魔を喰らいし者2
「そんな……貴方一体……」
「どうした、そんなにこの翼が珍しいのか? お望みなら尻尾も見せてやるぜ」
嘲るような笑みを浮かべながら、かつてマルガレーテが言った言葉を真似てからかう男。見せびらかすように突き出された尻尾を前に、マルガレーテはあっけに取られていた。
「あ、貴方サキュバスだったの?」
「お前等と一緒にするな。俺はれっきとした人間だっての! まあ……今もそうかと聞かれたら、ちょっと自信はないけどな」
「そんな……ありえない……」
魔力を探ってみたところ、男の力は中級淫魔クラス――それも、限りなく上級淫魔に近いレベルだった。人間を淫魔化する魔術というものは存在するが、人間の男がそれをかけられた場合必ず女のサキュバスへにしか変化しない。これは、サキュバスのほとんどが雌生体(極稀に雌雄同体の種も存在するが、それも基本的に女性がベースとなる)である為だ。しかも、それにより淫魔化した者の大半は下級淫魔程度の力しか持つ事はない(よほど高い適性を持つ人間なら別だが)。雄生体のサキュバス、それもこれだけの力を持つ者など、存在するはずはないのだが……今目の前にいる男の姿は、まさしくその存在しないはずのものだった。
(けど、どうやって? 地下室の鍵は私とエミリアしか持っていないから、他の誰かが彼を淫魔に変える事は不可能……いや、例え誰かが彼に術をかけることが出来たとしても、雄生体のままであるというのはおかしい……)
「おいおい、どうしたんだ? そんな鳩が豆鉄砲食らったみたいな面してよ」
「くっ……貴方、一体何をやったの!? 答えなさい!」
「当ててみろよ。そのぐらいわかるよなぁ? お偉いお偉い貴族のマルガレーテさんならよ」
(こ、この男……っ!)
一瞬怒りに任せて攻撃を仕掛けそうになるが、何とか堪えるマルガレーテ。実際彼女がそうしていれば、容易く男は殺されていただろう。いくら男が上級淫魔に匹敵する力を持っていても、彼女の力は男のそれを大幅に上回っている。まともに戦えば、勝敗は明らかだった。
しかしながら彼女がそれをしなかったのは、仮にも女王七淫魔の一人として、たかが人間ごときに馬鹿にされたままでいるのはプライドが許さなかったからだ。そして男も彼女のそんな心は十分理解していたのだろう。故に彼は、ここまで相手を舐めた態度を取る事ができた。
「……ひょっとしてまだわからないのか? 案外大した事ないんだな、魔界の貴族ってのもよ」
「くっ……エミリア! 貴女は何か……」
「おいおい、まさか部下に手伝ってもらおうとしてるのか? 一人じゃこんな簡単な事もわからないなんて……はぁ、情けなや情けなや」
「なっ……ふっ、ふざけないで! こんな問題くらい、簡単なんだから!」
「だったら、すぐに答えてみろよ。ほら、どうした? こんな問題くらい簡単なんだろう?」
「こっ、この……」
とっさに傍に控えていた女給仕の名を呼び、知恵を借りようとするマルガレーテ。だが男にはそんな考えなどお見通しのようだった。先回りして釘を刺された事で、マルガレーテへの助力は絶たれる。必然、マルガレーテは自身の力だけで謎を解き明かさなくてはならなくなってしまった。
「ほらほら、答えはどうした? わかってるならさっさと答えてみろよ。それともまさか、本当はわからないのか? うーわ、だっさーい」
「五月蝿い! 今考えてるんだから邪魔しないで!」
「何だ、やっぱりわかってなかったのか。やーい、嘘吐き〜」
ここぞとばかりにマルガレーテをからかい続ける男。マルガレーテはそれらの暴言の数々に苛立ちながらも、必死に頭を回転させて正解を導き出そうとしていた。だが、中々答えは出ない。
「やれやれ、こんな問題もわからないのか。仕方がない、ヒントをやるよ」
そう言うと、男は地面に落ちていたアイアン・メイデンの蓋をひっくり返した。そこに、本来あったはずの物――搾夢肉床は、欠片も残っていない。
(そんな……どうして搾夢肉床が無いの!? まさか、小窓から外に出した? けど、小窓は壊されてなかったし……一体どうやって……)
「おいおい、まだわからないのか? それじゃ、特別に第二ヒントもやるよ」
そう言うと、男はマルガレーテを馬鹿にするかのように舌を出した。思わず怒りかけたマルガレーテだったが、一瞬脳裏にある考えが浮かびはっとする。
(消えた搾夢肉床、舌、そして謎の淫魔化……ある! たった一つだけ、これらを結びつけるものが!)
