妖魔の城
「……あなたの正体を、沙亜羅は調べようとしていたわよ」
「え……?」
強制搾精も終わり、ズボンを履いて一息吐いた矢先――
アレクサンドラは、思わぬ事を口にした。
「……そう、険しい顔を浮かべることは無いわ。別にあなたへの敵対行為なんかじゃない――恋する少女の些細な乙女心よ」
くすり……と、アレクサンドラは少女のような笑みを見せる。
僕にとって、初めて見るような顔だ。
「沙亜羅の前じゃ、僕はCIA出身ってことで通ってるはずだけど……」
「確かに、CIAにもあなたの名前はあったわね。そればかりか、NSAやFBIの職員名簿にもあなたの名前を見たわ。
アメリカだけじゃないわね。イギリスのMI5やSIS、ドイツのMAD、ロシアのSVRや中国の人民解放軍総参謀部第二部……
イスラエルのモサドに、日本の公安。内閣調査室にまで……あなた、諜報機関を渡り歩くのが趣味なのかしら?」
「……他にも16の諜報機関、34の軍属組織に名前があるけどね」
当然ながら、実際にそれだけの組織に属しているわけではない。
任務のためには、籍だけでも置いておいた方が都合が良いからだ。
「本当に食えない男ね。あなたの本当の所属は、この中のどの組織でもなく――」
「……どうでもいいさ。その『本当の所属』さえ、別に忠節を尽くしているってわけでもないし」
組織に仕えるとか、忠節を尽くすとか――そういうのは、僕のガラではない。
「信仰上の問題とも思えないわね。それ以外に、生き方を知らない……ってところかしら?」
「……まあ、そういう事にしておくよ」
おまけに今の言い草からして、もう見当は付いている様子だ。
「随分と、どうでもいいことを知りたがるんだね。女王様のクセに――」
「ええ……女ですもの」
そう言って、アレクサンドラは目を細めた。
「もう一つ、尋ねたい事があるわ。あなたの殺しは対人間専門で、妖魔狩りの訓練は受けていない――そこに嘘はない。
でも……それにしては、あなたの戦闘能力は高すぎるわ。
あなたが暗殺することを想定している連中は、本当にただの人間なのかしら……?」
「……」
僕は、言葉を返せなかった。
やはり沙亜羅とは違い、本当に鋭いところを突いてくる。
「例えばの話だけれど……あの、『化け物狩り』組織に所属していたという須藤啓。
それに、沙亜羅――ああいう、妖魔を狩るために戦闘技能を磨いた人間。
そういう連中が、もし組織に反旗を翻した場合、随分と厄介よねぇ……?」
「……ふぅ」
僕は、諦めたかのように溜め息を吐いた。
全て、お見通しだというわけか――
「妖魔狩りを生業にしていたような人間が反逆したら、普通の人間では歯が立つはずもない。
そういうケースを想定し、妖魔の狩人を狩るための人間が養成されていたとしたら――?
つまりは……狩人を狩るハンターキラーといったところね」
「いちおう言っておくけど……僕の組織は、沙亜羅や須藤啓が属していた『化け物狩り』とは別だよ」
『化け物狩り』――カーネル・ガブリエラとかいう女性軍人の元、各国の腕利きが集められた国際組織。
各国政府の後ろ盾の元、最新鋭の武装をもって化け物を狩る近代組織である。
「……ええ、知っているわ。そんな新参の連中とは歴史が違う、といったところかしら?
