駆逐し続けた。

 そんな日々の中で、俺の戦績は高く評価されていき――

 気がつけばチームを率いる立場となり、組織の三強と言われるまでになった。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。

 奴らを一匹でも多く殺せさえすれば、それで十分なのだ。

 俺はまだまだ、人外の連中を殺し足りなかった。

 

 

 

 「隊長は、なぜ戦うのですか……?」

 あれは――ふとした休息の時間だっただろうか。

 俺が隊長を務めるチームの紅一点、マドカはおもむろに尋ねてきた。

 「……いきなり、どうした? 個人的事情には踏み入らないのが組織のルールだ」

 「す、すみません……でも……」

 マドカは表情を曇らせ、静かに首を振る。

 「隊長の戦術行動や指揮は非常に素晴らしいです。的確で、冷徹で、どんな時でも平常心で……

  でもその冷静さの裏に、抑えがたい激情があるような気がして……」

 「……この組織にいる者は、多かれ少なかれ似たような境遇だ。

  ほとんどの奴は、人外の奴らに大切なものを奪われている。親、兄弟、親友、恋人――

  詳しく尋ねるつもりはないが、お前にも何か事情があるはずだ」

 「ええ……そうですね」

 明らかに納得していない様子ながら、静かに頷くマドカ。

 「だから、俺は……いや、俺達はバケモノを狩る。一匹残らずな……それだけだ」

 「その……もしも、の話なのですが……」

 明朗快活なマドカらしくない、煮え切らない前置き。

 その後に、彼女は言葉を続けた。

 「人間に仇をなさない……人間と共存するような妖魔が存在したなら、どうなのでしょう。

  我々は友好的な妖魔に対して、どう対処すればいいのでしょうか……?」

 「……関係ない、狩ればいい」

 俺は、あっさりと答えた。

 「バケモノはバケモノだ、何の権利もない。この世界に、バケモノの居場所など与えない……それだけだ」

 「そう、ですか……」

 うつむいたマドカの様子は、明らかにおかしかった。

 激烈な任務の連続で、心が揺らいでいるのだろうか――

 「マドカ、下らないことは考えないほうがいい。バケモノは、例外なく人間の敵なんだ。

  妙な手心や情けを加える必要など、全くない。殺す対象のことなんて思いやっても――面倒なだけだ」

 俺はその時、そう諭したのだったか。

 その時の俺は、任務の連続でマドカが少々疲れていたのかと考えた。

 ふと、迷いが生じた――それだけだと思っていた。

 彼女をあの凶行にまで追い込んだのは、俺だったのかもしれない。

 

 

            ※            ※            ※

 

 

 「――うう……」

 

 横たわったまま、ぼんやりと目を開ける俺。

 視界に映ったのは、冗談のようにだだっ広い廊下だった。

 大理石の床に赤絨毯、高級そうな柱に豪華なアーチ、壁際に並んでいる調度品――

 そうだ――ここは、妖魔の城。

 淫気に蝕まれ、敵に捕らわれ、激戦をくぐり抜け――俺の体は、散々に疲労していた。

 ウェステンラの強引な勧めで、俺は不本意ながら一休みすることにしたのだ。

 そのまま腰を下ろし、壁にもたれ、倒れ込み――あっという間に、眠りに落ちてしまったらしい。

 「ちっ、しまったな……」

 ウェステンラが見張りをやっているだろうとはいえ、敵地で眠り込むなどあまりに迂闊。

 まあ結果的に体調も万全になったので、良しとするか――

 

 「んん……!? これは……」

 そして俺は、何か柔らかく、ほんのり温かいものを枕にしていたことに気付く。

 「ん……目覚めたか」

 「お、お前――」

 それはなんと、ウェステンラの太股――なんと、こいつの膝枕でぐっすり眠っていたらしい。

 あの金色の瞳が、俺の顔を静かに見下ろしていたのだ。

 「な、何を……!」

 バネ細工のように、俺はがばっと起き上がる。

 たまたま頭を落としたところに、こいつの膝があったのか。

 それとも、横たわる俺の頭の下に膝を割り込ませたのか――

 ともかく、この生意気でプライドの高い小娘が、大人しく膝枕を許していたことが驚きだった。

 

 「……どういう風の吹き回しだ?」

 「悲しい……夢だったな」

 ウェステンラが見せたのは、初めて見るほど神妙な表情だった。

 「お前……人の夢を、覗き見たのか!?」

 「……そんな、悪趣味なことをするつもりはなかった。しかし大きな音は、耳を塞いでも聞こえてくるように――

  貴様の心の揺れは、否応もなく我に伝わってきたのだ」

 「そうか……まあ、別にいいさ」

 別に、過去を知られたからといってどうということはない。

 心の弱みを見られた気がして――あまり、愉快な気分ではないだけだ。

 あれから十年以上も経つのに、いまだ悪夢を見るとは――女々しい自分が嫌になる。

 「お前は――強いな」

 しかしウェステンラは、まるで逆のことを言った。

 「強い……? 俺が、か……?」

 「ああ。だからこそ、貴様を我のパートナーに選んだのだがな――」

 そう呟き、ウェステンラは俺に金色の瞳を向けた。

 どれだけ生意気だ、高慢な小娘だとは思っていても――

 この澄んだ瞳を向けられただけで、思わず動きが止まってしまう。

 つい、見とれてしまう――とは、断じて悟られたくないものだ。

 

