妖魔の城


 

 

            ※            ※            ※

 

 

 ウェステンラは、ノイエンドルフ城のとある一室に立っていた。

 ……と言っても、須藤啓や沙亜羅一行と共に乗り込んだ『現在の』ノイエンドルフ城ではない。

 二百年ほど前――つまり、遙か過去のノイエンドルフ城である。

 

 「ここは……」

 ウェステンラは表情を曇らせながら、その場から一歩を踏み出していた。

 この部屋が城内のどこに位置するかなど、よく分かっている。

 ここは、自分に与えられた部屋――そして隣は姉の部屋で、広い廊下をしばらく進めば当主の間だ。

 「……」

 よろよろと自室を出て、そのまま廊下を進むウェステンラ。

 華美に彩られた通路には、そこかしこに無数の屍が転がっていた。

 ノイエンドルフ家に使える、忠実な給仕や召使い達――彼らの屍は無惨に引き裂かれ、人型をとどめているものは少ない。

 真っ赤な血が廊下のあちこちに飛び散り、彼女の靴をぴちゃぴちゃと濡らす。

 ウェステンラは、そんな血の池となった廊下を無言のまま進んでいた。

 

 

 

 あの単純なトラップに引っ掛かり、須藤啓とはぐれ――

 そしてウェステンラは地下道で、一人の淫魔に襲われたのだ。

 イモーシアと名乗った夢魔に属する淫魔は、ウェステンラを一瞥するなり侮蔑の表情を浮かべていた。

 「なんと下級で、ちっぽけな淫魔……下賤な身でノイエンドルフ城に紛れ込んでしまったことを呪いなさい。

  私ほどの淫魔になれば、夢の中で貴女の精を吸い尽くすことだってできるのだから――」

 次の瞬間にイモーシアが行使した夢魔術は、対象の最も辛い思い出を再現させるもの。

 甘い快楽の淫夢で獲物を貪る夢魔にとって、こうした夢魔術の使用は相手への悪意そのものである。

 こうしてウェステンラは、あの日、あの時のままのノイエンドルフ城に立っていたのだ。

 

 

 

 「……」

 突き当たりの立派な扉を開け、当主の間に足を踏み入れるウェステンラ。

 廊下に広がっていた光景の何倍も悲惨な惨劇の舞台――当主の間こそが、殺戮の中心だった。

 高貴な衣装を身に纏った王族や側近、近衛兵達がボロきれのように転がっている。

 ズタズタに引き裂かれ、散らばる手足、生首、臓物。

 見渡す限りの赤、一面の血液。

 扉の前では、あの日あの時の幼かった自分が呆然と立ちすくんでいる。

 

 そして、そんな幼いウェステンラに対面するように、当主の玉座には一人の美しい少女が座っていた。

 あどけない顔付きに、アンバランスな妖艶さすら浮かばせている不遜な少女。

 マルガレーテ・ノイエンドルフ――この城を統べる魔界貴族、ルーシー・ノイエンドルフの娘である。

 まるで自身が新しい当主であることを誇示するかのように、涼しい顔で玉座に君臨しているマルガレーテ。

 その脇には、彼女が唯一心を許す腹心のエミリア・スカーレットが影のように控えていた。

 

 「姉上……」

 かすれた声で、そう呟く幼い日のウェステンラ――

 いや、そう呼び掛けたのは現在の自分かもしれない。

 視点が幼い日の自分と重なってしまい、よく分からない。

 「姉上は、いったい何を……」

 ウェステンラは、ただ熱病のようにそう呟いていた。

 「……見て分からないのかしら、ウェステンラ?」

 返り血を軽くハンカチで拭いながら、マルガレーテは平然と告げる。

 「旧時代の遺物を片付けたのよ。これで息苦しくなくて済むでしょう」

 その足元には、ノイエンドルフ家の当主であったルーシーの上半身が転がっていた。

 ルーシー・ノイエンドルフ――ウェステンラとマルガレーテの母親である上級淫魔だ。

 「なぜ……母上まで!」

 「遺物は邪魔だからよ。この愚かな当主ルーシーが、そして魔界元老院が、魔界の発展を妨げていたのだから。

  本来なら、人間界はとっくに私達淫魔のものになっていてもおかしくないのに」

 軽い微笑すら浮かべ、マルガレーテは訥々と語る。

 「前へ進む、というのは生物として当然でしょう? 淀んで腐るまで停滞するなどという趣味はないの」

 「母上は……人間と淫魔は共存すべきだ、と……!」

 ウェステンラの脳裏に、優しかった母の笑顔が蘇る。

 今の自分は、現在の自分? あの日の、何もできなかった自分?

 主格が完全に混じってしまい、自分が何なのかすら分からない。

 「それでどうなったの、ウェステンラ? この数百年、我々と人間は歩み寄れた?

  人間と共存できる夢のような世界を、我々淫魔が手にすることができたのかしら?」

 「それは……これからも、努力して――」

 姉の問いに対するウェステンラの解答は、あの時と全く同じ。

 つまりは――明快な答えなどなかったのだ。

 まるでウェステンラの答えを予想していたかのように、マルガレーテは笑った。

 「ふふ……努力、努力、努力……何もする気がない者の逃げ口上。

  努力して、理想の実現を志して、共存を夢見て――そう言って、我々は何もやってはこなかった。

  あと何年、そう言い続けて時間を空回りさせるつもり? ぐずぐずしていては、取り返しのつかない事になってしまうのに」

 「取り返しのつかない事……?」

 「人間と、我々淫魔との力関係が逆転してしまう。人間が我々を上回る力を身につけた時が、魔界の終わりよ。

  あの連中は我々のように優しくはない。異質な弱者の存在を認めはしない。瞬く間に皆殺し――転がる骸の数、この程度で済むと思う?」

 「そんな、人間が私達に匹敵する力を持つことなんて――!」

 人間とは、弱く、脆く、まともな魔術すら使えない生物に過ぎない。

 人間と淫魔では、体の作り自体が全く違うのだ。

 あの貧弱で脆い生命体が、淫魔に匹敵する肉体に進化するなどありえない――

 ウェステンラは、この時そう思っていた。

 だが、今なら分かる。

 姉が何を恐れていたのか、はっきりと分かる。

 「今の人間界で、何が起きているか知っていて、ウェステンラ? 

