妖魔の城


 

 

            ※            ※            ※

 

 

 「もし、サキュバスの与える快楽に貴様が溺れてしまえば――我には、もう助けられん」

 俺に背を向けたまま、熱帯魚の水槽を軽く指で叩き――ウェステンラはそう言った。

 あれは確か二週間前、狭いアパートの俺の部屋。

 この小娘は大きな水槽を二つも持ち込み、すっかり俺の居住空間は狭くなってしまっている。

 

 「助けられない……ってのは、どういうことだ?」

 「サキュバスというのは、別の淫魔の食事を邪魔することを避けてしまうのだ。そして、我も例外ではない。

  つまり敵のサキュバスが、お前の精を食らっているという状態になった場合――救いの手は差し伸べられんということだ」

 「それは、見捨てるってこと――いや、別に問題ない。そういう無様な状態にならなきゃいいだけの話だ」

 この小娘の助けなどなくとも、俺は十分に戦える。

 窮地を救ってもらうなど、仮定だとしても馬鹿馬鹿しい。

 それにこいつとて、人間の敵である淫魔ではないか。

 ……だが、その奇妙な特性には興味が湧く。

 戦う相手の性質は、知っておいて損はないだろう。

 「……他のサキュバスの食事は邪魔しないってのは、どういう事なんだ? それは、淫魔の間での法律か何かか?」

 「いや……サキュバスに法などない。この性質は本能的なものなのだ。

  例えば――貴様ら人間は、同種を殺すことに嫌悪感を持つだろう?」

 「……当然だ、快楽殺人者以外はな」

 「そうだろう。それはおそらく、生物的な本能。同種を無為に減らさないための、本能的忌避だと我は考える」

 「なるほど――」

 人間は、群れを作らなければ生きていけない社会的生物。

 本能的に、社会の構成員を減らすことを避ける――それが、同種殺しに対する嫌悪。

 同種殺しの忌避は、ライオンの子殺しなど一部の例外を除き、多くの生物が持っている本能ではないだろうか。

 「サキュバスが同種の食事を邪魔しないというのも、それに近い本能。

  獲物の奪い合い、ひいてはサキュバス同士の殺し合いを防ぐための本能的忌避かもしれんな。

  他のサキュバスの獲物は、どんなに美味そうでも、どんな事情があろうと横から奪わない。

  淫魔としての誇りが高いサキュバスほど、その本能を遵守するのだ」

 「……ってことは、例外のサキュバスもいるってことか?」

 「まあな。品性の欠如した下衆なサキュバスなら、獲物の横取りも気にせんだろう」

 かく言う目の前のウェステンラは、プライドの塊のような奴だ。

 いかなる状況であっても、獲物の横取りはしない――

 ゆえに俺が他の淫魔の餌になっている状況でも、助けはしない。そういうことか。

 ウェステンラが言うところによれば、それは人間の同種殺しに匹敵する本能的嫌悪らしい。

 