 「この城の主――マルガレーテ・ノイエンドルフは、我の姉だ」

 不意にウェステンラは、そう告げた。

 「そうか……」

 「驚かぬのか?」

 「何か、深い関係があるとは思っていた……お前の口振りからな」

 「野蛮人の癖に、鋭いな――」

 力ない笑みを見せた後、ウェステンラは遠くに視線をやった。

 「マルガレーテは、我の母をその手で葬った……ノイエンドルフ城の主、ルーシー・ノイエンドルフをな。

  あれは、二百年前――真夜中のことだった」

 「母親――を?」

 その母親というのは、マルガレーテの母でもあるはず。

 つまりマルガレーテは母を殺し、家督を奪った――そういうことになる。

 「……あの夜に殺されたのは、母上だけではない。

  マルガレーテに服従する数名の従者を除いて、皆殺しにされた。

  五百を超える淫魔が一夜にして死体の山となった、いわばクーデターだな」

 「なぜ、マルガレーテはそんなことを……?」

 「姉上は、当主である母の外交方針に反発していたようだった……

  ……が、詳しくは分からんし、腑に落ちんことも多い。それを確かめるのも、ここに来た目的の一つだ」

 「そうか――」

 つまり、この戦いはウェステンラの私戦でもあったわけだ。

 しかし、俺はそれでもいっさい構わない。マルガレーテのような人外は、ただ狩るのみだ。

 「二百年前のあの日、忘れもしない満月の夜――嫌な予感に、我は目を覚ましていた。

  部屋を出ると、廊下は屍の山。急ぎ当主の間に駆けつけた我を迎えたのは――骸となった母上と、玉座に座る姉上だった。

  その直後、我はマルガレーテに攻撃されて城外に弾き飛ばされ――そのまま、放逐の身だ」

 「それは、大変だったな……」

 実の母親が、実の姉に殺される――目の前の少女が語る、辛い思い出。

 俺には関係ない、下らない話――そのはずなのに、なぜか胸が詰まる。

 心のどこかで、幼い頃に全てを失った自分自身を重ねてしまったのだろうか。

 「それから、いったん人間界に逃れた我は……淫魔狩りを始めた。

  人に仇なす淫魔を刈り取る――まあ、お前と変わらん仕事だ」

 「なぜ、淫魔狩りなんだ……?」

 「姉上の全てを否定したかった……のだろうな」

 軽く溜め息を吐き、ウェステンラは呟いた。

 それは、自分でも納得しかねる風な口調だ。

 「姉上は、人と淫魔との共存を否定していた。我は、そんな姉の思想を否定したい。

  とは言え我自身も、人と淫魔の薄甘い共存共栄など可能とは思えなかった。

  人間同士でさえ共存ができていない現実があるのに、人と異種の共存など夢物語だろう――」

 「……ああ、同意する」

 まして淫魔は、人間を食料――良くて家畜としか見ていないのだ。

 「だから我は、人と淫魔との新たな関係を模索したかったのだ。

  徹底的なギブ・アンド・テイクに基づく相互依存関係。人間界に仇なす淫魔を排除するという形でな。

  ビジネスライクな関わり方なら、愚かな人間や、輪を掛けて愚かな淫魔にも受け入れやすいのではないか――そう思った」

 「まあ、慧眼だな」

 馬鹿な理想主義よりも、よっぽど現実的だ。

 しかしこいつの場合――それだけではないようにも思える。

 姉を否定したいがための淫魔狩り――それは、どこか逃避めいているのだ。

 任務という名目で、ひたすらに人外を狩るという私怨を果たしている俺が言えた話でもないが。

 いや――同じように逃避している俺だからこそ、その匂いが感じ取れるのだろう。

 認めたくはないが、似た者同士――と言ったところか。

 