二千年近く前から、ひたすらに化け物を狩り続けている狂信的組織があったわね……」
アレクサンドラは、本当に僕の正体について勘付いている――
だとすると、これはただのいじめか。
「……もう、勘弁してくれよ。そもそも楽裏市の一件以来、H-ウィルス絡みの任務ばかりなんだ。
正直なところ、専門外の任務ばっかりなんだよ……この城に派遣されたことだって」
そういうわけで、最近は全く本来の任務などない状態なのだ。
そもそも、組織からの反逆者なんてそうゴロゴロ出るはずもない。
通常暗殺に手こずるほどの手練れが反逆するなんて、数十年に一度、あるかないかというレベルだ。
そんな厄介な事態さえなければ、僕のような人間には役目など回ってこないはずなのである。
「そろそろ眠くなってきたわ……あなたには、ずいぶん色々と聞いたわね。
だから……私からも一言だけ、言っておこうかしら――」
アレクサンドラは静かに髪を掻き上げ、やや眠そうに目を細めた。
「ええ、なんなりと……」
このまま大人しく眠ってくれるなら、それに勝る喜びはない。
「沙亜羅を狩ろうとしたら――私が殺すわ」
「ああ、そんな事はしないよ」
「ええ、信じてあげようかしら――」
眠そうに微笑んだアレクサンドラの表情が、唐突に強張った。
「……ど、どうした?」
「私ったら、迂闊ねぇ……ずっと見られていたようよ」
「何!? 誰が――」
僕は、慌てて周囲を見回した。
まさか、エミリアか……!?
それとも、ネメシア――いや、マイの可能性もある。
「いえ、そういうことじゃなくって……沙亜羅よ。あの子、随分と前から私の中で目を覚ましていたみたい……
具体的に言うなら、あなたの精を搾っていたあたりから――」
「……な、なんだってェェ――ッ!?」
「……私は、もう寝るわ。後は、沙亜羅と話をつけなさい……じゃあね」
「ちょっと待て、おい! いくらなんでも、それは……!」
恐ろしく無責任な形で、アレクサンドラは眠りに落ちていく。
その肉体からドロドロとスライム状の粘液が垂れ落ち――
アレクサンドラの成熟した肉体は、沙亜羅の小柄な体へと戻っていった。
そして――沙亜羅の目が、ぱっちりと開く。
「……」
「……」
視線を床に落としたままブルブル肩を震わせる沙亜羅と、硬直する僕。
間違いない、ものすごく怒っている。
まずい。これは、とても厄介な事態だ。
「とりあえず……優、ボコボコにブン殴りたいんだけど。その前に、思いっきり殴っていい?」
「それは、また後の機会に……今は、敵陣だし……」
そう言いながら、僕は沙亜羅を刺激しないよう静かに持ち物入れを開いた。
「誰に対して、怒ればいいのかな……? まず、姉さん……?
それに優も……なに、ヘラヘラ悦んでイかされてんの……?」
「いや、抵抗はしようとしたんだけどね……」
深い怒りで肩を震わせながら、沙亜羅はあくまで静かに語りかけてくる。
これは、暴風雨が吹き荒れる直前の静かな空だ。
「気持ちよければ、なんだって良いわけ――って、何してるの?」
持ち物入れから取り出したガーゼに薬品を染みこませている僕を見て、沙亜羅は目を丸くする。
「ああ……これを、こうしてね」
そして――睡眠薬をたっぷり含んだガーゼを、僕は沙亜羅の口に押し当てていた。
「ちょっと……! ゆ、う……!」
たちまち、沙亜羅の動きが弱々しくなっていく。
目を覚ましたところで悪いが、もう一度眠っていてもらおう――
「ぜったい……ぶっとばす……」
眠そうな目で僕を精一杯睨みながら――沙亜羅は、スヤスヤと眠ってしまった。
「……ごめん、沙亜羅」
僕は、崩れる沙亜羅の体を静かに抱き留めた。。
断じて、怒る沙亜羅が手に負えなくなったから眠らせたというわけではない。
マルガレーテとの戦いに、断じて沙亜羅を参加させることはできない――そのためなら、どんな手も使うつもりでいたのだ。
「よっ……と」
そのまま、沙亜羅を廊下の隅っこへと横たえさせる。
当主の間に連れていくよりは、眠った状態でここにいる方がまだ安全だ。