 「……おたべ」

 ウェステンラはそう呟きながら、熱帯魚にパラパラと粉末状の餌をやる。

 こいつの趣味は、熱帯魚の飼育――アクアリウムなどという洒落た言葉まであるらしい。

 ひたすら戦いに明け暮れた俺には、全くうかがい知れない世界だ。

 水槽の中では、大きなエンゼルフィッシュ数匹が餌をついばんでいた。

 そいつが食い漏らして底に沈んでいく餌は、コリなんとかいう小さなナマズもどきがつつく。

 どうもこの魚の間抜けヅラは、数年前にアマゾンで戦った半魚人を思い出してうんざりする――

 ウェステンラはひとしきり水槽を眺めた後、くるりとこちらを振り向いた。

 「なお……淫魔に襲われている男が餌となっているかどうかは、男性側の感情や思考で判断する。

  貪られながらも快感に抗っているようなら、まだ餌ではないとみなせるが――

  快楽に溺れて心が折れてしまえば――そいつは、もう餌の立場に甘んじてしまったというわけだ」

 「……なるほどな。まあ、そうならなければいいだけの話。

  もし俺がそうなってしまっても、助けなかったお前を薄情だとは思わないさ」

 微かな皮肉を込めて、俺は言った。

 「ふ……別に薄情ではない。仮にお前が他のサキュバスの餌となってしまい、我がそれを奪い返したとしよう。

  それでも本質的には同じ、貴様はもう助からん。そのサキュバスに魅了され、虜となった状態。ほとんど廃人だ」

 サキュバスの餌にされた者は、淫気によって捕食者側淫魔の虜になってしまう。

 そうなってから助けられても、もう手遅れ――そういうことなのだろうか。

 「そうなると、元には戻せないのか……? お前は、かなり上位のサキュバスなんだろう?」

 「我が再魅了して、虜にすることはできる。いわば、魅了の上書きだな。

  しかしそうなると、今度は我の虜。失った理性は、もう戻ってこない。貴様にとっては、死んだも同然だろう」

 「なるほど……その通りだな」

 たとえ、肉体が無事だろうが――

 理性や闘志、そして復讐の念まで失ってしまえば――それは、死んだも同じだ。

 少なくとも、俺にとっては。

 

 「ゆえに、サキュバスの与える快楽に溺れるな……といっても、実際のところは無理な話。

  いかなる強者でも、人間の男である限りはサキュバスの責めに抗うことなどできまい」

 「ああ、何度も聞いたさ。サキュバス相手なら、性行為に持ち込まれたら終わり――だろう?

  なら、そうなる前に速攻で片付ければいい。単純な話じゃないか」

 なんのことはない、淫魔と戦う際の基本。それだけの話だ。

 「これだけ話して、実に野蛮な結論ではあるが……まあ、その通りだな。

  それでも、避けられん窮地というのも存在する。

  例えば我がいない間に、敵淫魔と対峙すれば――貴様では、サキュバスの淫気を防げんだろう?」

 「……」

 確かに、そういう状況も考えられる。

 悔しいが、人間である俺は、淫気や魔術などに関しては全く無防備なのだ。

 「そういう窮地に陥ったら――手遅れになる前に、なるべく派手に騒ぐがいい。

  下僕の危機を見過ごすほど、我も冷酷ではない。助けに行ってやる――間に合えばな」

 「ああ、せいぜい期待してるよ……」

 そう言いつつも、そんな無様な状況になどなるものか――俺は、そう考えていた。

 ノイエンドルフ城に乗り込む二週間前、俺の部屋でのやり取りだった。

 

 

            ※            ※            ※

 

 

 「今夜のディナーは上質な精の男性。皆様、存分にお召し上がりを――」

 そんな声が、俺を現実に引き戻していた。

 いや……現実、か?

 こんな非現実的な状況が、本当に現実か……?

 もしかして、これも夢の続きではないだろうか――

 

 「あ、うぅ……」

 体に力が入らず、声さえ出ない。

 ここは、ノイエンドルフ城の大食堂。

 俺の体は直立状態のまま器具に固定され、テーブルの真ん中に置かれているのだ。

 妖魔貴族達に供されたディナー、そのメインディッシュとして――

 そんな俺に、二十人を超えるサキュバス達の視線が集中していた。

 