考えられる可能性はそれしかない。マルガレーテはそう判断すると、その答えを口にした。
「貴方……搾夢肉床を食べたのね!」
「正解! 馬刺しみたいで結構美味かったぜ。グネグネ動いて食いづらかったのと、『タレ』が最悪だったのが難点だったけどな」
ぱちぱちと手を叩く男。答えを当てた事で、マルガレーテはいくらか余裕を取り戻していた。先程から崩されっぱなしだったペースを取り戻すべく、意識して悠然とした態度を取る。
「よくそんな事を思いつけたわね。普通なら思いついても実行できないでしょうに」
「へっ、こちとら山中訓練で蛇や蛙だって食ったことがあるんだ。あのくらい、余裕だっての。まあ、寄生虫とか病気とか、心配な点は幾つかあったけど……流石にこんな事になるとは思わなかったな」
そう言うと、男は翼と尻尾を動かしてみせた。
「自分より上位の種を、捕食するという形で取り込んだ事によるイレギュラーな淫魔化……どうやらそういう事のようね」
「そうらしいな。お前等がサキュバスなら、さしずめ俺はインキュバスといったところか」
インキュバスというのは、ゲームなどでサキュバスと対を成す存在として登場する、男の淫魔のことである。インキュバスはサキュバスが男を襲うように、女を襲う魔物らしい。サキュバスに比べると知名度は低いが、それでも割りとメジャーなモンスターではある。
「ふふ……貴方、本当に面白い人ね。気に入ったわ。どう? 私の物に」
「断る」
「……まだ、最後まで言って」
「断る」
「……あの」
「とりあえず断る。断固として断る。何があろうと断る。絶対に断る」
「……ふふ、いい度胸ね」
「ああ、昔からよく言われる」
こめかみに青筋を浮かべるマルガレーテに対し、男は事も無げにそう答えた。
「少しは優しく扱ってあげようかと思ったけど……遠慮は要らないみたいね。私の拷問具の数々、たっぷりと味あわせてあげるわ」
「悪いが、そいつは辞退させてもらおう。俺は元の世界に帰りたいんでな。こんな屋敷はさっさとおさらばさせてもらうぜ」
「ふふふ……帰れると思っているの?」
そう言うと、マルガレーテはぱちりと指を鳴らした。それに反応してか、先程まで彼女の傍に控えていたメイドの女が前に進み出る。
「淫魔の力を得て少しは強くなったみたいだけど……その程度の力では、私やエミリアには到底敵わない」
「確かにそうだな……まともにやりあったら、の話だが」
野性的な笑みを浮かべながら、男はエミリアを指差した。
「確か、エミリアだったな。あんた、随分マルガレーテと仲がいいみたいじゃないか。側近中の側近ってところか?」
「……それが、どうかいたしましたか?」
「いやいや、ちょっとした確認だよ。しかしこれでよくわかった。あんたが御主人様に忠実な存在だってことはな」
男は大きく翼を広げ、その形をゆっくりと変え始めた。翼の皮膜を無くし、骨組みだけになるように変化させる。
「……何のつもりですか?」
「決まってるだろ。この局面でやる事は一つ……お前を倒してここから脱出する、それだけだ」
「……貴方は、私に勝てると?」
(この男、エミリアの力量を見抜いていないの? いえ、そこまで鈍い男とは思えない。ならば、何かエミリアを倒す策があるのかしら?)
二人のやり取りを見物しながら、マルガレーテは胸中で思案を廻らせる。男はそんなマルガレーテに視線を向けた。
「あんたは主が危険に晒されれば、絶対に守ろうとするだろう。その結果、自身の身が危うくなろうとも。あんたはそういうタイプの人間……もとい、サキュバスだ」
「……そうだとして、それが何だというのです?」
「それはだな……こういうことだ!」
叫ぶと同時に、男は骨組みだけとなった翼を天井に向けた。それとほぼ同時に、骨組みの一本一本が素早く伸びて、天井にぶら下がっていたシャンデリア――正確にはそれをぶら下げていた鎖――を破壊する。結果、シャンデリアは落下することになった……マルガレーテの頭上目掛けて。
「なっ!」
「御主人様、危ない!」
とっさに反応できず立ち尽くすマルガレーテを、横からエミリアが抱きかかえるようにして救出する。その直後、シャンデリアが床に落ちて砕け散った。主を救出したはいいものの、エミリアはその間に敵の姿を見失ってしまうことになった。
(これが、あの男の狙い……ならば!)