 「そして今、我はこのノイエンドルフ城へと戻ってきた。

  人間に仇なす存在――マルガレーテを討伐するために。そして、あの時何があったのかを見極めるために。

  思えば、この時のために我は淫魔狩りをやってきたのかもしれん。だが――」

 ウェステンラは、不意に視線を自らの掌に落とす。

 その小さな掌は、僅かに震えていた。

 小刻みに、弱々しく、ぶるぶると……まるで、か弱い小動物のように。

 「だが……怖いのだ」

 「……」

 俺には、何も言葉を発せなかった。

 いつもの生意気さは欠片もない、弱々しい態度。

 それに困惑し、僅かながら同情していたのだ。

 「姉上と、再び相対するのが怖い。あの時、何があったのか――確かめるのが怖い。

  怖くて怖くてたまらない。本当は、このまま逃げてしまいたい――」

 「……」

 おそらく、自身では気付いていないのだろうが――

 こいつは、姉のことを『マルガレーテ』と『姉上』の両方で呼ぶ。

 母の仇を、姉と呼びたくはない。それでも、姉として意識している――

 そんな矛盾した思いが、呼称の不統一となって現れているのだ。

 ウェステンラの心は今、相当にぶれているようだ。

 

 「だが……逃げない。お前がいるからな」

 「……俺が?」

 意外な言葉に、俺は目を丸くするしかなかった。

 「お前は、強い。あれだけの過去と対面しながら、それと直面して戦い続けている。

  我には、お前が輝いて見える――そんなお前がいるからこそ、我は逃げずにここにいる」

 「……買いかぶりだ。俺は、そんなに立派なもんじゃない」

 俺が輝いている――

 そうだとしても、決して他人を導くような温かい光ではない。

 他者も自分も真っ黒に塗り込めてしまうような、漆黒の光だ。

 何もかも暗黒に塗り込め、濁った血のようにドス黒く染まっていく――それが、俺。

 輝かしくなどあるものか。

 「ふ……我らしくない物言いだったな。つまらんことを言った、忘れてくれ」

 「どうでもいいことだ。俺が戦うのは、個人的復讐さ……生まれ故郷、霧花村のな」

 「霧花村……だと?」

 不意にウェステンラは、眉を吊り上げた。

 「……知っているのか?」

 「いや……」

 露骨に声を濁らせつつ、ウェステンラはおもむろに立ち上がった。

 「……さて、そろそろ行くか。体も存分に休まっただろう?」

 「ああ……のんびりしていられる状況でもないな」

 明らかにウェステンラは、何か知っているようだ――が、話す気は全くなさそうだ。

 短い付き合いだが、こういう時は問い詰めても無駄だということは分かっている。

 それに――正直、余計な話は聞きたくなかった。

 「じゃあ、行こうか……!」

 俺は腰を上げ、軽く肩を回す。

 この場所は、ノイエンドルフ城でもかなり中枢に近いらしい。

 当主の間まで、順調に進めばあと10分ほどという話だ。

 この馬鹿でかい城のスケールで考えると、目前と言っていいだろう。

 

 

 

 「……このフロアより上は、マルガレーテの居住空間。これまでの内装とは、少々異なるだろう?」

 「確かに――今までとは違うな」

 ウェステンラの言う通り、このフロアは今までとは趣が違った。

 これまでは、貴族が己の権勢を誇示するような内装。

 ロココ調の豪華絢爛な雰囲気が、これでもかというほど前面に押し出された様相だった。

 しかしこのフロアは、どこかファンタジックな……少女趣味とも言える内装。

 可愛らしい柄のカーペットやカーテン、色彩はピンクや白のファンシー系。

 調度品もぬいぐるみや観葉植物など、少女趣味が全開となっている。

 露骨な貴族趣味はすっかり消え失せ、夢見る少女が己の意のままに飾ったかのようだ。

 「このフロアにある部屋は、全てマルガレーテの遊び部屋。もしくは、収集品の展示室。

  それゆえ、貴重品の盗難を避けるためのトラップも多いのだ。あれを見るがいい――」

 「ん……?」

 ウェステンラが指さす先には、廊下の壁に掛かっているファンシーな鳩時計。

 彼女はおもむろに燭台を掴み、それを無造作に鳩時計へと投げつけていた。

 「おい、何を――」

 その燭台が、柱時計に激突する瞬間――

 不意に、その空間に薄く輝く魔法陣が現れた。

 その魔法陣に包まれ、燭台はその場から消え失せてしまう。

 まるで、魔法陣に吸い込まれてしまったかのように。

 「ウェステンラ、今のは――」

 「――転送トラップだ。触れたものを、別の場所へと飛ばしてしまうというわけだな。

  どこに飛ばされるかは知らんが――お前が飛ばされた場合、我がただちに探知・救援するのは難しい」

 「なるほど。飛ばされた先は牢獄か、サキュバスが待ち伏せしているか……そんなところだな」

 ウェステンラは静かに腕を組み、こくりと頷いた。

 「そういうわけだ。下賤な貴様には珍しいものでも、安易に触れるでないぞ」

 「……馬鹿にするな」

 それくらい、言われるまでもない。

 どこの馬鹿が、敵地に転がっているものにおいそれと触れるものか――

 