 「まあ、なんて素晴らしいオス……」

 「ふふ……良い精の匂いがするわ。なんて美味しそうな獲物かしら」

 「さすがはマルガレーテ様の居城、こんなに豪華な料理が出るなんて……」

 テーブルを囲む二十人ほどの貴族サキュバス達は、揃って色めきたっている。

 妖魔貴族というと、有閑マダムのような年齢層をイメージしていたが――

 ほとんどは二十代前半から十代後半の容姿、中には中高生にしか見えないような者までいた。

 彼女たちは色とりどりの豪華なドレスを身にまとい、揃いも揃って息を呑むほどの美女達。

 いかにも高貴そうな顔立ちに、食欲と性欲を隠さない態度。

 欲望に忠実な彼女達は、全身から甘く妖しい香気を放っているかのようだった。

 「ぅぅ……」

 むわっと押し寄せるような淫気に、俺の脳はとろけてしまいそうだ。

 これから、この妖魔貴族達の餌になる――そんな末路に、期待さえ抱いてしまいそうになる俺がいた。

 ぼんやりした頭で、俺は周囲へと視線を這わす。

 反撃の機会を伺っていた――というわけではなく、ただ夢うつつで眺めているに過ぎない。

 「……」

 淫らな会話に花を咲かせている妖魔貴族達。その背後で、仕事に勤しむメイド達。

 様々な料理が所狭しと並んでいるテーブル。いかにも上品に配置された食器。

 床に敷かれているのは、血のように赤い絨毯。壁や柱は豪華で重厚な大理石。

 頭上には、豪華絢爛で巨大なシャンデリア。部屋のあちこちに並ぶ、炎が灯された燭台――

 メイド達の移動によってその炎が揺れるに従い、食堂を照らす灯りもゆらゆらと揺れる。

 たくさんの食器はきらきらと光り、なんとも幻想的な光景だ――

 「……ぅぅ」

 そして天井には、この巨城の雰囲気に不釣り合いな火災報知器が取り付けられていた。

 ウェステンラは確か、人間界の製品が魔界でも重宝されていると言っていたか。

 それにしても、幻想世界の城内に火災報知器とは――あまりに不似合いで、どこか愉快だ。

 

 「う、ぐ……」

 いや、面白がっている場合ではない。

 このままでは、この妖魔貴族達の餌なのだ。

 淫気でとろけそうになる意識を、必死で呼び起こす――

 だが、それでも体はほとんど動かなそうだ。

 どれだけ力を振り絞ったところで、おそらく手足を揺らす程度だろう。

 その程度で、いったい何が出来るのか。

 こんな絶望的状況で、俺は――

 

 いっさいの抵抗を諦め、妖魔貴族達のディナーにしてもらう

 ウェステンラの救援を期待し、力を振り絞って暴れる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうだ――ウェステンラは、俺と合流しようとしているのだ。

 なんとかして、今の俺の場所を伝えなければ。

 以前のやり取りで、あいつは『なるべく派手に騒げ』と言っていたのだ。

 淫気に蝕まれた今の体で、どれだけ騒げるかは疑問だが――このまま、諦めるわけにはいかない。

 

 「ぐ……ッ!」

 俺は死力を振り絞り、手足をばたつかせた。

 無様に、ピクピクと。

 まるでまな板の上の鯉が、ビクンビクンとのたうつように。

 「あら、元気がいいエサねぇ……ふふっ」

 「美味しそう……きっと、素晴らしい味がするわ」

 その様子を余裕綽々で眺め、淫魔共はニヤニヤと笑っている。

 嘲笑と侮蔑、そんな眼差しを浴びながら――俺はそれでも、テーブルの上でもがき続けた。

 「う、ぐ……」

 死力を振り絞って暴れているつもりだが、テーブルクロスが皺くちゃになった程度。

 それでも俺は、さらに手足をバタつかせていた。

 妖魔貴族達にあざ笑われようと、馬鹿にされようと――

 

 ――もがいてやる。

 こんなところで諦めて、餌にされてたまるか。

 俺の意思が残っている限り、もがいてもがいてもがき抜いてやる――

 

 「ぐ、この……」

 手足の動きによってテーブルクロスが波打ち、そして引っ張られていった。

 それに引きずられるように、テーブル上の燭台が揺れ動き――そして、ごとりと音を立てて倒れてしまう。

 その上、倒れた先は何かの料理皿。

 大量の油を使っていたのか――それは一気に、ぼうっと発火した。

 その炎は、テーブルクロスへと燃え移っていく。

 しめた、これで大騒ぎになるかも――

 「きゃあ……! 何をなさるの……!」

 「あら、大変。とんだハプニングだわ……」

 「……少しオイタが過ぎるようね。来たれ、水の精。汝、我が契約を――」

 妖魔貴族の一人は、なにやらブツブツと唱え始めた。

 すると――テーブルを焦がしていた炎は、あっという間に消え失せてしまう。

 後に残ったのは、大量の煙とズブ濡れのテーブルクロス。

 この場が大騒ぎになることを期待した俺だったが、その希望の芽はたちまち断たれてしまった――

 

