妖魔の城
※ ※ ※
沙亜羅を先導するアステーラは、いかにも豪華な扉の前で立ち止まった。
見上げるほどの大きさ、精緻に施された華美な装飾。
扉そのものが、この奥に城主がいるというメッセージを伝えてくる。
この奥に、ターゲットがいる――沙亜羅は、思わず唾を飲んでいた。
「では、ここから先は貴女が一人で行きなさい。くれぐれも、マルガレーテ様に粗相の無いようにね――」
「私が一人で……? 何なのよ、それ……?」
自分は来客ではなく、捕虜――れっきとした敵のはずだ。
手枷がされているとはいえ、単独で謁見の間に通そうとするとは――馬鹿にした話。
「マルガレーテ様は、貴女とお話がしたいと仰せなの。私がいても邪魔になるだけなのよ」
「……話、ねぇ」
沙亜羅の含みを持たせた言葉の直後、扉が重苦しい音を立てながら開き始めた。
その中は、なんとも豪華な謁見の間。
絵画、美術品、骨董品――壁に並ぶのは、権威と権勢を示す調度品の数々。
道を示すかのごとく一直線に敷かれた赤いカーペットの向こうに、豪華な玉座が見える。
そして、そこに座る小さな人影。
「……」
沙亜羅は正面に視線を向け、ゆっくりと謁見の間に一歩を踏み出した。
随分と馬鹿にした話だが、ここからアステーラの付き添いはないらしい。
こうまで侮られているのは癪だが――チャンスには違いない。
この両手を封じている手枷など、いつでも壊せるのだから――
「ノイエンドルフ城へようこそ、勇ましいお嬢さん――」
玉座に君臨する城主――マルガレーテ・ノイエンドルフは涼やかに語りかけてきた。
彼女は肘掛けに右肘をつき、小さな本を広げている。
沙亜羅に言葉を投げかけながらも、その視線は書面に落とされていた。
「……」
ただまっすぐにマルガレーテを見据えながら、沙亜羅は静かに足を進ませる。
彼女がクィーンなら、自分はポーン。
一歩、また一歩と距離を詰め――――そして、刺す。
思ったより小さい――それが、沙亜羅の抱いた第一印象だった。
そう背の高くない沙亜羅よりも、一回りは小さい。
エリザベート・バートリーのような、悪魔的な美女を勝手に想像していたが――
それとは全くそぐわない、清楚で可愛らしい容貌。
そうしたあどけなさと調和する、息を呑むほどの美貌。
自分が男なら、この外見を目の当たりにしただけで戦意を失うのではないか――
「あら……思ったより、華奢なのね」
「……」
マルガレーテが、沙亜羅に抱いた感想なのだろうが――思わず、心を覗かれた気がした。
いや。実際に、沙亜羅の心を盗み見たのかもしれない。
そしてこの美しい城主は、まだ本から視線を上げようとはしなかった。
ゆっくりと歩を進める沙亜羅に対し、まるで無防備なのである。
「……」
必殺の間合いまで、あと二十歩。
この距離で、マルガレーテが読んでいるのは旧約聖書だということが分かった。
何の冗談なのか、妖魔の主が人間の宗教書を読んでいるのだ。
そして、沙亜羅の正面――マルガレーテの背後に飾られた巨大な絵画も、おそらく宗教画。
そこに描かれているのは、三人の人物――いや、二人の男女と一体の女性妖魔というべきか。
大きな木に巻き付いた下半身が蛇の女性が、男女に手を差し伸べている様子だ。
確か、聖書の一場面を描いた絵画であったはず。
美術にはまるで興味のない沙亜羅でさえ、目にしたことがあるほど有名な絵だ。
しかし、そんな絵画よりも――玉座の脇で静かに控えている、メイド姿の清楚な従者が気になった。
一足飛びにマルガレーテへ攻撃を仕掛けた場合、彼女はどう動くのか――
「お前は腹で這い歩き、一生ちりを食べるであろう――」
沙亜羅に向け、マルガレーテは静かに呟く。
その声は囁きに近いものながら、残響音さえ残すほど室内に響いた。
「ふふっ……旧約聖書第三章第四節に書かれている、神の言葉よ。
蛇はアダムとイヴをそそのかし、人類に智恵の実を食べさせてしまった。
神は怒ってアダムとイヴを楽園から追放し、そして蛇にも罰を与えた。
こうして蛇は、腹で地を這い回る姿となってしまった――ということよ」
「……」
だから、どうだというのか。
聖書の内容がどうこうなど、沙亜羅には全く興味がない。
今、考えていることはたった一つ。
いかに効率的に、この女城主を始末するかということだけだ。
そのために、沙亜羅は歩を進めている。
従順さを装いながら、一歩、また一歩――必殺の間合いに近付くために。
確実に殺れる距離まで、あと十歩。
「そうなると……ひとつ、疑問に思わない?