エミリアは自らの翼を大きく広げ、自分と主の両方を守るように包み込んだ。
(ここで私たちを倒すつもりなら、これで防げるはず……)
翼に魔力を込め、衝撃に備えるエミリア。
……だが、しばらく待っても一向に攻撃は来なかった。
(……? ……はっ、まさか!)
エミリアは慌てて翼を元のサイズに戻し、周囲を確認した。男の姿はどこにもなく、部屋の扉は開けっ放しになっていた。
(やられた! まさか、あの局面で逃げの一手を打つとは……)
普通に逃げただけなら、エミリアも気付けただろう。だが男は事前の会話で、本当にエミリアを倒して脱出しようと考えているように思わせていた。そして、駄目押しに主の身を危険に晒すことで、そちらの方にしか意識が行かないように仕向けたのだ。エミリアが気付けなかったのも、無理はないだろう。
「申し訳ございません、今すぐあの男を……御主人様?」
「ふふ……ふふふ……」
マルガレーテは不気味な笑みを浮かべていた。怒りと愉悦が入り混じったような、混沌とした笑みを。
「エミリア……あの男を捕まえて、私の前に連れてきなさい。多少の犠牲は構いません」
「……よろしいのですか?」
「ええ。必ず連れてきなさい」
「わかりました。では……」
言うが早いか、エミリアは部屋の外へ駆け出していった。それを見送りながら、マルガレーテは念話――所謂テレパシーのようなものだ――を使い、城内にいる他のメイドたちにも指令を出す。
「これでよし。ふふ……あら?」
ふと、マルガレーテはアイアン・メイデンの蓋の方へと目を向けた。そこにはあの男のものと思しき白濁液が、僅かながら付着している。マルガレーテはそれを人差し指で掬い取り、ぺろりと舐めた。途端に、彼女の表情は歓喜に満ちたものへと変わる。
「何て美味しい精……ふふ、最悪だなんて謙遜しなくてもいいのにねぇ」
そう言うと、マルガレーテはその端整な顔に、誰もが魅了されそうな微笑を浮かべた。
「いたわ、あそこよ!」
「ちっ、こっちもか!」
逃げようとした先からメイドたちが現れる。やむを得ず、俺は別な進路を選んだ。翼を広げて飛び、追っ手を引き離そうとする。だが、メイドたちの飛ぶ速度は俺と対して変わらず、中々振り切れそうに無かった。いや、それだけではない。
(まいったな……どうやら、誘導されてるみたいだ)
先程から、進路を選ばされている。恐らく捕まえやすい場所へ追い込んで捕らえるつもりなのだろう。窓でも破って逃げ出したいのは山々だが、追っ手を振り切ってから出ないと追跡され、結局は捕らえられることになる。ただでさえ俺は、この魔界とやらの事はほとんど知らないのだ。地の利は向こうにあり、数でも向こうが上、しかも一人一人の実力にそれほど差が無いのなら勝ち目は無いと言っていい。
(だがまあ、ここまでは想定の範囲内……問題は、その後だ)
捕まらないよう全力で飛び回りながら、俺は頭の中で作戦をまとめる。どう行動するかを大体決めたところで、通路の向こう側が見えた。どうやら広間になっているようだ。そして、その先には……。
「……お待ちしておりました」
「やっぱりあんたか……まあ、予想は付いたけどな」
そこで待ち受けていたのは、エミリアだった。恐らくは先回りしていたのだろう。想像はしていたが、あまりありがたくない事態ではある。
(さて、ここを切り抜けられるかどうか……正念場だな)
「あまり手荒な真似はしたくありません。大人しく捕まっていただけませんか?」
「そう言われて、俺がはいわかりましたって言うと思うか?」
「やはりそうですか。では……失礼します」
エミリアはそう言うと、両の手を無造作に広げた。それとほぼ同時に、甘ったるいような、妙な匂いが周囲に満ちる。その芳香に何か危険なものを感じた俺はとっさに息を止めるが、それだけでは防ぎきれなかったらしく、急な脱力感に襲われた俺は床に膝をついていた。
「なっ……何だ、これ、は……」
「……私の淫香を吸って、その程度で済んでいるというのは大したものです。ですが……これで貴方はもう、抵抗できない」
(まずい、これは計算外だ! サキュバスって奴がこんな能力を持っていたとは……いや、こいつだけの能力かもしれないが、そんな事はどうでもいい!)
「では、これから貴方を御主人様の元へお連れします。大人しくしていてくださいね」
ピンク色に染まっていく視界の中で、エミリアがこちらへ歩を進めているのがわかる。俺は朦朧とする意識の中……。
選択肢1:必死で抵抗しようとするが、それは叶わなかった
選択肢2:必死で抵抗の術を導き出した
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