 ――と、そう思った。

 しかし神は、まだ俺を見捨ててはいなかったらしい。

 凄まじいブザー音が、大食堂内に響き渡ったのだ。

 おそらく、部屋の外部まで響くほどに――

 「何かしら……趣に欠ける音ね」

 「これは……火災報知器?」

 そう――このけたたましいブザー音は、天井に取り付けられた火災報知器のもの。

 テーブルを焦がした炎はたちまちのうちに掻き消されたが、発生した大量の煙に反応したのだ。

 さらに――ブザー音に続いて、天井のスプリンクラーまでが作動する。

 「ちょっと……何!?」

 「いやぁ……私のドレスが……!」

 「誰か……この機械を止めなさい! 早く!」

 天井から滴る水を受け、大食堂はたちまちにしてパニック状態となった。

 響き渡るブザー音、金切り声を上げる妖魔貴族連中、右往左往するメイド達。

 この喧噪を、あいつが聞きつけてくれれば――

 

 「……ッ!」

 救いは、思ったよりも早く訪れた。

 ぴしっ……と空間に入る亀裂。

 俺の眼前でぴしぴしと、その亀裂が広がっていく。

 これは――あいつの使う、空間移動術だ。

 「ふむ、探したぞ。こんなところに連れ出されていたとはな――」

 空間を破って、その場に降臨したのは――やはり、ウェステンラだった。

 この場に降り立つ前に、ぴしりと指を鳴らし――それだけで、スプリンクラーは止まってしまう。

 濡れるのは嫌だったのだろう、大した余裕振りだ。

 今だけは、この小娘が救いの神に見えた。

 

 「な、何よ……あの淫魔は?」

 「誰かのお知り合い……じゃないわよねぇ。侵入者かしら?」

 唐突にこの場へと現れたウェステンラを前に、大食堂はざわめいた。

 妖魔貴族達の戸惑いは、徐々に侵入者への敵意へと変わっていく。

 それを意にも介さず、ウェステンラは俺に視線を向けた。

 「台所までは匂いをたどって追跡できたが、あね――マルガレーテの元に運ばれたと思っていた。

  今の騒ぎがなかったら、上の階に向かっていたところだ……もう少しで、手遅れだったな」

 「うぅ……お、そぃ……」

 遅い――たったそれだけの単語さえ、言葉にならない。

 「相当な量の淫気を吸わされたようだな。そら……」

 ウェステンラは、俺の額の上にとんと人差し指を置いた。

 すると――まるで嘘のように、俺の全身を蝕んでいたピンクの霧が晴れていく。

 体が動く。頭も働く。

 そして、この抑えがたい怒り――

 これまでの醜態に、散々に浴びせられた嘲笑。

 回復したばかりの肉体は、この淫魔どもへの怒りで満たされていく――

 

 「……ほれ、台所に転がっていたぞ」

 ウェステンラが投げてよこしたのは、俺の衣服と銃器。

 そして彼女は、面倒そうにテーブルの上へと腰掛けた。

 「ふぅ……ここまで来るのに疲れた。あとは貴様に任せる。淫術は我がかき消してやるから、安心するがいい」

 「ああ、のんびり座って見ていろ。後は全部、俺が掃除してやる――」

 そうしている間にも、妖魔貴族達は俺とウェステンラをじりじりと囲んでいく。

 周囲一面の敵意を受けながら、俺は素早く服を纏い――そして、弾丸を装填した。

 ――これで、準備は整った。

 さっきまでは、俺が獲物。

 しかしここからは――お前らが獲物だ。

 俺はお前らのように暢気じゃない。

 余裕めかして、獲物を嘲笑したりもしない。

 ただ、狩ってやる。

 最後の一匹まで狩り尽くしてやる――

 