神に罰を与えられた蛇は、現在の姿となった――そうなると、元来蛇は違う姿をしていたということ。
それでは、腹で地を這う姿にされる前の蛇はどんな姿をしていたのか――
聖書に一点の嘘も過ちもないと信じている人間達は、この問題に頭を悩ませたわ。
そしてミケランジェロは、アダムとイヴを誘惑した蛇をこのような姿で描いた――」
マルガレーテは片手に聖書を持ったまま、背後の絵画を示した。
アダムとイヴらしき男女に手を差し伸べているのは――下半身が蛇の、女性の姿。
それこそが、ミケランジェロが描いたという『蛇』。
「……」
マルガレーテの言葉を聞き流しながら、沙亜羅はゆっくりと歩を進める。
まだ、この間合いでは遠過ぎる。
行動に移れる距離まで、あと五歩――
「……ならばこの『蛇』なる存在は、いったい何者だったのかしら?
アダムとイヴの時代から存在し、人類の祖をそそのかした半人半蛇の化け物。
上半身は女性ながら、下半身は蛇――その者は確かにイヴと言葉を交わし、人語を解したとされる。
神代から存在した、ヒトとは明確に異なるモノ。アダムとイヴに原罪を背負わせ、堕落させた張本人。
『サタン』とも解される存在――彼女は、いったい何だったのだと思う?」
沙亜羅に言葉を投げかけながら、笑みを浮かべるマルガレーテ――そして、沙亜羅の一歩。
マルガレーテの手許にあった聖書が、ぼうっと炎に包まれた。
彼女の魔力によってぶすぶすと焦げ、消し炭と化していく聖書。
その炎に照らされながら、さらに一歩。続けて一歩。
焼け残ったページが、ぱらぱらと舞い散る――その向こうにある女妖魔の姿を見据えながら、また一歩。
必殺の間合いまで、あと一歩。
「――あらためて問うわ。人間が、堕落の象徴として恐れ、忌み嫌ってきた存在とは何?
おそらくヒトの前から存在していた被造物――それは、淫魔と呼ばれるものかしら?」
「知るか、そんなの! これが答えよ――!」
最後の一歩。
それを足がかりに、沙亜羅は跳んでいた。
しなやかな足をバネに高く跳び、同時に手枷を破壊する。
華麗に宙を舞いながら、自由になった腕で拳銃を抜き出す――
――と、自分よりも上方に一つの影が翻った。
「え……!?」
沙亜羅が攻撃態勢に入ると同時に反応し、それよりも高く跳んだ相手――
それは、玉座の脇に控えていたメイド姿の女性――エミリアだった。
彼女は顔色ひとつ変えず、沙亜羅の殺意に瞬時に反応したのだ。
「くっ……!」
沙亜羅が反応するよりも早く、エミリアは空中で敵を羽交い締めにしてしまう。
その怪力は、体をひねった程度では逃れられない。
そのまま二人はもつれ合い、エミリアが体勢を主導したまま床へと落下していく。
沙亜羅の後頭部を掴み、顔面を容赦なく床面に叩き付けるような形で――
「エミリア!」
次の瞬間に響いたのは、マルガレーテの鋭い声。
エミリアは、主人の意思をその一声で察した。
空中で猫のように体を反転させ、一転して沙亜羅をかばうような体勢となる。
そのままエミリアは沙亜羅の体を軽く抱えつつ、すたん、と床へと着地していた。
エミリアはもちろん、沙亜羅にも全くダメージはない。
「くっ……!」
着地の直後、沙亜羅は拳銃をエミリアの頭に突き付ける――と同時に、その腕が軽くねじり上げられた。
エミリアの動きは、ことごとく沙亜羅の反応速度を上回っていたのだ。
沙亜羅の動作は、完全にエミリアによって封じられてしまった。
「くっ、離せ……!」
「あらあら、とんだ御転婆娘ね。人間というのは、なんと興味深い……」
マルガレーテは玉座から腰を上げ、エミリアに拘束されている沙亜羅の目を覗き込む。
沙亜羅はまるで、妖魔貴族の金色の瞳に吸い込まれるような感覚を味わっていた。
思わずもがくのもやめ、マルガレーテと視線を交差させてしまう――
「なるほど……これは、とても面白いわね。ふふっ……」
マルガレーテはまじまじと沙亜羅の瞳を覗き込み――そして、エミリアに視線を移す。
「エミリア、あなたはこの娘をどう見るのかしら?」
「……私、の意見でしょうか?」
唐突に話を振られ、エミリアはわずかながら戸惑った。
当然ながら、自分がマルガレーテ以上の所見や意見を持っているはずなどない。
「同じ事を二度も言わせる気かしら、エミリア? あなたの意見が聞きたいのよ」
「……非常に優れた素質を秘めていると思います。それゆえに危険かと」
主人の意に従い、エミリアは自身の意見を素直に語った。
おそらく前半には賛同し、後半には賛同しないだろうことは承知の上で。
「ふふっ……あははははははははは!」
しかし――マルガレーテは唐突に吹き出し、なんとも愉快そうに笑い始めた。
その笑い声が、謁見の間に残響する。
これは、エミリアにしても予想外の反応だった。
当の沙亜羅はというと、魔力を帯びた妖魔貴族の瞳にすっかり呑まれてしまっている。
魅了――とまではいかないが、軽い虚脱状態だ。
「それだけなのかしら、エミリア……?」
「……それだけ、と申しますと?」
時に、忠実な従者たるエミリアでもマルガレーテの真意が読めないことがある。
ただ、確かなのは――主人は、非常に上機嫌であることだ。
「まあ、仕方ないわね。この私さえ、読み違えそうになったのだから……」
「……失礼ながら、仰せられることが全く――」
「――エミリア、この娘を調教なさい」