 「……むぅ?」

 ぴこっ、とウェステンラの僅かに尖った耳が動く。

 「どうした、敵か……?」

 銃のグリップを握る手に、思わず力を込めてしまう俺。

 しかし、敵の影はまるでなく――ウェステンラは、廊下の片隅をじっと見つめていた。

 そこには、木製のイスに座ったクマのぬいぐるみが飾られている。

 「……くま」

 不意に、たたた……と駆け出すウェステンラ。

 まるで面白いものを見つけた猫のように、ぬいぐるみに向かって一直線だ。

 そのままウェステンラは、クマのぬいぐるみに手を伸ばそうとする――

 「お、おい……!」

 俺はすかさず割り込み、横からその腕を掴んでいた。

 「何を考えてる! さっき、自分で言ったことを忘れたのか!!」

 「しかし……こんなに可愛いくまなのに、ワナなどとは考えられぬ……」

 「……ったく……」

 俺は空になった弾倉を掴み、クマのぬいぐるみの方に投げた。

 それがクマの頭に当たった瞬間――魔法陣が発生し、弾倉をどこかに転送してしまう。

 「……納得したか?」

 「おのれ、姉上……こんなに可愛いくまを囮にするとは、なんと狡猾な……」

 「……」

 前々から思っていたが……やはり、こいつは馬鹿だ。

 俺の二十倍以上も生きているとは思えないほど、脳が足りない。

 怒りを通り越し、気の毒になってしまうほどだ。

 「むぅ……その目……何か、失礼なことを考えているな……」

 「まあ、それなりにな」

 どうやら淫魔というのは、根本的に警戒心というものに欠けているらしい。

 この異様な無邪気さは、淫魔そのものの特質だろうか。

 そう思えば、あのエミリアみたいに恐ろしく隙のない奴までいる。

 結局、淫魔の個性は人間以上に激しいということか。

 そしてこいつは、馬鹿な方だ。

 「……まあ、仕方ないか。そういうものだな」

 「何か――極端に失礼なレベルで考えをまとめおったな」

 「ともかく、そこら辺のものに手を触れるな」

 「……………………はい」

 悔しさを噛み殺しながら、こくりと頷くウェステンラ。

 こうして俺達は、フロアの廊下を進み始める。

 そこらのものに触らないか、ウェステンラの動向に気を払いながら――

 まるで、幼児を引率しているかのような気分だった。

 

 

 

 「……少し待て。先の様子を探るとしよう」

 ウェステンラはおもむろに立ち止まり、静かに目を閉じた。

 その耳が、まるで猫のようにぴこぴこと動く。

 ちょっとだけ、可愛らしい――そう思ってしまった自分が腹立たしい。

 「どうだ? 敵はいそうか……?」

 「喋りかけるな。探知に集中できん――」

 先ほどからこんな風にちょくちょく足を止め、先の様子を索敵しているのだ。

 こういう敵地潜入では、こいつの探知能力は便利なものだ。

 とはいえ、この城内には結界が多く、遠距離の探知は難しいらしいが。

 手持ち無沙汰な俺は、ウェステンラのぴこぴこ動く耳をなんとなく眺めていた。

 

 「やはり……敵の気配は全くないな」

 これまで、何度かウェステンラに探知を任せたが――その結果は同じ。

 敵の姿が全く見えず、非戦闘員さえ見当たらない。

 あちこちに仕掛けられているトラップを覗いて、全く障害はないのだ。

 このフロアに来てからは、いっさいの足止めを食らっていないのである。

 「俺達を素通りさせる気か? もしかして、何かの罠か……?」

 「精鋭のみを残し、ほとんどのメイドや従者などは避難させたのだろうな。

  おそらく、ここより上に残る精鋭は――エミリア、そしてメリアヴィスタあたりか」

 「エミリア……正直、二度と会いたくはない敵だな」

 あの身のこなしと怪力を思い出しただけで、今でも寒気がする。

 だが、今度はウェステンラもいる――二対一なら、なんとか太刀打ちもできるかもしれない。

 しかし、メリアヴィスタが敵に加勢して二対二となったら、かなり厳しい。

 さらにマルガレーテ本人までが加勢すれば――二対三、もはや絶望。

 こちらに深山優と沙亜羅が加わったところで、たかが知れている。

 この戦い、かなり厳しい――

 