 「……あなた、本当にこれだけの数の妖魔貴族と戦うつもり?」

 「哀れねぇ、人間。どちらが上か分からせてあげるわ……!」

 ――ああ、分からせてやろう。

 どちらが狩る側で、どちらが狩られる側か――

 金切り声を上げながら押し寄せてくる妖魔貴族どもを前に、俺は床を蹴った。

 これからが、本当の饗宴の始まりだ。

 

 

            ※            ※            ※

 

 

 あれは、四百年ほど前のこと――

 その女は、巨大な居城を構えるほどの実力者だった。

 数百の召使いの世話を受け、数千の家臣に囲まれ、数万の兵に守られた女城主。

 あの頃、有り余る力と退屈を持て余していた。

 欲しいものがあれば、力をもって奪った。

 食べたいものがあれば、邪魔者を全て潰してでも貪った。

 それでも、何か足りなかった。

 どれだけ奪い、どれだけ食らい、どれだけ返り血を浴びようとも――何かが、満たされなかった。

 

 数百年ほどそれを繰り返しているうち、百八姫の一人として数えられるようになった。

 『紅狂姫』――誰が最初にそう呼んだかは知らないが、そんな二つ名が付いた。

 別に、どうでもいい話。

 どう呼ばれようとも、自分――中身が変わるわけではない。

 『紅狂姫』と呼ばれ、気まぐれのままに奪う日々――それでも、彼女は満たされなかった。

 

 

 

 「ねぇ、何か面白いことないかなー?」

 あれは確か、冬から春へ移り変わる頃。

 いつのものように、メリアヴィスタは玉座の上で足をぱたぱたさせていた。

 退屈だ、とにかく退屈だ。

 この世に、自分を喜ばせることは何もないのか。

 なぜ世界は、こんなに凡庸で退屈なのだろう――

 

 「ねぇ、ヴィエッタ。何か、面白いことないの?」

 玉座の傍らに控えている従順な女従者に、メリアヴィスタは問い掛ける。

 「面白いこと……でございますか。今晩、北領のヒルデン城にて盛大な舞踏会が開かれるとか」

 「そんなの、つまんなーい!」

 女従者の報告を、メリアヴィスタは一蹴する。

 続けて発言したのは、玉座前でかしづいていた女料理長だった。

 「以前に捕らえた獲物から搾った高濃度の精を用い、上質のワインとして仕上げましたが……」

 「つまんなーい!」

 それも、あえなく一蹴するメリアヴィスタ。

 「そう言えば、下々の者が騒いでいることではございますが――」

 おずおずと、従者の一人は口を開いた。

 「ノイエンドルフ家の御当主一行が、今日の夕方にメナ市の大通りを通過するとか。

  ひと目見んとする者どもが集まり、ちょっとした騒ぎになっているようでございます」

 「ふぅん……ノイエンドルフ家当主って、確かマルガレーテとかいう小娘だったよね?」

 それは――少しばかり、面白そうだ。

 あの名家の当主が、いったいどんな娘なのか――興味がある。

 「……じゃあ、ちょっと見に行っちゃおうかなー。

  どんな奴なんだろ、ノイエンドルフ家の当主って。もし、つまらない小娘だったら……」

 いっそ殺して、自分がノイエンドルフの全てを奪うのも面白いかもしれない――

 メリアヴィスタの深紅の瞳が、限りなく冷たい色に輝いていた。

 

 

 