従者の言葉に割り込み、マルガレーテはそう言い放った。
「今から、あなたの使命は――この娘を、私好みに調教すること。
手段は問わないわ。エミリア。あなたの手腕で、この私を喜ばせなさい」
「……はい、お望みとあらば」
主人に対して静かにかしずき、そう告げるエミリア。
マルガレーテの気まぐれは、今に始まったことではない。
それにしても、いささか妙な命令ではあるが……それが主の望みなら、そうするまでだ。
「つまり……この娘を、我々の同胞とせよ――ということですか?」
調教――この場合は、おそらく淫魔化のこと。
これほど素質ある娘なら、淫魔の力を開花した姿が見てみたい――エミリアの推察するところ、それが主の望み。
「ふふっ……何度も言わないわ。私好みに、よ」
否定はしなかった。
つまりは、そういうことなのだ。
手段も方式も、全て従者のエミリアに一任する。
ただ、その結果によって主人を楽しませろ、と――マルガレーテは、そう言っているのだ。
「了解しました……では、二時間ほどお待ちを」
「ふふっ……楽しみに待っているわ」
沙亜羅を抱えて退出するエミリアを、マルガレーテは笑顔で見送るのだった。
※ ※ ※
暗い地下道、灯りは壁に取り付けられたランプのみ。
その仄かな灯りに照らされたのは、漆黒の装束をまとった妖艶なくのいち。
いったい何の冗談か、サキュバスがくのいちの格好をしているのだ。
しかし、静かに身構える彼女の一挙一動は――冗談どころではないほど、熟練したものだった。
その足運び、視線の流し方、雰囲気――その全てが、彼女の練達した技量を伝えてくる。
こいつは、間違いなく強い。
「サキュバスが、忍者? ずいぶんと和風な淫魔もいたもんだね……」
軽口を交えて拳銃を構えつつ、僕は呼吸を整えた。
こいつを前にして、一瞬でも気を抜けば――そこで終わる。
「ふっ……余裕を装う必要はない。
貴様ほど練達した戦士ならば、私の技量も分かるはず。いらぬ小細工は無用だ」
ゆらり……と流水のような身のこなしを見せつつ、五条すばるはそう言い放つ。
ゆっくりと、射線から外れていく――スローモーで美しい動作。
熟練した者のみが可能な、暗殺者そのものの足運びだった。
「……!?」
素早く五条すばるに射線を合わせ、発砲しようとする――
その次の瞬間に、彼女の動きは静から動へと変化した。
放たれた銃弾を避けつつ、一気に間合いを詰めてきたのだ。
「……っ!」
狙いを修正しようとした僕だが――五条すばるは、その反応を遙かに超えた動きを繰り出した。
流れるように僕の脇をすり抜け、一気に背後へと回ったのだ。
「我が淫技で、快楽地獄に果てるがいい――!」
そして僕の背中を抱え込むかのように――彼女の細い両腕が左右から迫る。
「ぐっ……!」
僕はとっさに身を屈めてその攻撃を避けると同時に、後方に向けて発砲する。
幸い、例の弾切れは起きなかった――が、五条すばるは軽やかに銃撃を避けてしまった。
息を吐く間はない。五条すばるの腕が、地に伏せた僕の方へと伸びてきたのだ。
「うあっ……!」
僕は床を蹴って後方に跳ね、なんとか距離を取っていた――
その間合いも、驚くべき身のこなしであっという間に詰められてしまう。
銃撃を巧みに避けつつ、僕を組み敷こうとする一流の体術。
しかもサキュバスに抱きつかれたら最後、もうそれだけで終わりなのだ。
「わっ……! うぁっ……!」
凄まじい体術を紙一重で避ける僕――いや、紙一重などという格好良いものではない、ギリギリで逃げているのだ。
「どうした? 逃げてばかりで戦いに勝った者などいないぞ――?」
「ぐっ……分かってるさ、そんなの……!」
そうは言っても、回避だけでもギリギリ。反撃の余裕など全くない。
跳んでかわそうとする僕の足を、すかさず五条すばるの足が払う。
体勢が崩れた僕の体を、抱き留めようとする――体をひねって、なんとかそれをかわす。
「ぐうっ……」
なんとか地面を転がりつつ、息も吐かせぬ追撃を避ける――
もはや、恥も外聞もなく逃げ惑っているに等しい。
全く反撃の機会がないほど、五条すばるの攻撃は速く、隙がないのだ。
「ぐっ、はぁはぁ……」
立ち上がる僕を襲う、縦横無尽な体術。
上段からの組み敷き、下段からの組み付き――その合間をくぐり抜け、ひたすらに避ける。
息をする間も惜しんで、かわし、よけ、避けきる――
ほとんど、五条すばるの体術と、僕の逃げ足の勝負だった。
「ふっ……嫌われたものだな。
大人しく私に抱かれれば、快楽に満ちた最期を迎えられるというのに……」
「エキゾティックな美女は嫌いじゃないけどね。搾り殺されるのは御免だよ」
そんな軽口ほど、戦況に余裕はない。
ごくまれに発砲のタイミングはあるものの、銃弾の放たれた先に五条すばるはいない。
狙いを付ける余裕はまるでなく、乱射も同然なのだ。
当然、そんなものが当たるはずはない。
「ちっ……この……!」
乱射された銃弾の合間を縫って接近し、抱きすくめてくる五条すばる。
後方に飛び退き、それを避けるのが精一杯――このままでは、勝機は皆無。
なんとか、手を考えないと――
と――おもむろに、五条すばるは足を止めた。
「……さすがは、ここまで来た侵入者。
体術一途で仕留めるには時間が掛かるか――」
そう呟いた後、彼女は静かに印を組む。
両手両指を独特の形に組み合わせ、何かを呟く五条すばる。
これは、勝機か――?
