魔を喰らいし者




 こんな所で諦めるわけにはいかない。ここで諦めたら、待つのは死だけだ!

(考えろ……何か、手はあるはずだ! 何か、何か手は……)

 だが、そうこうするうちにエミリアは近くまで来ていた。そして傍に屈んで俺の体に手をかける。

(くっ、万事窮すか……いや、一つだけ方法があった!)

 もはや一刻の猶予も無い。俺はすかさず、行動を起こした。

「……Don't surprise……fear……doubt……and confuse……(驚く無かれ、恐れる無かれ、疑う無かれ、惑う無かれ)」

「……今、何かおっしゃいましたか?」

 俺が何やら呟いているらしいことに気付き、エミリアが動きを止める。だが俺はそれに構わず、口を動かした。

「……If I keep "four lessons"……my victory becomes……firm!(『四戒』を守る限り、我が勝利に揺るぎは無し)」

 言い終えた瞬間、淫香とやらに毒されていた体に力が戻る。素早く俺はエミリアから距離を取った。

「なっ!」

「つ・ら・ぬ・けえええええええええええ!」

 瞬時に翼を変形させ、エミリアに向けて放つ。エミリアは咄嗟に後ろに大きく跳んでこれをかわした。

「そんな、私の淫香を受けて無事でいられるはずが……っ!」

「へっ、残念だったな!」

 先程俺が使ったのは、マインドセットと呼ばれる技術と催眠暗示を組み合わせたものだ。マインドセットとは精神状態を固定し、恐怖に陥ったり動揺したりすることを防ぐもの。そしてそれを暗示と組み合わせることで、特定のワードを唱える事で強制的に精神状態を正常な状態に戻し、一時的だが痛覚やダメージを無視して円滑な行動が取れるようにしたのだ。これを応用すれば限界以上の身体能力を引き出したりも出来るらしい。もっとも俺はそこまでやった事はないが。

(こんなものを身に付けさせられた時は何の役に立つんだって思ったが……教えてくれた親父に感謝しないとな)

 ロクに家に寄り付かない父のことを思い出しながら、俺は口の端に笑みを浮かべた。

(効果が持続するのは精々十五分……早めに決着をつける!)

「いくぜエミリア!」

「……くっ!」

 とっさに構えを取り、俺を迎え撃とうとするエミリア。だが俺はエミリアの方へ向かうと見せかけて、全く逆の方向へと跳んだ。その先には、先程まで俺を追いかけていたメイド達がいる。

「貫けええええええええ!」

 そのメイド達に向かい、俺は右の翼を変形させて放った。まさか自分たちに戦禍が及ぶとは思っていなかったらしく、慌てるメイド達。

「えっ……きゃあ!」

「危ない!」

 咄嗟に宙へと逃れるメイド達。だがこれは俺の思惑通りだった。すかさず左の翼を伸ばし、メイドの一人の体に巻きつけて素早く引き寄せる。

「きゃっ!」

「あっ、マイちゃん!」

 メイドの一人――捕まえたメイドに良く似た顔付きの少女――が叫ぶ。マイというのは恐らくこのメイドの名前だろう。だがこの際そんな事はどうでもいい。俺は右手の爪に意識を集中した。すると右手の爪が三十センチ程度の長さに伸びる。

「そうは――」

「全員動くな! 近づけばこいつを殺す」

 こちらへ突撃しようとしたエミリアに対し、俺は右手の爪を捕まえたメイドの喉下に突きつけて制した。

「このっ……ああっ!?」

「お前も動くな」

 身を捩じらせて逃げ出そうとしたメイドに対し、俺は翼をより強く巻き付けた。途端にメイドは苦痛を顔に浮かべて動きを止める。

「ま、マイちゃんから手を離せ!」

「動くなと、言ったはずだ!」

 先程捕まえられたメイドの名を呼んだサキュバスが、こちらへ飛び掛ろうとする。俺はそれを制すると同時に、捕まえたメイドの首筋に爪の先を僅かだけめり込ませた。苦痛に声をあげるメイド。