 その日の夕方、メナ市の大通り。

 何の変哲もない片田舎の大通りは、大勢の群衆でごった返していた。

 ノイエンドルフ家の当主をひと目見ようと、物見高いサキュバス達が集まっているのだ。

 そんな中に、メリアヴィスタ一行も紛れていた。

 メリアヴィスタ本人も、従者三人も、その格好は一般市民姿でお忍び同然。

 『紅狂姫』が現れるとなったら、この場に詰めかけた群衆が二倍の数になってしまうのだ。

 そうなれば、ノイエンドルフ家当主を見物する騒ぎではない。

 

 「あ、あれね……」

 前方から、ガラガラと響く馬車の音。

 先導する供は意外に少なく、武装した女騎士二人だけのようだ。

 その後に続いたのは、装飾に彩られた馬車。

 それが近付くにつれ、一人の少女の姿が見えてくる。

 少し見たところ、ちょっと綺麗な貴族の少女。

 風にたなびく金色の髪、淡い光をたたえた金の瞳。

 いかにも涼しげな表情だが、気取ったような様子はない。

 ――が、それだけだ。

 「ふぅん……」

 正直、メリアヴィスタにとっては期待外れだった。

 当然ながら一般市民とは比較にならないものの、貴族階級としては凡庸。

 目を奪われる要素も、引きつけられる要素も特にない――

 

 「え――?」

 そんなメリアヴィスタの感想は、その少女が間近まで接近するにつれ吹き飛んでいった。

 何よりもまず、オーラが違うのだ。

 それは、まるで太陽の光。

 万物全てに恩恵を与えるような、太陽のような光。

 慈愛に満ちた、温もりのような光。

 そして――全てを焼き尽くす、灼熱の光。

 暴力性や残酷性さえその内に秘めた、無慈悲な光。

 そう、彼女は――マルガレーテは太陽だった。

 慈愛と破壊、相反する要素を同時に備えた――カオスのような存在。

 「……そんな、こんなのって……」

 自分の憂いも退屈もまとめて吹き飛ばすようなオーラに、メリアヴィスタは圧倒される。

 マルガレーテの姿を目にし、歓声を上げる群衆。

 そんな薄っぺらい連中には感じ取れないほど重厚な輝きが、メリアヴィスタをたじろがせていた。

 「……」

 すると――少女はこちらを見て、ふ……と笑った。

 まるで、誘っているかのように。

 退屈そうね、貴女――そう、耳元で囁かれたような感覚。

 まるで、全ての時間が止まったかのよう。

 自分とマルガレーテが、この世界で二人きりになった気さえした。

 メリアヴィスタは、ただ呆然と立ち尽くすのみ――

 

 「あ……」

 止まっていた時間が動き出した。

 少女の乗った馬車が目の前を通り過ぎ、春風がふわりと頬をくすぐる。

 その風には、マルガレーテの残り香が含まれていた。

 その一瞬の邂逅は過ぎ去り――メリアヴィスタが我に返った頃には、馬車はとうに過ぎ去っていた。

 どくん、どくん……と、自身の心音がうるさいぐらいに響く。

 頬は上気し、体は熱を帯びていた。そして――その股間は濡れていたかもしれない。

 

 「あれが、マルガレーテ……」

 メリアヴィスタは、思わずそう呟いていた。

 ――あれこそが、女王七淫魔。

 『紅狂姫』と呼ばれた自分が、いかにちっぽけなのか――その一瞬の邂逅で、メリアヴィスタは思い知ったのだ。

 自分は絶対に、あの少女には適わない――が、悔しさも苛立ちも感じない。

 あれだけ負けず嫌いな自分だが、マルガレーテに対しては何の不快感も持ち得なかったのだ。

 むしろ、メリアヴィスタの中に芽生えたのは――深い憧れ。

 それは――恋、と呼んでも差し支えないものだった。

 

 

 

 「リーラ、ちょっと服を借りるわよ」

 「い、いけません……メリアヴィスタ様! それは、給仕の服装! 高貴な貴女様がなされるお姿では――」

 「じゃあ、ちょっと行ってくるね……♪」

 「メリアヴィスタ様、いったいどこへ――!」

 それっきり、城主は二度と帰ってこなかった。

 同じ日、ノイエンドルフ城に一人のサキュバスが見習いメイドとして転がり込む。

 かつて『紅狂姫』と恐れられた、とある淫魔の話だった。

 