「もらった――!」
思わぬ隙に、発砲しようとする僕――
その視界の端に、鞭のように蠢くものが映った。
足下から、影のようなものが伸びてきたのだ。
「……っ!?」
とっさに、その影を振り払うように後方へ飛び退く僕。
距離を取ってから、ようやくその正体を悟った。
それは――なんと、五条すばるの影。
ランプに照らし出された彼女の影が、別の意思を持つもう一つの生物のように動いているのだ。
その腕を、触手のように伸ばして――
とっさに避けなかったら、足首を掴まれていたところだ。
「ほう……これも避けるか。認めよう、貴様は強者だと――」
「……ぐっ!」
地面を蹴り、一気に間合いを詰めてくる五条すばる。
仕掛けてきたのは、やはり息も吐かせぬ体術だ。
しかし――さっきと違い、彼女の足下には自在に動く影がある。
その影は、足下からひゅんひゅんと触手のように別攻撃を仕掛けてくるのだ。
すなわち、相手が二人に増えたようなもの――
「くっ、くそ……! こんな……!」
「これぞ、淫技『影舞』――」
五条すばるの練達した体術の前に、反撃は困難。
それどころか、避けきることさえ難しい。
そして――
「うわっ!」
そして足下からは、影の腕が息も吐かせぬ攻撃を繰り出してくるのだ。
足を止めたら、たちまち捕捉されてしまうことは明らか。
抱き込もうとする五条すばるの腕から逃れ、間合いを離そうとする。
そんな僕を、影の中に引きずり込もうとする伸縮自在の腕。
五条すばるの身のこなし、それに加えて意のままに動く影――
このコンビネーションは、凄まじい威力を発揮していた。
明らかに、いつまでも避けきれるものではない――
「忠告しておこう。捕まるなら、私の方が良い。影に取り込まれるのは、少々酷だぞ――?」
「くっ……両方、御免だ!」
本体か影か、どちらかを封じなければ勝機はない。
と――そこで目に付いたのは、壁に取り付けられたランプだった。
あの灯を消せば、影も消えてしまうはず――
「そら、そら……どうした、観念したか!?」
「……」
なんとか回避しつつ、ランプを意識する僕。
しかし――あのランプの存在は、あまりにもあからさますぎるのだ。
これを消せば、影も消える。さあ消してみろ――まるで、そう誘っているかのようだ。
さて、どうするか――
僕はランプの方に視線を向けつつも、そこに近付こうとはしなかった。
僕が五条すばるの立場なら、影を保持するためのランプは絶対に守る。
決して放置などしたりしない――放置しているように見えるならば、そこに何かあるということ。
「どうした? ランプがそんなに気になるか……?」
「いや、どんな罠が仕掛けてあるのかと思ってね」
縦横無尽の連続攻撃を避けつつ、僕は減らず口を叩く。
しかし軽口とは裏腹に、すっかり追い詰められているのも事実。
「よく見抜いた。それだけ消耗した体で、そこまで注意力を損なわんとは……感嘆したぞ」
「消耗……か。参ったな、そこまで気付かれてたのか」
「ふっ……忍に洞察力は必須。貴様が疲労の極地にあることくらい、初見で分かる。
その身が万全ならば、互角の勝負ができただろうが――今の貴様では、無理だ」
「……」
そこまでバレているのなら、もうお手上げだ。
実際のところ、この城へ入ってから走り通しである。
走っては戦い、走っては逃げ、走っては捕まり、走ってはまた逃げ――
いい加減、疲労も頂点なのである。
「悪いが……侵入者を排除するのが私の使命。対等な勝負などにはこだわらん。
疲れに乗じて攻めさせてもらうぞ――」
「……そういうのをわざわざ公言する時点で、対等な勝負にこだわっているんじゃないか……?」
軽口を叩きながら、相変わらず逃げの一手。
そんな中で、五条すばるは軽く笑った気がした……若干、自嘲気味の。
「確かに……貴様の言う通りかもしれんな。しかし――何度も言うとおり、私の使命は侵入者の排除!