それに、『切り札』に巻き込まれてしまう危険性も高いのである。
「……」
僕はおもむろに、沙亜羅の柔らかな右頬をむにぃと引っ張った。
「むにゃ……ぶっとばす……ばかぁ」
何やら呟きながら、頬を引っ張る僕の腕をぺちぺち叩く沙亜羅。
この眠りの浅さなら、本気で殺意を持った相手が現れても反応できるだろう。
「じゃあ、行ってくるよ……沙亜羅」
僕は、沙亜羅の傍らから腰を上げた。
もし、無事で戻ってきたら――僕は、ぶっ飛ばされるだろう。
それくらいなら、安いものだ……ということにしておこう。
さて――
「確か、この通路に沿ってまっすぐだったな……」
アレクサンドラは、そんな事を言っていたはず。
そして、当主の間まであと少し――
僕は沙亜羅をその場に残し、決戦の舞台へと歩を進めたのだった。
通路は回廊のようになっていて、何度か曲がり角があった。
そして今、僕が進んでいるのは窓際の長い長い通路。
それはひたすらに一直線で、右側には延々と並ぶ窓。左側には、客間のようなドアが並んでいる。
ふと窓から外を見ると、眼下の風景が遙か下に見えた。
ビルにすれば、百階あたりといったところか。
この巨大なノイエンドルフ城でも、最上層に近い位置である。
そして、ようやく通路の曲がり角が見えてきた時――
「……ん? あいつは――」
ちょうど左側に折れる角のところで、小さな人影がひょいと顔を出した。
服装はメイド服で、少女の体格――しかもあの淫魔には、見覚えがある。
「あいつ……マイか!」
ネメシアに喰われたメイの仇として、なぜか僕を狙う少女淫魔。
いつの間にか先回りして、ここで待ち伏せしていたのか――
「ここで待っていれば、必ず来ると思いました……」
緊張した面持ちで、こちらに掌をかざすマイ。
相手との距離は約100メートル、こちらからの銃弾が簡単に届く間合いだ――
「悪いけど……今の僕相手じゃ、勝てないと思うよ。
銃器は取り返したし、あちこちで道具の類も補充したからね……」
武器のほとんどを引っぱがされて捕まった時には、逃げるのに苦労したが――
逆に言えば、そんな状態でさえどうにかなるレベルの相手。
今のフル装備状態ならば、簡単にカタが付く――
僕は余裕めかして警告を出しながら、サブマシンガンを取り出した。
説得を聞いてくれないようなら、もう容赦はしない――
「メイちゃんの仇、取らせてもらいます――」
「だから、あのネメシアは僕たちの仲間じゃないって……」
全く聞く耳を持たないマイは、おもむろに何かを唱え始めた。
「……汝、我の声に耳を傾けよ。我が契約を行使する如く――」
これは――召喚魔術の類か?
まだ少女の淫魔だというのに、そんなに厄介な魔術が使えるなんて――
「その吐息においては全焦、牙においては焼砕、爪においては融斬――」
「お、おい……ちょっと待て!」
この詠唱の長さ、そして一気に高まる熱気――どうやら、とんでもないモノを呼び出すようだ。
流石はノイエンドルフ城の給仕、ここまでの召喚魔術が使えるなんて――
――などと、感心してばかりもいられない。
どうにかしなければ――
「――いざ、全てを焼き尽くしたまえ! 出でよ炎龍!」
マイが詠唱を終えたその刹那――少女の前に出現した魔法陣より、特大の龍が出現した。
「うぐっ……!」
ある程度距離が離れていても、むせ返りそうになるほどの熱気。
その龍は、まるで炎の塊――そんなとんでもないモノが、こちらへと突っ込んで来たのだ。
「ちょ……うわぁぁ……!」
決して狭くない通路だが、それを軽く覆い尽くすほどの体幅。
そんな炎龍が、轟きながらこちらへと突っ込んできたのだ。
まるで、その直線軌道上のものを全て焼き尽くすかのように――
「おいおい……こんなの、反則だろ!」
しかも、マイは地の利を上手に用いていた。
一直線の、ほとんど逃げ場のない通路――その向かいに陣取り、大技を放ってきたのだ。
近寄っただけでも消し炭になりそうな熱気が、徐々にこちらへと迫ってくる――