 「……少し遠回りをしたほうが、得策かもしれん。貴様の考えはどうだ?」

 おもむろに、ウェステンラは切り出した。

 「遠回り……だと?」

 「ああ。当主の間まで進むルートは三つ。まず一つ目は、大階段を進む正面ルート。もう一つは、従者やメイド用の裏口ルート。

  そしてもう一つは、マルガレーテ用の――いわば、展覧ルートだ」

 「展覧ルート……?」

 「ああ……マルガレーテが退屈なときに散歩がてらフロアを歩き、自身のコレクションを展覧できるようにしてある順路。

  書庫室から入り、第一収集室から第二収集室、そこから昇降機で当主の間まで進むルートだ」

 「なるほど……」

 つまりは、正面通路と裏口以外に、プライベートルームも当主の間と直通しているらしい。

 「このルートはトラップこそ数多いものの、エミリアやメリアヴィスタなどと遭遇する可能性は低いと考える」

 「なぜだ? 待ち伏せには不向きなのか……?」

 「主人の大切なコレクションが並んでいる場所で、奴らは戦闘などできんからさ」

 「なるほど……」

 確かに、理には適っている。

 保証がないのが辛いところだが――敵地において、それは贅沢か。

 「まあ、根拠が薄弱ではあるが……他の二つのルートよりは良さそうだな」

 もし戦闘になった場合でも、マルガレーテのコレクションともなれば人質策に近い戦い方ができるかもしれない。

 そうでなくとも、単純に遮蔽物が数多いという環境はこちらに有利だ。

 「分かった、ではこのルートで行こう。少し待ってくれ。念のため、そのルート方面を探知する」

 ウェステンラは静かに目を閉じ、その耳をぴこぴこと動かし始めた。

 これから踏み入るルートを、丹念に索敵しているのだ――

 

 「……」

 その間、やはり手持ち無沙汰になってしまう俺。

 なんとなく、周囲に視線を這わす――と、目の端に妙なものが映った。

 宝箱のような奇妙な箱が、壁の隅に置かれているのだ。

 「ん? こんな所に宝箱……?」

 なぜか俺は、その箱に目を奪われていた。

 好奇心をくすぐる不思議な魅力。

 開けてみたい――そんな思いが、ぞわりと沸き上がってくる。

 「……」

 それはまるで、甘い誘惑のようだった。

 開けてみよう――と、何かが俺に囁きかけてくる。

 ウェステンラは探知に専念し、俺の方には全く注意を払っていない。

 目を盗んで開けるなら、今しかないようだ――

 

 開けてみよう

 開けるものか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……ちっ!」

 妙な誘惑を振り払うように、俺はぶんぶんと首を左右に振った。

 ほんの一瞬とはいえ、俺は何を考えていたんだ。

 こんな露骨に怪しい宝箱、まんまと開ける馬鹿がいるか。

 「――ふむ、待ち伏せの気配はないな。ん……どうした?」

 「いや……何でもない。行くぞ!」

 なぜか照れ隠しのように、せわしなく足を踏み出す俺。

 「あ……待て、我を置いていくな!」

 その後を追って、ウェステンラも駆け出していた。

 向かう先は、このフロアの書庫室。

 そこから第一収集室、第二収集室を抜け、エレベーターで当主の間へ向かうという道筋だ。

 いよいよ、マルガレーテとの相対は目前――その緊張を胸に、俺たちは進むのだった。

 

 

 

 そこは、まさに大図書館。

 書庫室という言葉の響きの狭苦しいイメージは、そこに立ち入った瞬間に打ち砕かれた。

 学校の体育館ほどの空間に、本の詰まった本棚がずらりと並んでいる。

 こんな部屋がいくつも存在するなんて、このフロアの規模はどうなっているんだ。

 「……間違っても、本を手に取ったりするなよ?」

 「心配するな、頼まれても触らん」

 文学、宗教、科学、芸術――様々な本が並んでいるものの、全く興味はない。

 ここの主が、本当にこれだけの本を読んでいるのか――それが気になっただけだ。

 そんな書庫室を足早に抜け、俺達は第一収集室とやらに踏み込む。

 そこには、マルガレーテの美術品コレクションが所狭しと飾られていた。

 やはり体育館ほどの空間に、びっしりと並ぶ美術品――そこはまるで、美術館の大ホールのようだ。

 

 「……二百年前よりも増えておるな。後期印象派の絵画がずいぶんと充実しているではないか……」

 ウェステンラは、何かごちゃごちゃした風景画を前にして腕を組む。

 「ふむ……セザンヌの真筆に間違いない。どこで仕入れてきたのやら……」

 「……触るなよ、ウェステンラ」

 「ああ、分かっておるわ……」

 こうして俺達は、第一収集室を通り抜ける。

 そして第二収集室――そこに足を踏み入れた瞬間、俺は目を見開いてしまった。

 「ここは――」

 そこはまるで、人間の技術が発達していく過程を記録したような博物館。

 入り口近くには、ライト兄弟の乗ったような黎明期の複葉機が展示されている。

 その少し奥には蒸気機関車。他にもクラシックカーや大砲、装甲車、そして――

 「嘘だろ、こんな……」

 中央に堂々と展示されている濃緑の戦闘機を見て、俺はたたずむしかなかった。

 「なんじゃ、このプロペラ戦闘機は……ゼロ戦か?」

 首をかしげ、いかにもどうでもよさそうにウェステンラは呟く。

 「ウェステンラ……お前は、レシプロ機を見れば、なんでもゼロ戦と呼ぶタイプか?」

 「むぅ……違うのか?」

 「いや、合っている。これは零式艦上戦闘機――推力式単排気管が使われているから、五二型だな。

  武装は……機首と翼内に三式13.2mm機銃。五二丙型か。それにしても、これは――」

 俺は舐め回すように機体を眺め、周囲をグルグルと回る。

 「これは、整備が行き届いている――もしかして、フライアブル(飛行可能機)なのか?」

 エンジンは、なんと純正の栄二一型。間違いない。

 見た限り、リバースエンジニアリングなどではありえない。

 外版に腐食は全く見られず、照準器もしっかり備わっている。

 これも、マルガレーテのコレクションだというのか――

 