マルガレーテ様への忠義を貫くため、ここで手心を加えるわけにはいかんのだ!」
「真面目だね……僕と違って」
五条すばるの体術を避けながら、そう呟かざるを得ない。
それは、極めて一途な感情。
忠義、忠誠――僕には無縁な、そういう類のものだ。
どこか執念にも近い、そういう強さだ。
こんなものを持ち得るのは、おそらく――
「降伏しろ、強者よ。そうすれば、マルガレーテ様の気まぐれで命だけは助かるかもしれん。
さもなくば、私は使命を果たすのみ。見せしめとして嫐り尽くす……」
「降伏も、嫐り殺しも勘弁願いたいなぁ……」
どちらにしろ、捕まった沙亜羅が助けられなくなってしまう。
しかしこのまま逃げ回っていたとて、攻撃を避けきれない瞬間が確実にやって来るだろう。
疲れ果てて動きが鈍る前に、勝負を決めなければ――
反撃の糸口は、すでに見えた。
五条すばるは、僕の体を掴もうと腕を伸ばしてくる。
そう――抱き締めようとしているのだ。
つまり、彼女の体に接触する瞬間は必ずある――それが、糸口。
当然ながら、淫魔の特性は心得ている。
サキュバスに触れただけでも、男は魅了され骨抜きになってしまうのだ。
抱き締められれば、それだけで一切の抵抗は許されなくなるだろう。
サキュバス相手に接近戦は危険――すなわち、触れられただけで終わり。
しかし、相手が五条すばるなら危険はないはずだ。
おそらく、彼女は――
「……あんた、それだけの動きを得るまでにどれだけ修行したんだ?」
五条すばるの攻撃を避けつつ、僕は思わずそう問い掛けていた。
何の心理的駆け引きでもない――純粋な質問だ。
「この城に迎えられた五歳の頃から――毎日二十時間、ひたすらに修行を重ねた。
睡眠以外は、食事の時さえ修練を欠かさなかった」
律儀に答えながら、その修練の成果を繰り出し続ける五条すばる。
一日二十時間の修練――それでも、僕は驚かなかった。
むしろ、それでなければ嘘だ。
軽い努力で、これほどの身のこなしが、体術が、敏捷性が、得られたはずがない。
この領域にたどり着くまでに、彼女はどれだけ膝を折り、どれだけ血を吐いてきたのだろうか――
「……すまない。その修練の日々を、全部無駄にするよ」
「ほう……言ってくれる。やってみるがいい、出来るものならな!!」
「……!」
足首を掴んでくる影――これを、横へのステップで避ける僕。
その隙を突くように、背後から組みついてくる五条すばる――それは、あえて避けなかった。
五条すばるが、僕の背中に密着する――狙っていたのは、この瞬間。
――やはり、予想通り。
魅惑どころか、僕の心はいささかも揺るがない。
五条すばるは魅惑の技など使わないし、使えるはずもないのだ――
「もらった……ッ!」
五条すばるはそのまま僕を転ばそうとしたが、心を決めていた僕の反応の方が早かった。
彼女を背に預けたまま、巧みに重心を移動し――そのまま、背負い投げを仕掛けたのだ。
「な……!?」
五条すばるは、僕が振り払うべくもがくと想定していたのだろう。
投げ技にはまるで無警戒――そんな彼女は、僕の足下へと叩きつけられた。
「――すまない」
殺す相手に謝るのは、これが初めてだった。
同時に僕は、地へ倒れ伏す五条すばるの頭に銃口を向け――
――そして、静かに引き金を引いた。
しかし、銃弾は出ない。
なんと、このタイミングで弾切れだ。
「……どうした、撃たないのか?」
完全に観念した様子で、五条すばるは呟く。
「まさか、この私に情けでも掛けようというのか……?」
「……もう、勝負は決まったんだ。これ以上は、余計な犠牲だよ」
格好を付けてそう呟く僕だが――実際のところは、弾切れである。
大丈夫、相手は気付いてない。
「余計な犠牲……か。使命も果たせない門番一人、大した存在でもあるまいに」
完全に諦観した様子で、そう呟く五条すばる。
こちらの油断を誘っている――というわけでもないようだ。
彼女は、潔く負けを認めたのである。
「随分と潔いんだな……」
「我が技は破られ、その挙げ句に生かされたも同然――これでなおも足掻くなど、醜態を見せるつもりはない」
静かに立ち上がりながら、五条すばるは言った。
「しかし……随分と思い切ったものだな。
あそこまで密着を許すなど……私が魅惑の技を使わないとでも思ったか?」
「思ってたし……しなかっただろ。いや、そもそも出来なかった」
「……全て、お見通しか」
今度こそ本当に観念したように、軽く息をつく五条すばる。
そんな彼女に、僕は問い掛けざるを得なかった。
いったい、なんで――
「……なんで、人間の女がサキュバスの城を守っているんだ?」
「ごく稀なことだが……人間界と魔界の間で、偶発的に次元の裂け目が発生するらしい。
さらに稀なことに、その裂け目に吸い込まれて魔界に放り出される不運な人間がいるのだ……私のような」
どこか晴れやかな顔で、五条すばるは答える。
「たった一人で異界に立たされた私を保護して下さったのが、マルガレーテ様だった。
あの方にとっては、ただの気まぐれだったが……私は、マルガレーテ様に忠誠を誓った。
なんとかして、あの方のお役に立ちたかった。しかし、サキュバスの従者達と比べて、私はか弱い女。
だから、私は人間の身で使える淫技――くのいちの淫術を学んだのだ」
「……」
ひとえに、恩人であるマルガレーテのため――というわけか。
この淫魔の城に、人間の女がたった一人。
深い孤独と無力感――五条すばるは、それと戦った。
それと正面から向き合い、一日二十時間の修練を続けた。
そして、あれだけの技量を極めた――妖魔でもなんでもない、人間の女が。
たった一人のか弱い女が、魔界で主に忠誠を尽くす――五条すばるは、そんな修羅の道を歩んできたのだ。
執念さえ感じた力の理由は、それが全て。
それだけのために、五条すばるはここまで強くなったのである。
「なぜ、私が人間なのだと気付いた……?