「……ッ!」
僕はとっさに、左横のドアにサブマシンガンの銃弾を叩き込んでいた。
全て施錠されているのは、このフロアに来たときに確認している。
「うぉぉぉぉ……!」
数十発の弾丸をブチ込んで脆くした後、僕はそのドアに体当たりを仕掛けていた。
そのまま僕の体はドアを突き破り、だだっ広い客間へと転がり込む。
そして――ギリギリのタイミングで、さっきまで僕のいた廊下を炎龍が駆け抜けていった。
少しでも判断が遅れていれば、消し炭になっていたところだ。
淫魔は普通、相手を犯すことを考えるものらしいが――
なりふり構わないほどに、僕が憎いということか。
「なんて目茶苦茶な術を――」
客間の真ん中で腰を上げ、部屋から出ようとしたとき――
出入り口を塞ぐように、マイがそこへと陣取った。
そして――
「……汝、我の声に耳を傾けよ。我が契約を行使する如く――」
さっきの詠唱を、またも始めたのだ。
……まずい。
こんな逃げ場のない部屋であれを使われれば、間違いなく消し炭だ。
かといって、ここから銃撃したところで壁に隠れられるだけ。
出入り口を塞ぎつつも、少し身を退けば壁を遮蔽物にできる――良い位置取りだ。
やはりこいつ、かなり計算している。
「その吐息においては全焦、牙においては焼砕、爪においては融斬――」
なら、有無を言わさず接近戦を挑むか――いや、それは明らかにまずい。
僕は思考を巡らせながら、客間の中にあるものを見回していた。
目に入ったのは――放置してあった食器台に乗っているコショウの瓶。
そうだ、これなら――
※ ※ ※
「……一つ覚えとけ、アウグスト。魔術の行使ってのは詠唱が絶対に必要なんだよ。
逆に言やぁ……詠唱しなきゃ、魔術は使えんと言うこった」
岩の上に腰掛けながら、いかにも気怠げに『父』は言った。
いかにもアウトローめいた、筋肉質の四十代男性。
胸から下げた十字架と、面倒そうに羽織られた祭服がなければ、誰も『父』を聖職者だと気付かないだろう。
「あの……師父。僕の相手は人間です。魔術なんて使ってこないんですから……」
僕は腕立て伏せをしながら、『父』に言い返していた。
当然ながら、師父は僕の実の父親ではないが――まあ、父のようなものだ。
日本の孤児だった僕を拾い、ここまで育ててくれたのだから――
その育成方針や手法には、大いに問題があると思うが。
「……俺に向かって口答えか?」
師夫は、僕をギロリと睨みつけた。
その眼力だけで、僕は背筋を震わせてしまう。
普段、一緒に過ごしている僕でさえこれなのだから――他の人間なら、心臓が止まりかねない。
「認識が甘ェんだよ、青二才が。妖魔に心を売ったクズのような人間なら、魔術なんぞ平気で使ってくるもんさ。
俺が二年ほど前に殺った異端司教なんぞ、半分ほど妖魔になりかけやがって、辛気くさい闇術を連発してきやがったぞ」
「で……師父はどうやって、そのゴミを掃除したんです?」
ひたすらに腕立て伏せを続けつつ、僕は師夫の話に乗った。
どうでもいいことだが、師父は恐ろしく口が悪い。
僕の口調が妙に丁寧になったのは、間違いなく師父の影響が逆に働いたからだ。
「魔術を封じるべく、頭をブッ飛ばしてやったんだよ」
「頭って……それ、魔術封印以前に、それだけで死ぬでしょう?」
「当たり前だ、馬鹿が」
本当に当然のことのように吐き捨て、師夫は足を投げ出した。
「グダグダ言うんじゃねぇよ、半人前。お前は、徹底的に殺しの技を鍛え上げろ。
相手が何者だろうが、どんなバケモノだろうが、何をしてこようが、何だろうが、関係なく掃除できるようにな――」
「師夫……お言葉ですが、僕の相手は人間ですって。バケモノじゃないですよ」
「バケモノを狩る連中が、バケモノ以下のわけがないだろうが。認識が根本的に足りてねェよ、馬鹿。
とにかく覚えとけ……魔術を使ってくるヤツは、詠唱させなきゃいいんだ」
「分かりました……けど、僕の相手は人間です」
