神曲


 

 ――『神曲』。

 イタリアの代表的詩人ダンテ・アリギエーリが、14世紀に記した叙事詩である。

 その主人公は作者であるダンテ。

 彼は暗い森に分け入り、なんと地獄に迷い込んでしまうのである。

 そしてダンテは案内人に連れられ、まるで観光のごとく地獄巡りの道程へと導かれるのだった。

 

 そんなダンテが目にしたものは、何階層にも分かれている地獄。

 悪趣味なことに、その階層によって行われている罰――すなわち責め苦は異なる。

 死者達は生前に犯した罪の種類によって各階層に振り分けられ、文字通り地獄の責め苦を味わうのだ。

 それが『神曲』の地獄編、イタリア文学の頂点に燦然と輝く作品である――

 

 

 

 「……ふぅ、そろそろ時間か」

 ベアトリーチェは軽くため息を吐きながら、静かに『神曲』の文庫本を閉じた。

 人間界で購入した、仕事と仕事の間の暇潰し用の本である。

 この作品は人間界でベストセラーとなったが、魔界に与えた衝撃はそれ以上だったのだ。

 生きている人間が決して知らないはずの地獄の様相を、なぜかダンテとかいうイタリア詩人は知っていた。

 とは言え神学的な脚色は非常に多く、あの時代には罪とされていなかった事柄――例えば動物虐待などへの言及はない。

 それでも、詩人ダンテは何らかの手段で本物の地獄を聞き知っていたとしか思えない。

 人間界に地獄の情報をリークした裏切り者がいる――関係者の間で騒然となったものだ。

 しかし、その不届き者を発見できないまま700年、『神曲』はすっかり古典文学となってしまった。

 当時は人間界においてセンセーショナルに受け止められたこの作品も、現代では信じる者すらいないだろう。

 

 ――と、物思いにふけっているのもここまで。仕事の時間だ。

 己を待ち受ける運命を何も知らず、通学路を進む一人の男子高校生。

 彼を待っていた死神ベアトリーチェは、仕事道具である大鎌を振り上げる。

 そして数秒後、一人の男子の屍が路上に転がっていた。

 

 「さて……」

 ベアトリーチェは懐からノートを取り出し、ペンでチェックを入れようとする――

 その瞬間、彼女はぴたりと硬直してしまった。

 「死亡年月日、2070年1月22日……?」

 この少年の記録欄に記されている運命の日付、それは約60年も先のことである。

 彼は明らかに、この2007年に死ぬ運命になどなかったのだ。

 「……」

 ベアトリーチェはノートと青年の屍に交互に視線をやりながら、額に汗を浮かべて立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 「……うん? ここは?」

 まるで深い闇から帰り着くように、僕は意識を取り戻していた。

 そこは、まるで小さな駅の待合室のようなところ。

 そんな広く寂しい空間に、ぽつんとベンチが置いてある。僕はそこで寝かされていたのだ。

 室内には照明が点いているものの、窓の外は真っ暗。

 通学途中だったのは覚えているが、これは一体――

 