これでも、そこらの淫魔以上の動きを身につけたつもりなのだがな……」
「人間でなければ、淫魔を超えようとはしないよ。
魅惑の術やら何やらが使えるサキュバスが、あそこまで体術を修練するものか」
実際、動きを見れば分かる。
どう見ても、五条すばるは人間だ。
淫魔の主に仕えるために淫魔を超えようとした、そうした人間なのだ。
そんな努力、人間以外の誰がするものか。
「なるほど……貴様に敗れたのなら悔いはないな。
行くがいい、強者よ。私はここを守る者である以上、私を破ったお前には、先へ進むことが許される」
「……いいのか? 侵入者を黙って通したとなったら、罰せられたり……」
「ふ……私の身を心配しているのか……?」
可笑しそうに、五条すばるは微笑を見せる。
「心配は無用だ。我が主であるマルガレーテ様は、そのようなことで咎める方ではない。
それに――私見ではあるが、あの方は侵入者に会いたがっておられるかもしれん」
「会いたがる……だって?」
妖魔の姫君が、こともあろうに侵入者に会いたがる――こんな滑稽な話があるだろうか。
「もしそうなら、黙って通してくれれば話は早いだろうに……」
「ふふ……マルガレーテ様ご自身はそれで良くても、側をお守りする我々にも面子がある。
ノイエンドルフ城の従者が侵入者を捕らえず、主の元に面会を許したとなれば……それはすなわち、マルガレーテ様の名誉に傷が付く」
「難しいんだね、忠誠ってのは……」
と――そんな面倒なことはいいとして、マルガレーテが侵入者に会いたがっているという話は聞き置けない。
そういう敵の心理にも、攻略の糸口があるかもしれないのだ。
「マルガレーテってのは、いったい何を考えているんだ……?」
「私は、たかだか20歳に過ぎん若輩。しかしあの方は、私の30倍以上もの歳月を生きておられるのだ。
それでも上級淫魔の中では若い方だが――あの方は、もはやほとんどの事に飽きておられる」
「飽きている……だって?」
確かに600年以上も生きていれば、色々と飽きる気もするが。
「マルガレーテ様だけではない。女王七淫魔という特別な階級にある者達は、みな世の中に飽きているのだ。
森羅万象を支配するほどの力を持ち、叶えられない望みなどない――その果てにあるのは、絶対的な退屈と怠惰」
「……」
「長く生きれば生きるほど、世界に価値を見いだせなくなっていく。
女王七淫魔と他者は称するが、そのうち半分以上は隠遁の身。『偉い』という身分にさえ飽きてしまっているのだ。
格の高さにまかせ、権勢を誇る――そんなことなど、とうに飽きてしまった者ばかり。
私も訳知り顔で語ってはいるが、そのお気持ちなど伺い知れん。絶対者ゆえの孤独よ」
「なるほど……」
そんな立場になったことなどないから、想像したこともないが――
言われれば、そうかもしれないとも思える。
「マルガレーテ様も、魔界そのものを疎んじられているご様子だが……しかし、人間に関しては違う。
あの方は、人間というものに深い興味を持ち、少しでも人間というものについて知りたがっておられるようなのだ。
かといって人間界を支配したいわけでもなく――やはり、そのお心は伺い知れんな」
「なるほど、ね……」
人間について知りたい――そこに付け込んで、何とかできないだろうか。
僕はあらためて、五条すばるを見据えた。
「本当に、僕をこのまま行かせてもいいのか? 僕達が、お前達のご主人様を討つことになっても――」
「……冗談を言うな。あの方が、たかだか人間相手にどうにかなるとでも思っているのか?
本来、上級淫魔の城に護衛など不要なのだ。そこを守る我々は、結局のところ飾りに過ぎん」
五条すばるは、自嘲するような儚い笑みを浮かべる。
「それに……侵入者にここまで色々喋っても、マルガレーテ様は私を罰しないだろう。
護衛など、いてもいなくても変わらない――警備など、ほぼ名誉職。虚しいものよな」
「……」
慰めるべきか、どうするべきかは分からない。
結局、声を掛けずにこの場を後にしようとする――
「……待て」
すると、唐突に呼び止められてしまった。
「なんだ? やっぱり、通してくれないのか?」
「いや……貴様は、ひとつ大きな思い違いをしている。
それが致命的な失敗に結びつかないうちに、忠告しようと思ってな」
「大きな思い違い……?」
「さっき言っただろう。『淫魔があそこまで体術を修練するものか』――と。
……残念だが大間違いだ。この城にも、私など足下にも及ばない猛者が二人いる。
当然、マルガレーテ様を除いてな」
「ふ、二人……?」
目の前の五条すばるでさえ、逃げ足と奸計でようやく勝った感じだ。
と、言うか――厳密には、勝てていない。
今でも、目の前で勝負を挑まれたら――もう勝ち目はないだろう。
そんな五条すばるが、足下にも及ばない……? しかも、それがあと二人……?