 

            ※            ※            ※

 

 

 「……なんか、昔のこと思い出しちゃったなー」

 盆を片手に大食堂への廊下を進みながら、メリアヴィスタは呟いた。

 さっき思いっきり暴れたからだろうか、高揚の残滓のようなものが後を引いている。

 妙に懐かしい、不思議な気分だ――

 「今頃、貴族連中……あの人間を美味しく頂いてるんだろうなー」

 貴族とはいうが――なんのことはない、自分より格も位も落ちる連中。

 かつてメリアヴィスタは、一国一城の主だったのだ。

 そんな自分が、格下相手にメイドとして尽くす――それも自分で選んだ道、後悔はしていない。

 自分は、マルガレーテに尽くすことを選んだのだ。

 

 「……ふぅ」

 あの日見た太陽に、少しでも触れていたいと願った。

 せめてもう少しだけ、あそこに近付きたいと思った。

 それが、どうなのだ?

 エミリアほど、主人の心には届かない。

 あの最古参の従者ほど、主の寵愛を受けることはない――

 

 「んん……? 貴族連中、何騒いでるのかな?」

 大食堂に近付くにつれ、喧噪が激しくなっていく。

 金切り声に悲鳴、何かを壊したような音さえ聞こえるほど。

 あの品性下劣な貴族連中のことだ。上質の獲物を前に、大喧嘩でもやらかしているのか――

 「……失礼しま〜す……」

 そっと扉を開け、大食堂を覗くメリアヴィスタ――その目に飛び込んできたのは、思わぬ光景だった。

 

 「なに……あれ……」

 豪華な大食堂で、一人の青年が軽やかに舞っていた。

 机を蹴り、シャンデリアに乗り、まるで振り子のように揺られながら銃を乱射する。

 群れ寄る妖魔貴族達を薙ぎ倒し、ナイフで引き裂き、まるで作業のように解体していく。

 撃ち、斬り、刻み――食事であったはずのその男は、洗練されきった動作で貴族達を処理していくのだ。

 あちこちで血しぶきがあがり、廊下や床に赤い花がぱっと広がる。

 その血を浴び、朱に染まりながら――その男はどこまでも冷酷に、サキュバス達を狩っていく。

 メリアヴィスタは呆然と立ち尽くし、殺戮の饗宴を眺めていた。

 持っていた盆が、がちゃりと床に落ちる――それにも気付かないほどに。

 

 「……すごい……」

 思わず、そう呟くメリアヴィスタ。

 純粋な戦闘能力なら、自分の方が遙かに上だ。

 自分ならもっと早く、あの程度の連中を皆殺しにできる――が、目を奪われたのはそんなことではない。

 あの男の戦い方は、まさに凄絶なのだ。

 怒りと執念、それを全て叩きつけるように凄惨な殺戮。

 それでいながら、まるで機械のように淡々とした作業。

 激情を抑えられない復讐鬼、冷徹な殺戮マシーン――両方の顔を持った存在が、目の前にいる。

 メリアヴィスタは、まるで魅入られたように立ち竦んでいた。

 まるで、初めてマルガレーテに邂逅したあの時のように――

 股間がとろけるように熱くなり、温かい液体がじんわりと染み出している。

 自分が女として興奮しているのを、メリアヴィスタは自覚した。

 