 「気が付いたか……」

 混乱する僕に、少女の静かな声が投げ掛けられた。

 「え、君は……?」

 そこで初めて、僕は部屋の中に一人の少女がいたことに気付く。

 その少女の全身は、まさに黒づくめ。

 時代掛かった漆黒のローブに、夜の闇のように黒いロングヘア。

 ぱっちりとした瞳の色も澄んだ黒、ただし彼女の肌はコントラストをなすように白かった。

 「私はベアトリーチェ――死神だ」

 少女は何でもないことのように、そう告げる。

 「し、死神……!?」

 「言い難いことだが、君は死んだ」

 まるで言い難くなさそうに、ベアトリーチェと名乗った死神は平然と言った。

 「ここは地獄の入り口、君はこれから地獄に落ちることになる」

 「ぼ、僕が地獄に……!? なんで!?」

 矢継ぎ早に繰り出される少女の言葉に、僕は驚きを隠せない。

 普通ならまず、本当に僕は死んだのか、ここは本当に地獄なのかを疑うところだが――

 僕は死んでいる、ここは現世ではない、目の前の少女は普通の人間ではない、全部本能的に分かる。

 なにか体がスースーした感じ、周囲の重苦しい空気、少女の異様な気配、それはリアルに伝わってくるのだ。

 受け入れ難い現実に直面した時、人はその衝撃の矛先を無意識に逸らしてしまうのかもしれない。

 とにかく僕の中では、驚きや恐怖より、理不尽さが何よりも先行していたのだ。

 「なんで、僕が地獄行きなんだ? 確かに僕は全くの善人とは言えないけど、大した悪行なんてした覚えは――」

 そもそも、悪いことをする度胸などないとも言える。

 とにかく僕は、死神ベアトリーチェに掴みかからん勢いで問い質していた。

 「それは、その……こちらにも色々と手違いがあったのだ」

 なぜか少女は、僕からすっと目を逸らした。そして、頬を伝わる汗を手で軽く拭く。

 「まず、君はまだ死ぬ予定ではなかった。君が絶命するのは今から約60年後の予定だったのだ。

  そんな君が今地獄にいるのは、我々のミスに他ならない。許せ」

 「ミ、ミス……?」

 ぴくり、と僕の肩が震える。

 「我々というか、私のミスだ。近くの病院に入院していた権田原伝右衛門氏(98)と間違えたのだ。

  すまん、良く見たらこれっぽっちも伝右衛門とやらには似ていなかった」

 「今の僕は、死神すら打ち負かすほどの怒りに震えているんだけれど……」

 「まあ落ち着け、少年。憤怒も立派な罪だし、何より健康に悪い」

 ベアトリーチェはなだめるように見せかけ、僕の感情を逆撫でする。

 「こんな状況で、健康もクソもあるかぁ!!」

 「それは違うぞ。かつて関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は処刑間際の河原で、喉を潤すために柿を勧められたそうだ。