「うあっ!? ち、血が……」

「ま、マイちゃん!」

「近づけば殺すと言ったのが聞こえなかったのか? 次は本当に殺すぞ」

「うっ……」

 俺がすごむと、メイドは悔しそうにしながらも動きを止めた。

「人質、というわけですか」

「まあ、正確にはサキュバス質ってとこかな。さて、ここは引いてもらおうか」

「卑怯な手を……」

 メイドの一人がそう洩らしたのを、俺は聞き逃さなかった。

「卑怯? 何言ってるんだお前達は! 俺がこんなとこに来たくて来たとでも思ってるのか? そんなわけねえだろうが! 勝手に俺をさらって来たような連中の仲間が、偉そうな口叩くんじゃねえ!」

「ひっ、ひいっ!」

 ここぞとばかりに相手を責める。思ったとおりだ、ここの連中は戦闘や交渉に関してはほとんどが素人らしい。それならいくらでもやりようはある。

「相手の言葉尻を捕らえてすかさず恫喝ですか……交渉術の基本ですね」

「へえ、あんたは他の連中より頭が回るみたいだな。で、どうだ? ここは一つ俺を見逃そうとか思わないか?」

「……マルガレーテ様からは、多少の犠牲は構わないと言われています」

「……だとさ。あんたも災難だったな」

 エミリアの言葉に対し、俺は爪の先に少しだけ力を込めた。捕まえられたメイドの顔が苦痛でゆがむ。

「や、やめて! マイちゃんを殺さないで!」

「メイ……ですがこれは、マルガレーテ様の……」

「おーおー、冷たい上司だねえ。部下が殺されても構わないなんてな」

 言葉とともに、更に一ミリばかり爪をめり込ませる。

「や、やめてよぉ! これ以上マイちゃんを傷つけないで!」

「そいつはそこのエミリアに言うんだな。俺を見逃してくれるなら、こいつはちゃんと返してやるよ」

 そう言うと、メイと呼ばれたメイドはエミリアの方へと視線を向けた。

「エミリア様、お願いします! マイちゃんを殺さないでください!」

「しかし、これは……」

 メイの懇願に、困った顔を見せるエミリア。狙い通りだ、しめしめ。

「ずいぶんと仲がいいみたいだな、お前。こいつとはどういう関係だ? 友達か、それとも姉妹か?」

「ま、マイちゃんはボクの妹だ!」

「なるほど、言われて見ればよく似てるな」

 そう言いながら、俺は翼の締め付けを強めた。

「うっ、ああっ!?」

「ま、マイちゃん!」

「しかし可哀想なもんだね、このマイって娘も。上司のせいで、死んじゃうんだもんな。幾つか知らないけど、可哀想だよなあ」

 他人事のように言いながら、エミリアを牽制する。どうやら部下を犠牲にしてまで俺を捕まえるのは本意ではないらしく、彼女は複雑な表情を浮かべていた。

「そうそう、今の状況はそこにいるお前等にとっても他人事じゃないぜ」

「なっ、何を!」

「簡単な事だ。もしエミリアが俺を捕まえようとした場合、俺は当然抵抗する。捕まるまでに、そうだな……こいつ以外に、後二人か三人は殺せるだろうな」

 俺の宣言に、メイド達がざわめく。別にこれは嘘でもなんでもなく、自分の力量と相手の力量を冷静に判断した結果だ。淫魔化して得た力と持っていた戦闘技術をフルに活用すれば、それくらいは十分に可能だろう。