 「なんて……素敵……」

 かつてのあの時は、恋のような憧れだった。

 そして、今はというと――これは、立派な恋だ。

 メリアヴィスタは、容赦なく狩られていく同胞を目にしながら――狩る側の人間、須藤啓に見とれていた。

 「な、なんなの……この人間……!」

 爪をかざし、背後から飛びかかろうとした妖魔貴族――

 それを、後ろも見ずに左手の拳銃で狙い撃つ。

 シャンデリアからシャンデリアに飛び移り、眼下のサキュバスに銃弾の雨を降らせる。

 着地地点に待ち構え、抱きすくめようとしたメイドサキュバス――

 その首にナイフを突き立て、胸から腹へと切り下ろし――まるで魚のように解体していく。

 「ひぃっ……ば、化け物……!」

 「や、やめてぇ……!」

 いつしか淫魔貴族達は戦意を失い、大食堂の中で無様に逃げ惑っていた。

 妖魔に化け物と呼ばれた男は、無慈悲に彼女たちを狩っていく。

 瞬く間に、場に残っている妖魔貴族は一人きり。

 まだ年若い少女淫魔――彼女は床にへたり込み、表情を強張らせていた。

 その前に、返り血をたっぷりと浴びた悪鬼のような男が立つ。

 

 「ひっ……た、助けて……どうか、命だけは……」

 少女淫魔は、その男の足へとすがりついた。

 「お願い……気持ちよくしてあげるから……しゃぶってあげるから……」

 「じゃあ、しゃぶって貰おうか――」

 男は少女淫魔の頭部を乱暴に掴み――そして、その口へと拳銃の銃口を押し込んだ。

 直後に銃声が響き、小脳を撃ち抜かれた少女淫魔はずしゃりと地面に崩れる。

 こうして、その場にいた妖魔貴族達はまとめて肉塊と化したのだった。

 

 「すごい……悪魔みたい……」

 メリアヴィスタの体に、ゾクゾクと愉悦にも似た寒気が駆けめぐり――いっそう股間を濡らした。

 なんという冷酷非情、あんなことができるのは人間だけだ。

 そして一仕事終えた男は、部屋の隅にいた若いサキュバスの方に近寄っていく。

 「あれは……」

 今まで男の方に夢中になって失念していたが、あの少女淫魔には見覚えがあった。

 一見したところ、ただの下級淫魔だが――その奥に潜む重厚さを見逃すメリアヴィスタではない。

 「……むぅ?」

 そして――唐突に、その少女は扉の向こうで立ちすくんでいるメリアヴィスタの方に目を向けた。

 「わっ……と!」

 さっと身を隠し、即座に気配を断つメリアヴィスタ。

 まるで狩りをしている猛獣のように、その気配は霧のごとく掻き消えてしまう。

 「どうした、ウェステンラ……?」

 「いや、誰かいた気がしたが……気のせいだったようだな」

 悪魔のような男と淫魔少女は、血の海と化した大食堂で会話する――

 その隙に、メリアヴィスタはその場から離れていた。

 

 

 

 「……」

 廊下をてくてくと歩みながら、メリアヴィスタは思考にふける。

 侵入者があそこまでの狼藉を尽くしたのだから、本来なら緊急事態のはずだが――

 そんなことは、全くといっていいくらいどうでも良かった。

 「ウェステンラ……って、確か……」

 なるほど――彼女がおそらく、侵入者側の黒幕。

 しかしそんなことさえ、今のメリアヴィスタにとっては些事に過ぎなかった。

 「須藤啓……って言ったっけ……」

 今の彼女の頭を支配しているのは、あの悪魔のような男。

 その勇姿は、メリアヴィスタの脳内にありありと焼き付いたのだ。

 あの日、マルガレーテと出会った時の記憶――それと並ぶほど、鮮烈に。

 

 彼を手に入れたい。

 あの男を、自分のものにしたい――

 それは、まるで少女のように純真な憧れ。

 そして、自分の虜にしてしまいたいというサキュバス特有の所有欲。

 自分のあらん限りの技術で奉仕し、夢のような快楽を与えてあげたい――

 彼の精を、じっくりと貪り尽くしたい――

 永遠に愛し合い、慈しみ合いたい――

 「ああ、素敵……どうしてあげちゃおうかなぁ……」

 膨れ上がる恋心を持て余し、気分を高揚させるメリアヴィスタ。

 『紅狂姫』は、新たな憧れの対象を見出したのだった。

 

 

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