 「……触るなよ」

 ひんやりした視線を投げかけながら、ウェステンラは呟いた。

 「だ、誰が触るか……! お前と一緒にするな……!」

 機体からぱっと離れ、焦る俺。

 「貴様……こういうのが好きなのか?」

 「まあ、人並みには……」

 「ふぅむ……貴様も姉上も、よく分からんものよ……こんなもの、人殺しの道具ではないか……」

 そう呟きながら、ウェステンラは辺りに並んでいる品々を見回した。

 蒸気機関車からクラシックカー、装甲車――

 ウェステンラの目は、完全に俺から逸れている。

 「……」

 俺はあらためて、目の前の零戦に視線を戻していた。

 ここまで保存状態が良い機体は、初めて見る。

 アメリカで見た飛行可能機よりも整備状態は遙かに優れているようだ。

 魔術か何かで、材質の経年劣化を防いでいるのかもしれない――

 

 ちょっとだけ触ってみよう

 さすがに、触れるのは危険だ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「くっ……! 俺は、何を……!」

 思わず触れそうになる手を、俺は理性で抑えていた。

 あれだけウェステンラを馬鹿にしておいて、俺がトラップに引っ掛かったのでは話にならない。

 「……マルガレーテは、人間の技術に深い興味を抱いていた。

  いや……むしろ危険視か。いつか人間は、淫魔にとって厄介な存在になると言っていたな――」

 「ふん、なるほどな……」

 まるで人間の技術の発展を追うような、この場の品々。

 飛行機に汽車、車――そして兵器。

 零戦や銃器、さらに第二次大戦期の高射砲までが展示してある。

 しかもあれは、アハトアハト――ドイツ軍の8.8 cm FlaK36。

 マニア狂喜の品が、驚くべき保存状態の良さで展示してあるのだ。

 こんなもの、どこの博物館にも――

 

 「……触るなよ」

 「ああ、分かっている……」

 こいつが目を光らせていなかったら、正直危なかった。

 これ以上ここにいては危険だ、俺が。

 「……早く先に進むぞ、ウェステンラ」

 「ふむ。あそこにある昇降機で当主の間に行ける。が――」

 ウェステンラは、エレベーターの右横に通っている通路に視線をやった。

 「……すまんが、少し調べたい場所があるのだが」

 「調べたい……? いったい、どういう場所だ?」

 「……分からん。我がこの城にいた時から、マルガレーテがしきりに出入りしていた部屋だ。

  何かの研究部屋らしいが……当主と姉上以外、出入りは禁止されていた」

 「……ただの、趣味の部屋じゃないのか?」

 「いや……我がこの城を追われた後なのだが、ここに重要な何かが安置されているという話を伝え聞いてな。

  ノイエンドルフ家に伝わる、非常に重要な何かがあるという――今思い返せば、あの部屋にあったのではないか、と……」

 そこで言葉を止め、ウェステンラは表情を曇らせた。

 「もしかしたら――あの忌まわしい出来事に、関わっているのかもしれん」

 「分かった……手短に済ませるぞ」

 「ああ……!」

 こうして、俺とウェステンラはエレベーター横の通路を進む。

 ――俺も甘くなったものだ。

 敵地の最奥で、寄り道を認めるなんて――

 

 

 

 「なんだ、この部屋は――」

 「むぅ……驚いたな、こんな施設が――」

 その通路の先は、まるで最新設備が揃えられた研究所のような一室だった。

 リノリウムの床、PCや電子顕微鏡などの機械器具、棚に並んだシャーレや薬品。

 本職の科学者が入り浸るような設備が、この部屋には備わっていた。

 「マルガレーテは、研究も趣味なのか……?」

 「そんな話は、聞いたことがないが……む、あれは?」

 ふと――ウェステンラが目を留めた先。

 壁にめり込む形で、人間が丸ごと入りそうなほど巨大な水槽があった。

 その表面には覆い布が掛けられ、中は見えなくなっている。

 「これは……?」

 おずおずと、そこへ手を伸ばすウェステンラ。

 「おい、トラップの心配は……」

 「大丈夫だ。そんな気配はない」

 軽く頷き、ウェステンラは一気に覆いを外す。

 そして現れたもの――その異様さに、俺達は絶句した。

 「……ッ!?」

 「これは――!?」

 その大型水槽の中、ホルマリンに漬けられていたのは、全裸の美女――いや、淫魔か?