「東洋の退魔師なんて線香臭ェ連中だって、訳の分からん術を使うってんだ。
お前も腕っ節がまるでダメなんだから、いっそ魔術の一つでも覚えてみりゃどうなんだ……?」
「僕の立場でそれをやったら、異端じゃないですか……」
この師夫、よく破門されないな……と、常日頃から思う。
「おう……もういいぞ」
師父の許しが出たので、ようやく僕は腕立て伏せをやめることができた。
さすがに、もうヘトヘトだ。
「ったく……その程度で、息切らせてどうすんだ。そんなんで、対集団戦が出来るのかよ。
敵が百も千も、ウヨウヨ襲ってきたらどうする気だ?」
「反逆者が百も千も出ている状況なら、僕より組織が終わってます」
「口しか動かんのか、お前は……ほれ、喰え」
「あ、どうも……」
師父が投げ渡してくれたハーブを、僕はもしゃもしゃとかじった。
「お前は腕力なんぞカラっきし、銃の腕も少々マシな程度のヘタレだろうが。
これから先、小賢しい知恵やら何やらで立ち回っていく気か……?」
「ええ、それでいいです」
正直なところ、姑息な戦い方の方が性に合っている。
殴り合いなんてガラじゃないし、魔術を使っている自分なんて想像も出来ない。
まして、魔術を使ってくる相手と戦う機会なんて、永久にないはず――あの時は、そう思っていたのだ。
それなのに――世の中、つくづく分からないものだ。
※ ※ ※
「やれやれ……まさか、あの時の教えが役に立つとはね」
僕は食器台の上に置いてあるコショウ瓶を手に取ると、マイの足下に叩きつけていた。
「え……!?」
コショウの瓶は粉々に割れ、ぶわっと舞ったコショウが周囲へと飛び散る――
「いざ、全てを焼き……くしゅっ!」
それを吸ってしまい、マイは大きなくしゃみをしてしまった。
「ああ、もう……汝、我の声に……くしゅっ、くしゅん!」
どれだけ頑張っても、くしゃみで詠唱を中断してしまう始末。
コショウを目一杯吸い込んでしまった以上、少なくとも数十秒はくしゃみ地獄だ。
これで、詠唱はできないだろう――
「こ、こんな……馬鹿馬鹿しい手で……くしゅん!」
「馬鹿馬鹿しい手に引っかかる方が悪いのさ。さて――」
僕が銃を取り出した次の瞬間――マイは、ぱっと背中を見せた。
「くしゅっ! ふぁ……くしゅん!」
そのまま客間を抜け、くしゃみをしながら廊下へと駆け出していくマイ。
「……待て!」
無駄に殺す気はないが、この調子で付きまとわれたら面倒だ。
コショウもすぐに効果は切れるし、今の内にどうにかしておかないと――
しかし部屋から飛び出した僕が目にしたのは、呆然と立ち尽くすマイの背中。
そして――マイの視線の先には、長身に拘束服をまとった女――ネメシアの姿があった。
廊下の向こうから一歩一歩を踏みしめ――こちらに、ゆっくりと近付いてくるのだ。
「ぐ……!」
「あ、あ……」
すかさず銃を構える僕と、身を震わせる少女淫魔。
そのままマイは数歩後ずさり、僕の近くまで来て――そして、びくっと体を竦ませた。
「こんな、卑怯です……二対一なんて――」
「……違う。あいつは、僕の仲間じゃない」
この娘は、まだこんなことを言っているのか。
そもそもメイだって、僕が殺したわけじゃないのだ。
「……」
そして――ネメシアは無表情のまま、一歩一歩距離を詰めてくる。
その瞳に、相変わらず感情は見い出せない。
やはり、僕を追跡するという本能のみで動いているようだ。
「わ、私は……あなた達になんか、負けませんから――」
そして傍らには、完全に勘違いした様子のマイ――これは、ひどく厄介な状況だ。
「ぐ、どうするか……」
まずネメシアは、今の手持ち武器で滅ぼし尽くすのは非常に困難である。
こういう再生力旺盛な奴は、焼き尽くしてしまうのが常道。
しかし、火炎放射器なども持ち合わせていない今――
「いや、あれなら……」
さっきマイが発動させた、炎龍の召喚魔術。
あれならば、ネメシアを完全焼却することも可能かもしれない――
「……あぅぅ……」