  しかし三成は断って曰く、柿は体に悪い――今にも処刑されようとしているのに、実に大した器だと思わないか?」

 「僕はもう死んでるっつーの!!」

 大声で叫んだ後、なんだかとっても哀しい気分になってきた。

 「……で、僕が死んだのはそっちのミスなんだろ? 生き返るためのチャンスとか試練とか、そういうのはないのか?」

 「あるわけないだろう。大体、死んだ者が生き返れないというのは世の理。

  人間の死を司っているのは我々だが、そんな死神とて世の理は曲げられん。諦めろ」

 「ああ、なんてこった……」

 嘆きながらも、僕はどこか平静を保っていた。

 僕は死んだにもかかわらず、アホなこむすめと馬鹿な会話を交わせているのだ。

 生前に想像していたような、真っ暗な死の世界よりは遙かにマシなのである。

 逆説的に言えば、僕はもう死の恐怖からは解放されたのだ。

 「って……地獄行きじゃないか! なんで僕が、地獄行きなんだよ!?」

 そもそも僕は、地獄送りになるほどの罪を犯した覚えはない――と、話がループしてしまっているようだ。

 「さっきも言ったが……魂の選別により、君は地獄行きにふさわしい魂と証明されている。

  ただしそれは、こちらのミスなくまっとうに人生を送った場合の評価なのだ。

  つまり80年近い君の人生の中で、何か地獄行きにふさわしい罪を犯したということだな」

 「……すると、それはこういう事か。

  80年に及ぶ人生を17年で終わらされた上に、残る63年のうちに犯すはずだった罪の報いを受けろ、と?」

 「理解が早いな、その通りだ」

 ベアトリーチェは、微かに目を細めた。

 「まあもっとも、君はそんな風にそしらぬ振りを装いながら、過去に犯した大罪を隠していることも考えられる。

  君は正規の手続きを受けてここに来たわけじゃないから、隠していようがいまいが我々には分からないのだ。

  罪業の審問も受けずに魂の選別のみで地獄に来る者など、前代未聞だからな」

 結局のところ、このこむすめのミスが根底にあるようだ。

 まだ死ぬ予定にない人間をあの世送りにしてしまったため、色々と不備が出たらしい。

 「……今僕の手に銃があったなら、血で血を洗うテロに手を染めるところだけど、そんな気分を分かってくれてるのか?」

 「分からんでもないが、仕方ない。もう君は死んだのだし、地獄にいるのだから」

 あっさり告げるこむすめ。僕にはもう、嘆く気すら起きない。

 「ただし問題は、君が地獄のどの階層に落ちるのかがさっぱり分からんことだ。

  犯した罪が分からんことには、それにふさわしい罰も与えられん。

  君が知らん振りしている可能性もあるが、本当に心当たりがない可能性も高い。非常に困った事態になったのだ」

 そこでベアトリーチェは、ずばっと僕を指差した。

 「そういうわけで、魔界でも屈指の優秀な死神である私が、事態の収集を一任された」

 「優秀……? お前が……?」

 「そういうわけで、責任を取ってカタを付けるまで帰ってくるなと言われた私が、事態の収集を一任された」

 やや視線を逸らし、すかさず言い直すベアトリーチェ。

 「とにかく君には、地獄の各階層を見て貰おうと思う」

 「え……なんで?」

 「地獄に落ちた罪人は各階層に振り分けられ、犯した罪にふさわしい罰を受けているのだ。

  君が罪を罪とも思わぬ大悪人で、自分の犯した罪を認識していないのかもしれん。

  地獄に落とされる罪を一つ一つ説明してやれば、君にも思い当たることがあるかもしれんからな」

 「なるほど……まあ、どれだけ言われようと、地獄に落とされるようなことはしてないけど」

 神に誓って、僕はそんな大罪など犯してはいない。

 つまりどんな地獄を見せられようが、罪を認めなければいいのだ。

 僕には全くやましいことがない以上、それは決して嘘ではないのだから。

 「では行くぞ、少年」

 死神ベアトリーチェなるこむすめは言うだけ言って、くるりと背中を見せる。

 「ああ……分かったよ」

 僕に出来ることは、彼女の後ろに付き従って歩くのみ。

 こうして僕は、強制的に地獄巡りツアーをさせられる羽目になったのだった。

 

 

 

 

 

 何やら難しい言葉が刻印された巨大な門をくぐり、僕達は地獄へと足を踏み入れていた。

 門を抜けた僕の前に広がっていたのは、一面の庭園と巨大な川。

 大河の手前に広がっている平原には、何人もの人影が見える。

 「あのアケローン川を越えれば、地獄の入り口である第一圏だ」

 そしてベアトリーチェは、手前の庭園に視線をやった。

 「そして周囲一面に広がっている平原は、いわば地獄の前庭。

  生きている間に善行も悪行も為さなかった者は、天国にも地獄にも行けずにこの前庭に放置される。

  そういう連中が、ここで蜂や蝿にたかられ続けるのだ。永遠にな」

 「うわぁ、それは辛そうだなぁ……」

 前庭とやらは驚くほど広く、地平線の彼方まで広がっているようだ。

 そしてそこにいる者達は、羽根の生えた女性達に襲われて――えっ?

 「な、なんだあれ……!?」

 目をこらして良く見れば、あちこちで罪人達(正確には、善行も悪行も為さなかった者だが)が奇妙な女性達に襲われていた。

 一見すると綺麗な女性に見えるが、その背には羽虫のような羽根が生えている。

 そして彼女達の下半身は、ハチやハエそのものだった。

 そんな女性達が、あちこちで裸の罪人に襲い掛かっていたのだ。性的な意味で。

 

 「あっ……ああああーッ!!」

 「ひいぃぃ、もうやめてぇ……」

 「で、出ない……! もう、出ない……! あああぁぁ……!!」

 耳をすませば、あちこちから男性の快楽と哀願がごちゃ混ぜになった悲鳴が聞こえてくる。

 仰向けにされた罪人の上にのしかかり、その股間の上に昆虫そのものの腹部を押し当てている娘達。

 まるでセックスのように、娘達はその腰をかくかくと振り立てていた。

 いや、あれはセックス――交尾そのものなのだ。

 ハチやハエと混じったような女性達が、あちこちで罪人達を逆レイプしているのである。

 「……」

 その光景に声を失う僕に対し、ベアトリーチェは視線を向けた。

 「どうだ、恐ろしい光景だろう。あれこそが、善行も悪行も為さなかった者が辿る運命。

  無為な生を送った者は、永遠に蜂や蝿の生殖の道具とされ続けるのだ」

 そしてベアトリーチェは、その綺麗なブラックの瞳で僕の顔を覗き込む。

 「さて、念のために聞いておく。君は生前、善行も悪行も為さず、ただ無為に生きた――心当たりはあるか?」

 「え……?」

 もし心当たりがあると答えたら、どうなるかなど明らかだ。

 僕もここにいる罪人達の一人となり、そして――

 

 「……どうした? もしかして心当たりがあるのか?」

 押し黙る僕に対し、ベアトリーチェは微かに眉を寄せる。

 僕は――

 

 心当たりがある

 心当たりはない

 


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