 端整な顔に長いブロンド、ふくよかな胸、均整の取れたプロポーション。

 ここまでは人間だが――それ以外の特徴は、こいつが異形の生命体であることをありありと示していた。

 背中や肩、二の腕や手の甲などの皮膚が、黒く硬質化している。

 まるで昆虫のような、甲殻類のような不気味な外殻。

 それは尻のあたりにまで達し、そこからは黒い尻尾が生えているのだ。

 この奇妙な生命体は死んでいるようだが、標本として安置されているらしい。

 こいつは、いったい――

 

 「こいつも淫魔か、ウェステンラ……?」

 「いや――こんな種族は知らん。見たことも聞いたこともない」

 ウェステンラも、表情を曇らせながら立ち尽くすのみ。

 「俺が戦ってきた、どんな化け物とも違う……」

 人間の姿をしていながら、全く別の生命体であることがありありと感じ取れる。

 これまで数え切れないほどの人外を片付けてきたが、こいつは異様だ。

 人間離れしているというわけではなく、不吉な感じとでも言うのだろうか。

 こいつの不気味さ――生理的なおぞましさは、尋常ではない。

 人間にとっても、そしておそらくウェステンラにとっても――

 「細胞組成が、人間とも淫魔とも異なる……全く別系統の生物だ。こいつは、いったい何なのだ……?」

 「淫魔……じゃないだと? ん、これは――」

 俺は水槽の端に貼られた紙片に目を留めていた。

 それはかなり古いもののようで、かなり掠れた英字が刻印されている。

 「シ、ス、ティ――ダメだ、後は読めんな。こいつの名前か?」

 「姉上は、ここでいったい何をしていたのだ――?」

 ウェステンラは表情を曇らせたまま、重々しく息を吐く。

 「ん……?」

 その後ろの床が、どこか不自然だったのを俺は見逃さなかった。

 「おい、これはもしかして――」

 その床に手をやると――やはり、動く。

 リノリウムの板をずらすと、現れたのは――下への階段だった。

 人ひとりがようやく通れるほど狭く、暗く、先の見えない不気味な階段だ。

 なんとも不気味なオーラが渦巻いている、そんな気がした。

 「これは……」

 その階段を見据え、ウェステンラは険しい表情を浮かべる。

 その額に、一筋の汗が伝った。

 「見た限り、三十以上の封鎖法陣と封術でがんじ絡めだ。ずいぶんと念入りなことだな……」

 「どうする、降りてみるか?」

 「……いや、やめておこう」

 そう言ったウェステンラの顔は、蒼白で汗ばんでいた。

 かくいう俺とて、階段の前に立っているだけで首の後ろがゾクゾクと総毛立つ。

 「……本当にいいのか?」

 「ああ……あまりにも得体が知れんし、不可解だ。危険すぎる」

 「確かに、それは同感だな……」

 結局、ここで出来ることはない。分かったこともない。

 俺達は謎の多いその部屋を後にし、来た道を戻ったのだった。

 

 

 

 「いったい何なんだ、あの生物は……それに、あの下には何が――」

 エレベーターへの通路を進みながらも、さっきの部屋のことが頭にのしかかる。

 正直、俺には直接関係ないこととは言え――あの場の雰囲気は異常だった。

 「……あの階段に施されていたのは、外向きの封印ではない。内向きだ」

 険しい顔のまま、ウェステンラは呟く。

 「内向き……? どういう意味だ?」

 「あれは侵入者に対する術式ではない――すなわち、封鎖の方向が逆なのだ。

  侵入を阻むためではなく、中にあるモノを外に出さないための封鎖法陣が組まれていた。

  あれは入れないための仕掛けではない、出さないための仕掛けだ」

 「出さないため……? すると、あの奥には――」

 あの階段の前に立ったときの、異様な寒気を思い出す。

 あそこには、いったい――

 

 「……おい!」

 「ああ……」

 俺の思考は、たちまちのうちに打ち切られた。

 前方から、何者かが接近してきたのだ。

 「敵か――」

 その足取りは異様なまでに軽やか、まるでスキップのよう。

 そいつは存在を全く隠さず接近し――あろうことか、鼻歌まで聞こえてきた。

 「エミリア……じゃないな」

 「ああ……こいつは……」

 