マイは、迫り来るネメシアと僕を見比べながら戸惑っている様子だ。
この少女を、僕に協力させることなどできるのか――
「マイ……手を貸してくれないか。このままじゃ、二人とも殺られる」
僕は、強張った面持ちのマイに声を掛けた。
そもそも、マイが僕を憎んでいること自体が誤解なのだから――説得は可能なはずだ。
そして僕が見たところ、本当は僕とネメシアが仲間でないことにも気付いているはず。
「何を言っているのです! あの女も、あなた達の仲間――」
「本当に、そう思ってるのか! あいつは僕の敵だ! 見ろ! あれが、僕の仲間に見えるのか!?」
ネメシアは瞳に何の感情も映さないまま、のろのろと歩を進めてくる。
あの目を見れば、仲間やら味方などといったものとは無縁であることなど分かるはずだ。
あいつは、そういう類のバケモノではない――本能のみで動く怪物なのだ。
「もう、本当は気付いてるんだろう? あいつと僕は、仲間なんかじゃない。あいつは僕の敵で、そしてメイの仇なんだ」
「……」
マイは、静かに視線を落とすのみ。
「メイちゃんは……メイちゃんは、あいつに……」
「僕に八つ当たりしている場合じゃない。仇を取るなら、今なんだ」
「……」
マイは静かに視線を上げ、迫り来るネメシアを見据えた。
「……どうやったら、あいつを倒せますか?」
「作戦があるんだ。二人で協力すれば、あいつを倒せるはずだ――」
ようやく、マイも納得した――いや、自身の心を整理したのだ。
現実と直面し、本当の敵に立ち向かう決意ができたのである。
「あの炎龍とかいうのを直撃させて、全身を再生できないよう焼き尽くしてしまえばいい。
やり方は、僕に食らわせようとした時と同じでいこう。
僕が奴を引き付けるから、マイは通路の真ん中からぶっ放してくれ」
「……分かりました!」
マイは素早く駆け出し、通路の向こう側へと距離を置いた。
あそこからぶっ放せば、ネメシアは逃げ道もなく焼き尽くされてしまうだろう。
僕は、巻き込まれないようにさえすればいい。
今のマイならば、僕もろとも焼き尽くそうなどとはしないはずだ。
「……汝、我の声に耳を傾けよ――」
そして、おもむろに詠唱を開始するマイ。
問題は、詠唱にかなり時間が掛かることだ。
ネメシアはマイに目もくれず、僕の方へと近付いてきた。
マイを狙われるよりは、かなりマシな展開だが――それでもヘビーな仕事には違いない。
「さて、こいつを足止めか……やっかいな仕事だな」
そう呟きながら、僕はサブマシンガンを構えていた。
さっきまではマイの詠唱を遮断しようとしていたのに、今度はマイの詠唱を待つ立場とは――
世の中、本当に分からないものだ。
「食らえ、怪物……!」
そのまま銃弾のシャワーをネメシアに浴びせ、足を鈍らせる。
しかし――本当に、足が鈍るだけに過ぎない。
弾丸の一発一発が確かにネメシアの体を貫き、引き裂いているのだが――
その傷も、あっという間に塞がってしまうのだ。
「ちっ、弾切れか……!」
マガジンが空になるまで打ち尽くすと、次は道具入れからグレネードランチャーを取り出した。
素早く狙いをネメシアに合わせ、焼夷弾を食らわせる――
次の瞬間、ぼうっと発生した紅蓮の炎がネメシアの体を包み込んだ。
「やっぱり、これでも――」
銃弾より効いてはいるが、それでもネメシアの肉体は燃えながらにして再生していく。
もっと凄まじい熱量で、一瞬で焼き尽くさなければ効果はないのだ――
「くっ……! まだか……!」
マイの詠唱は、まだ終わっていない様子だ。
こうなれば、弾頭は残り二発しかないが――
僕は虎の子のロケットランチャーを取り出し、炎に撒かれているネメシアに照準を合わせた。
そのまま引き金を引き、弾頭を発射する――
「ぐっ……!」
その直撃を受けたネメシアの上半身が爆散し、僕はその風圧と衝撃にひるんだ。
後に残ったのは、四散したネメシアの肉片。
しかし、この程度で倒せないのも分かっている。
「まだか、マイ……!?」