「バケモノじゃないか、そんなの……」
「そういう認識で構わない。淫魔ひしめくこのノイエンドルフ城で、最も恐れるべき二人だ。
従者のエミリア様と――そして、メリアヴィスタ様。この方達に出会ったら、迷わず逃げろ。絶対に、戦おうとは考えるな」
「エミリアと……メリアヴィスタ……」
この二人が、ノイエンドルフ城での双璧だという。
「やっぱり、上級淫魔なのか?」
「上級も上級、『百八姫』に名を連ねるお二人よ。『百八姫』とは、全淫魔の頂点たる『女王七淫魔』に次ぐ百八人の上級淫魔。
かの七人は流石に別格として、全淫魔の最高位に君臨される方々なのだ」
「百八姫……また、厄介な連中だな」
上級淫魔の中でも、てっぺんに位置する百八人。
そんなのが、二人もこの城に棲んでいるのだという。
「まず、エミリア様だが――この方は、正直なところはかりしれん。
この城にいる全ての従者の中でも最古参で、家事全般は万能。自己に厳しく他者には穏やか。
それでいながら、この城の誰とも、あまり深く接することはないのだ。確かなのは、マルガレーテ様からの信頼も絶大であることだな」
「つまり……一流のメイドってことか?」
「去年だったか……マルガレーテ様に謁見した妖魔貴族の一人が、叛意にかられて襲い掛かったことがあってな。
しかし、次の瞬間には粉砕されていた……文字通り、粉砕だ。あそこまで壊れ果てた人体は、私も初めて見た。
エミリア様は、主人を害する者には一点の容赦もないのだ」
「……」
それは、寒気のする話だ。
単にメイドであるだけではなく、近衛のような役職なのかもしれない。
「そして、もう一人。メリアヴィスタ様は――普段は穏やかなエミリア様より、危険度は上かもしれん。
表面上は、軽薄な娘に過ぎんが――かつては居城を構え、権勢を誇っていた魔界貴族。
紅狂姫メリアヴィスタと聞けば、淫魔達は震え上がった――という話だ」
「紅狂姫……か」
なにやら、穏やかではない称号だ。
「敵の返り血で染まりながら、狂気にも似た戦いを行う――そこから付けられた異名らしい。
実際、猫科の淫魔であるメリアヴィスタ様の戦闘能力は凄まじいものだとか」
「ネ、ネコ科……?」
可愛らしい響きに、思わず脱力してしまう。
「……忘れたか? 獅子も虎も、猫科の猛獣なのだぞ」
「そう言えば、そうだな……」
ライオンや虎が強いことは、誰だって知っている。
そういえば、あいつらもネコの仲間だ。
「なるほど、紅狂姫メリアヴィスタ――か。ところでエミリアの方は、なんとか姫っていう異名はないのか?」
「ああ、ない。エミリア様は、あまり魔界で名の知れた淫魔ではないからな。
ご自分で通り名を名乗ったりすることもなく、権勢を誇ろうともされない。
ひとえにマルガレーテ様に尽くし、それ以外では目立とうとされないのだ」
「ふぅん。サキュバスにも、色々あるんだな……」
権勢を誇る者もいれば、ひっそり生きる者もいる――まるで、人間社会そのものだ。
「女王七淫魔の中には、百八姫だった時代の通称をそのまま使い続けている方もいるという。
そこまで高位な者ともなれば、自身の権勢にすら大して執着がないのだろうな」
そう締めくくり、五条すばるは話を打ち切った。
「なるほど……色々と参考になったよ」
しかし――あともう一つ、聞いておきたいことがある。
沙亜羅を捕らえた、あのサキュバスのことだ。
「……アステーラってサキュバスについて、何か知らないか?」
「アステーラ……か。戦闘能力のみならば、大したことはない。
伸縮する舌をムチのように使いこなし、拘束されたら面倒だが――
よほど油断していない限り、そもそもは捕まらんな」
「……」
沙亜羅は、よほど油断しているときに捕まってしまったのである。
確かに、気を抜いていなければ余裕で避けられる攻撃だったはずだ。
いくらなんでも油断が過ぎる。本当に、一度きつく言ってやらないと――
「ただ、アステーラの特殊能力は少々ながら厄介だ。
……しかし、これ以上は言えん。仲間を裏切ることになるからな」
「ああ、そうだな……」
これまで、散々エミリアやメリアヴィスタについて喋ったではないか――とは言うまい。
あれは、僕に与えてもどうにもならない情報。
結局のところ、強すぎるから逃げろというだけの話。
しかし、アステーラに関しては違う。
その特殊能力とやらに事前知識があれば、勝敗に結びついてしまうのだろう。
そんな情報を僕に与えてしまうのは、重大な裏切り――そういう理屈らしい。
とはいえ、肝心な情報が抜けていたとしても不満はなかった。
そもそも、敵だった相手に、これほど色々と情報を与えられるとは思ってもみなかったのだ。
「……五条すばる、心から感謝してるよ」
「ふ……礼など言わず、行くがいい。貴様は私に勝ったのだ。
――そうだ。最後に、名前を聞かせてもらえないか?」
「ああ。深山優――いや、アウグスト・グリエルミ」
僕は初めて、仕事で知り合った相手に対して本名を名乗っていた。
五条すばるに対しても偽名を使うのは、どこか敬意を欠く気がしたのだ。
「……死ぬなよ、アウグスト」
「ああ……あんたも、元気で――」
そう言いかけて、僕は言葉を止めていた。
「……!」
同時に、五条すばるの顔が引き締まる。
てくてくという足音が、地下道の向こうから接近してきたのだ。
ネメシア――とは、少々違う。
その足取りの軽やかさからして、おそらく少女――もしかして、僕を追ってきたマイか?