 「やっほ〜♪ ダーリン〜♪」

 重々しい雰囲気を粉々に打ち破る、軽々しい呼び声。

 満面の笑みと軽やかなスキップと共に現れたのは――以前にも出会った尻軽そうなメイドだった。

 しかしその服装はメイド服ではなく、妙に着飾った格好。

 カジュアルなシャツにミニスカート、洒落た腕時計にバッグ。髪型は、例のお嬢様風ツインドリル。

 端整な顔、勝ち気そうな目、つんと自己主張する形の良い鼻、小さな唇――

 町を歩いていれば、間違いなく男共の視線を集める容姿。

 確かこいつの名は、メリアヴィスタ――

 「ごめんなさ〜い、来るの遅れちゃって。

  本当は、すぐにでも会いたかったんだけど……おめかししている間に、時間が経っちゃいました……♪」

 いかにも可愛らしく、メリアヴィスタはかくっと首を傾ける。

 それに相対するウェステンラは、緊張した表情を崩してはいない。

 「……気を抜くなよ、啓。こいつは、見掛け通りの軽薄女ではないぞ」

 「分かってるさ。俺を素人だとでも思ったか?」

 以前、俺が虚ろな状態で会った時でさえ、異様な気配を感じ取ったのだ。

 今こうして対面していると――やはり、紛うことなき化け物だ。

 こいつからは、血と暴力の匂いしかしない。

 今まで、いったいどれだけの人間や妖魔を殺してきたのか――

 

 「じゃあ、まず……マルガレーテ様には、私が一緒に謝ってあげるから、それでおしまい。

  それから、どこへ行きたいですか? 一緒に魔界巡りする? それとも、人間界でデートがいい?」

 「……っ!」

 俺の腕にすがりつこうとするメリアヴィスタから、素早く距離を取った。

 「ぶー。なんで逃げちゃうの、ダーリン? 私のこと、キライ……?」

 すねたように、頬を膨らませるメリアヴィスタ。

 そのキュートな仕草には、どこか野生的、かつ破滅的なオーラが伴っていた。

 逆らう者は、有無を言わさずに潰す――そんな、狂気に満ちた殺気。

 エミリアの重厚な殺気とはまるで質が違う、欲望に忠実な狂気だ。

 

 「それとも……さっそく、えっちしたいんですか? あはは……私は、それでもいいですよ?

  どんな風にしたい? それとも、されたい……? ひょっとして……また足で踏まれたいのかな、ダーリン♪」

 「……どういうことなんだ、ウェステンラ?」

 膨れ顔から一転して笑顔に戻ったメリアヴィスタを前に、俺は困惑せざるを得なかった。

 正直なところ、いきなり襲ってくるよりも対処しにくい。

 「分からんが――何かの策略ではなさそうだな。貴様、何かしたか?」

 「いや……特に心当たりはないが」

 少なくとも、最初に遭遇した時はこんな感じではなかったはずだ。

 「……答えてもらおうか。何を企んでいる?」

 「私、ダーリンに一目惚れしちゃいました〜♪ だから……私のものにしちゃいますね」

 片手をしゅたっと上げて、目を細めるメリアヴィスタ。

 「……嫌だと言ったら?」

 「当然、力ずくです♪」

 にっこりと微笑むメリアヴィスタの目に、狂気の炎が宿る。

 なるほど――よりにもよってマルガレーテの従者に惚れられるとは、厄介な成り行きだ。

 どちらにしろ、やる事は一つ――

 

 「ウェステンラ……サポートを頼む。淫気や魔術は、お前が処理してくれ」

 「ああ……できるだけ、な」

 緊張した面持ちで頷くウェステンラ。

 そんな俺達のやり取りを見て、メリアヴィスタは目を丸くした。

 「ねぇ、ダーリン。もしかして、その……ウェステンラ様とは、特別な関係なんですか?」

 「そんなわけが――」

 「――ないわ、愚か者」

 俺の言葉を、ぴったりのタイミングでウェステンラが引き継ぐ。

 「俺とこいつは、協力してるだけ――」

 「――そのような関係ではないわ、痴れ者め」

 またもや、俺の言葉を絶妙に繋ぐウェステンラ。

 「そ、その息の合ったコンビネーション……やっぱり、二人は……」

 ショックを受けた表情で、メリアヴィスタは足取りをふらつかせた。

 よろよろと数歩後じさり、かっと目を見開く。

 「で、でも……くじけませんから! 愛とは惜しみなく奪うもの!

  こうなればいっそ、無理矢理トリコにしてしまうってのも……!」

 「……どうでもいいが、そろそろ攻撃していいか?」

 銃を構えたまま、俺は溜め息を吐く。

 「えっと……それはやめた方がいいかもですよ。ダーリン、死んじゃうから……」

 その凍り付くような目、微かに笑う口許――それが、俺にあらためて悪寒を呼び起こす。

 しかし、退くわけにはいかない。

 こいつを片付けなければ、当主の間には行けないのだ。

 

 「サポートは任せたぞ、ウェステンラ!」

 「ああ……!」

 俺は銃を構えながら、不敵に微笑むメリアヴィスタに向かって一歩を踏み出した。

 その底知れない狂気を、蛮勇で振り払うように――

 当主の間を目前にした通路で、激しい火花が散ろうとしていた。

 

 

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