「これで、終わりです……! いざ、全てを焼き尽くしたまえ! 出でよ炎龍!」
とうとう、マイの召喚魔術が発動したようだ。
マイの前に現れた魔法陣から、凄まじい威圧感を持って現れる巨龍。
それは廊下を直進し、こちらの方へと接近してきた。
散らばったネメシアの肉片を焼き尽くし、消滅させながら――
「うわっ……!」
美しささえ感じる、炎龍の雄大な姿――しかし、見入っている余裕はない。
僕は慌ててさっきの客室に飛び込み、炎龍をやり過ごした。
そのまま炎龍は廊下の進行上にあったもの全てを焼き尽くし、消えていったのである。
「や、やったのですか……!?」
おずおずと、こちらへ近付いてくるマイ。
その手の台詞は、やっていないフラグだ――が。
「……本当に、消し墨さえ残さずに焼き尽くしたみたいだね」
ネメシアがいた床には、微かなススが残っているのみ。
窓ガラスは、炎龍が通過した熱で溶けてしまい――
窓から抜ける涼やかな風で、そのススさえ掻き消えてしまった。
これで、ネメシアの肉体は完全消滅した――のか?
「これで、メイちゃんの仇を――」
マイが胸をなで下ろした、その時だった。
「え……?」
突如、窓の外から巨大な触手が伸びてきたのだ。
大木ほどの太さがある触手は、にゅるりと廊下に侵入し――
「こ、これは……きゃぁぁぁぁぁ……!」
それは、僕よりも窓に近い位置にいたマイの胴を巻き取ってしまったのだ。
「くっ……マイ!」
それは一瞬の早業で、僕としても反応しようがなかった。
「た、たすけて……」
そのまま窓から侵入した無数の触手に群がられ、うじゅうじゅと覆い包まれていくマイ。
「あ、あぁぁぁぁぁぁぁ……」
か細い悲鳴も歓喜の喘ぎとなり、そのままマイの小さな体は触手に呑まれていく。
「く、くそ……!」
また、目の前でネメシアは淫魔を取り込んでしまったのだ。
しかも、取り込むたびにこいつは力を付けているらしい――
「ぐっ……なんだ、あれは……!?」
そして――窓の外には、無数の巨大触手がうねっているのが見えた。
この最上階に近い位置から見下ろす限り――ノイエンドルフ城そのものが、触手で包まれているかのようだ。
あまりに爆発的に成長したネメシアの姿に、僕は唖然としてしまう。
「まさか、ここまで……」
さっき焼却したネメシアは、ここまで成長したネメシア本体のほんの一部。
これは、のんびりしている場合ではない――
「くそっ……!」
さっさと仕事を終わらせて、沙亜羅を回収して逃げないと――
僕は即座に判断し、後ろも見ずに駆け出した。
窓を突き破り、そんな僕を捕まえようと伸びてくる巨大な触手。
「ぐっ……!」
それを避けつつ、僕はひたすらに廊下を駆け抜ける。
どうやら、まだこの最上階フロアにまでは浸食できないようだ。
触手を伸ばして、僕を捕まえようとするのみ――
しかも、奥に進むにつれて触手の侵入は少なくなってくる。
中枢に近付くほど、何かの魔力で守られているのだろう――
廊下を抜けると、広い踊り場に出た。
その中央には、恐ろしく豪華な大階段。
誰がどう見ても、ここを登った先に偉い人がいるのが分かる。
あれは間違いなく、当主の間へと続く大階段だ。
「ここまでは、触手も伸びてこないか――」
安堵しながら、僕は階段を駆け上がる。
そして、いよいよ豪華な扉に突き当たった。
見上げるほどに高く、華美な装飾の施された巨大な扉。
「これが、当主の間……」
しかし不思議なことに、中からは何の気配も感じない。
僕は困惑しつつ、その扉を押し開けると――
「あれ……?」
その広間には、誰もいなかった。
入り口から続く赤カーペットの先には、立派な玉座。
左手の壁際には、エレベーターの扉のようなものが見える。
そして、この広間のどこにも人の姿は皆無なのだ――
「無人……だって? マルガレーテはどこに――」
ふと、玉座の背後にあたる壁に視線が行った。
そこには、まるで非常口のような扉が備わっていたのだ。
この奥にも、さらに部屋があるのか……?