「……」
たちまち、周囲の雰囲気は張り詰めた。
近づいてくる足音の方向を注視する僕と五条すばる――
そこへひょっこりと姿を現したのは――見覚えのあるメイド服の少女だった。
「馬鹿な、あいつは――」
「メイ殿……? なぜ、このようなところへ……?」
思わぬ珍客に、目を丸くする五条すばる。
確かに、目の前の少女はメイだ。
ネメシアに取り込まれたはずのメイが、なぜここに――
「すばるお姉様、大変なの……! マイちゃんが、マイちゃんがぁ……」
メイは半べそをかきながら、てくてくと五条すばるに駆け寄っていく。
「どうした? マイ殿に何が――」
「そいつに近寄るな、五条すばる……!」
僕はそう叫び、銃を構えた――が、遅かった。
メイはそのまま、五条すばるの足にしがみついたのだ。
「メイ殿、何を――」
次の瞬間、メイの小さな体が変貌していた。
バラバラと崩れ、触手の塊となり――油断していた五条すばるの肢体に絡まってきたのだ。
「ぐっ、これは……」
無数の触手が渦となり、五条すばるの体に群がっていく。
まるで覆い込むように、彼女の体を包みながら――
あいつは――やはり、ネメシア。
「ぐぅっ……! 淫技『影舞』!」
触手に絡め取られながらも印を組み、術を発動させる五条すばる。
その影が蠢き――そして彼女の足下で口を開き、自分自身を呑み込み始めた。
自分に取り付いたネメシアごと、影の中に引きずり込もうとしているのだ。
ずるずると、五条すばるの体は影の中へと沈んでいく。
「くっ……!」
拳銃を構え、何とか助けようとする僕だか――
「何をしている! ここから離れろ!」
そう、一喝された。
「何を言ってるんだ、このままじゃ――」
「早く逃げろと言っている! この化け物が、これしきで刺し違えられる相手か!」
「そうだけど、こんな――」
そうこうしている間にも、五条すばるは肩まで影に引き込まれていた。
外に逃れようとするネメシアの触手を、今度は逆に影で絡め取りながら。
これでも倒せず、時間稼ぎにしかならないことを――五条すばるは、悟っているのだ。
「いいから、行けと言っている! 貴様のために、我が身を犠牲にしているわけではない!
私はノイエンドルフ城地下道の番。撃退が適わぬなら――少しでも、侵入者の足を止めるのが使命!」
「でも……!」
「頼む、行ってくれ。私は貴様に負け、責務を果たせなかった。
存在意義をなくした、哀れな負け犬だ。こうでもしなければ、マルガレーテ様に申し訳が立たんのだ」
「……」
僕は唇を噛むと、くるりと背を向けていた。
「そう、それでいい……」
ざわざわと、影の中に消えていく五条すばる。
その前に、僕は走り出していた。
こうしなければ――それこそ、彼女の意志を台無しにしてしまうことになる。
彼女は、単なる足止めに命を懸けたのだ。
本当は、忠義でも何でもない。僕を逃がすために――
「くそっ……!」
悪態を吐きながら、一目散に地下道を駆ける――その後方で、五条すばるとネメシアの気配が消え去った。
「ネメシア……見るたびに、新ネタを仕入れてくる奴だな……」
そう軽口を呟きながらも、僕は五条すばるを悼んでいた。
足を決して止めず、ひたすらに地下道を駆けながら。
今は弱音を吐いているときではない。とにかく沙亜羅を探さないと――
「はぁ、はぁ……そう言えば、最近ハーブ食べてないなぁ……」
あれから、どれくらい走っただろうか。
しばらく進むと、地下道の出口であろう階段が見えた。
息を切らせながら階段を上がった先は、広く豪華な廊下。
地下道の仄かな灯りに慣れた目には、豪華な照明は少々きつい。
なんとか地上に出たのはいいが、ここはどこなのか。
アステーラとやらに連れ去られた沙亜羅は、いったいどこにいるのか。
こんなことで、沙亜羅が助け出せるのか――
「あっ。こんなとこにいたんだ、優――」
そう思った矢先、聞き慣れた少女の声が僕を捉えた。
「え……?」
振り向くと、そこにいたのは――なんと、沙亜羅。
探していた少女が、唐突に僕の目の前へと現れたのである。