「無論、二人か三人ってのはあくまで最低の場合だ。実際はもっと多いかもしれん。四人? 五人? いや……場合によってはそのまま逃げおおせることもあるかもな」

 そう言ってメイド達の方へと視線を向ける。無論、エミリアへの注意は怠らない。

「無論、上級淫魔だろうと安心は出来ない。むしろ、油断してる奴の方が狩り易い。つまり……ここにいる連中のほとんどは、殺される可能性がいくらかはあるというわけだ」

「…………!」

 メイド達に緊張が走る。ようやく彼女達も理解したらしい。人質に取られているのはマイだけではなく、自分達もだという事に。

「……さて、その上で聞かせてもらおう。お前の主人の言う『多少の犠牲』ってのは、ここまでの事態を予想した上での発言か?」

「それは……」

「……確かに、そこまでは予想してなかったわ」

 エミリアの言葉を遮った声に、その場にいたほとんどの者が振り向く。そこにいたのは……マルガレーテだった。

「なっ、マルガレーテ様!」

「別にかしこまらなくていいわ。それより……」

 平伏しようとする部下達を制し、マルガレーテは俺の方へと視線を向けた。

「随分手段を選ばないのね。サキュバスを人質にとるなんて、貴方が始めてよ」

「生憎、戦場で手段を選ぼうとするほど高潔じゃないんでな。で、どうする? 俺を見逃すか?」

「そうね……見逃してあげてもいいわ。条件があるけど」

「その条件ってのは……何だ?」

 もうすぐ十分が経つ。早い内に交渉を切り上げないとな。俺は内心の焦りを隠しつつ、マルガレーテに尋ねた。

「簡単な事よ。また……この屋敷に戻ってらっしゃい。期限は……一ヶ月って所かしら」

「随分短いんだな……せめて半年は欲しいんだが」

「そう? じゃあ……おまけして三ヶ月にしてあげる」

「……わかった、その条件を呑もう」

 もとより、条件を選ぶ余裕などこちらには無いのだ。時間もあまり無いしな。

「……そうそう、俺が着てた服とかも返してもらおうか」

「いいわ。持ってきてあげなさい」

 マルガレーテがそう命じると、メイドの一人が慌ててその場から駆け出した。そして一分後、俺の服を手に戻ってくる。これで、残り時間は後三分ちょっとか。急がないとな。

「そいつを、そこの床に置いてもらおうか」

 俺がそう言うと、メイドは大人しく指示に従ってから後ろに下がった。俺は空いた翼を伸ばしてそれを引き寄せ、左手で掴む。

「そういえばまだ名前も聞いてなかったわね。貴方、名前は?」

「甲斐 村正だ!」

「カイ、ムラマサ……その名前、よく覚えておくわ」

 そう言うと、マルガレーテはにこりと微笑んだ。その間に、俺はゆっくりと窓の方へと向かう。

「約束だよ、マイちゃんを返して!」

「わかったわかった、今返してやる……そらっ!」

 言うが早いか、俺は翼でマイを放り投げた。そちらに全員の視線が向かったところで、素早く窓に向けて突撃する。窓をぶち破り、俺は外へと飛び出した。

「あばよっ、陰険女!」

 翼を駆り、俺は屋敷から逃げ出した……。







「……よろしかったのですか?」

「何がかしら?」

 忠実な従者の言葉に、マルガレーテは尋ね返した。

「あの男のことです。もう戻ってこないのでは?」

「多分、戻ってくるわ。今日の借りを、返す為にね」

「ですが……」

 なおも不安そうな顔のエミリアに、微笑むマルガレーテ。

「心配しているの? 大丈夫よ、あんな男に私がやられると思う?」

「いえ、そんな事は……」

「ふふふ……やはり貴女は可愛いわね」

 そう言うと、マルガレーテはエミリアの頭を慈しむように撫でた。

「ごっ、御主人様!」

「ふふ……それでは、戻るとしましょうか」

 悪戯っぽく微笑むと、マルガレーテは屋敷の奥へと向かった。







 屋敷を脱出してからきっかり三分が経過した後、空を飛んでいた村正は地面へと落下しつつあった。

(くっ、淫香ってのがまだ残ってるのか!? やべえ、思うように動けねえ!)

 咄嗟に体を翼で覆い、衝撃に備える。永遠とも思える数秒の後、村正の体に落下の衝撃が走る。

「ぐっ……がはっ!」

 何とか受身を取り、ダメージを最小限に抑える。そのおかげで、どうにか死ぬ事は免れたようだ。淫魔化したことで少しは体が強靭になったという事もあるかもしれない。

(くっ、まずいな……骨は折れてないみたいだが、かなりダメージが大きい……早くどこかに隠れないと。こんな所を襲われたら、絶対助からない……)

 そう考えた村正は、はいずるようにして移動を開始した。幸いにもすぐ近くに浅い洞穴があったので、その中に入って壁にもたれかかる。

(しばらく、ここで体力の回復に努めよう……とりあえずは、それからだな……)

 体力を回復すべく、村正は横になって目を瞑った。しばらくの後、安らかな寝息が聞こえ始める。

「zzz……」

 ゆっくりと休んでいる村正の顔を、魔界の月がいつまでも照らしていた……。                                                (魔を喰らいし者3へ続く)






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