「こっちか……?」
おずおずと歩を進め、玉座の後ろに回る。
そして、その扉を開けると――さらに、上へ続く階段があった。
「いったい、どういう構造なんだ……?」
当主の間の、さらに上のフロアがあるなんて――
訝しながら、僕はその階段を登っていった。
三階層分ほど駆け上がると、正面の大きな扉に突き当たる。
そこには、「星見の間」というプレートがあった。
そして――
「ぐ、ッ……!?」
エミリアの時と同じだ。
扉の前に立つだけで、背筋も凍るような寒気がした。
この扉の向こうに、間違いなくいる。
この城の主、そして僕の暗殺目標――マルガレーテ・ノイエンドルフが。
「……」
僕は覚悟を決め、そのドアを開けた。
そこは、先程の当主の間と酷似した広いフロア。
入り口から奥へと続く赤カーペットに、豪華な玉座。
ただ一つ異なる点は――天井がガラス張りで、空が見渡せることだ。
なるほど――だから、ここは「星見の間」。
このフロアこそが、おそらくノイエンドルフ城の最上階。
ならば、非常に都合が良い。
「お前が――」
そして――その豪華な玉座には、この城の帝王が君臨していた。
正直なところ、拍子抜けするほどに可愛らしい少女。
この城の主というよりは、むしろ天真爛漫なお姫様といったところか。
しかし――あどけなささえ感じる外見とは裏腹に、その雰囲気は人間離れしたものだった。
輝くような気品と、気を抜けば魂さえ奪われそうな魅力。
これこそが、女王級淫魔という存在か。
「お前が、マルガレーテか……?」
「この城でここに座っている者が、マルガレーテ以外にいるのかしら……?」
少女は静かに口を開いた。
その小さな声が、重厚さを伴って室内に響き渡る。
「私がノイエンドルフ家九代当主――マルガレーテ・ノイエンドルフ。ヒトの事を、最も良く識る淫魔」
「……バケモノめ」
こうして直面しているだけで、恐怖と畏敬、戦慄、恋情などの感情がぞわぞわと沸き上がってくる。
ここから逃げ出したい。その足下にひれ伏したい。抱き締め、情欲を解き放ちたい――
しかし、そのどれも僕には許されない。
できることは、戦うことだけだ。
「まさか、この城に法王庁の刺客を迎えることになるなんて……『世の中は分からない』ものね」
「――ッ!」
この城に来てから何度か繰り返した心の中でのフレーズ――それを、少女は挑発するように口にした。
何もかも、心の中で思ったことさえお見通しなのだ――この当主の前では。
正直なところ、甘い期待をしていた。
王が、護衛より強いとは限らない。
強さだけならエミリアの方が上で、主人の方の力量はそれに劣るのではないか――
そう、心の奥底では期待していたのだ。
「そう。それは残念ね……従者に劣る主君など、魔界においては存在を許されないの」
「……いちいち、人の心を読むなっ!」
露骨な挑発に、思わず心を乱してしまう。
マルガレーテは、いかにも可笑しそうに微笑んだ。
「あら、どうしたのかしら……? クールに、自分のペースで戦うというのが貴方の信条でしょう。
貴方の師夫ならば、いったい何と言うかしら……?」
「師夫は関係ない! これは、僕の戦いだ――!」
――迂闊だった。
戦う前から、僕は完全にマルガレーテのペースに乗ってしまったのである。