  蒸気を用いた動力を応用し、驚くべきほどの作業効率を達成しているのよ」

 「蒸気……?」

 「知らないわよねぇ、ウェステンラ。貴族の子女、魔界でもトップクラスの教育を受けている貴女ですら。

  この遅れが致命的。あと200年もすれば、人間の力は我々を上回るわ。

  人間は自在に空を飛び、町一つを焦土に変えるほどの爆発すら起こせるようになる――それも夢物語ではない」

 「そんな、ありえません! 姉上の言っていることは夢物語です!」

 あの日の自分には、そうとしか答えられなかった。

 人間風情がそこまで強大な力を持つなど馬鹿げている――現代の魔界貴族ですら、そう笑う者がほとんどだろう。

 「それほど強力な魔術を、人間に使いこなせるはずが――」

 「愚かね、ウェステンラ。そんな発想でいる限り、我々淫魔の衰退は決まったようなものよ」

 マルガレーテは、失望の表情で嘆息していた。

 今ならば、その言葉も頷ける。

 魔界の貴族達は人間界で何が起っているのか興味も持たず、ただ己達の優位性を疑わない。

 母ルーシーが唱えていた人間との共存思想ですら、その優位性の上に立脚したものだったのだ。

 今の自分ならば、姉は魔界の誰よりも正確に人間という種の実力を見抜いていたことが分かる。

 「……あ、姉上の言っていることは分かりません!」

 「仕方がない……消えなさい、ウェステンラ――いや、旧世代の遺物。

  旧弊的な人間が権力の座につく、それ自体が大いなる罪悪なの」

 マルガレーテは、呆然とたたずむウェステンラに向かって掌をかざす。

 その掌に、膨大な量の魔力が集中していくのが分かる。

 「姉、上……?」

 そう、あの時は一言も言い返せなかった。

 200年前の自分は、母や側近達の屍を見せられてさえ何も言うことができなかった。

 だが、今は違う。

 今は――

 

 「お題目はそれだけか、姉上……!?」

 ウェステンラは、不遜な表情を浮かべるマルガレーテを鋭く見据えた。

 分かっている。目の前のマルガレーテは、あの夢魔の魔術によって再現された、自身の記憶の虚像に過ぎない。

 それでも――

 「姉上の行いは、単なる粛正。結局は独裁に過ぎん――それこそ人間のお家芸だ。

  その行為をやった人間達がどうなったか、姉上なら知らぬ訳がないだろう?」

 ウェステンラは、姉の形をした虚像に右掌を向けた。

 「カエサルはどうなった? ナポレオンは? ヒトラーの夢は次代に繋がれたのか?

  スターリンの遺志は誰か継いだのか? ポル・ポトは後世の万民から愛されているか……?」

 次の瞬間、ウェステンラに向けられたマルガレーテの掌から魔力が弾ける。

 大気中の元素と魔力が混じり合い、凄まじい爆発を起こす――

 しかし、このマルガレーテはイモーシアの夢魔術と自身の記憶で生み出された虚像。

 そんな偽物の行使する反応魔術など、本物のマルガレーテの小指の先にも及ばない。

 「意識を変革させるための独裁など、愚の骨頂。一代限りの夢に過ぎん!

  それが分からない姉上も、旧世代の遺物と何が違うというのだ!!」

 ウェステンラの一喝とともに照射された魔力。

 それはマルガレーテの一撃を涼風のように掻き消し、ノイエンドルフ城を――いや、周囲の空間を引き裂く。

 凄まじい魔力の渦に耐えきれず、夢空間のあちこちに亀裂が入る。

 まるでコップが割れるように、ぱりんと崩れてしまう空間。

 あの日のノイエンドルフ城も、マルガレーテも、幼い日のウェステンラも、全ては記憶の欠片となって消えてしまう。

 夢魔イモーシアの築いた悪夢の世界は、ウェステンラの魔力のひと薙ぎによって崩壊したのだった。

 

 

 

 

 

 ノイエンドルフ城、地下通路――トラップに引っ掛かったウェステンラが落ちた先。

 「え……? そ、そんな……!」

 術に落ちたウェステンラの前に立ち、優越の表情を浮かべていたイモーシア――その顔が、みるみる歪んでいく。

 自身にしか分からない悪夢を見せられ、後は精神崩壊を待つだけの下級淫魔。

 対象の心が壊れた後で、その悪夢をゆっくりと楽しむはずだった――そんなあてが外れたどころではない。

 この夢魔術を内部から破るなど、中級淫魔でも不可能なはずなのだ。

 それを、ろくに魔力も感じないような下等淫魔が……?

 「わ、私の夢魔術を内部から崩壊させるなんて、そんな馬鹿な……!」

 「やれやれ、あれだけ大言を叩いていた姉上も落ちたものだな。

  相手の力量すら計れん程度の夢魔を飼ってご満悦とは……」

 悪夢の世界を膨大な魔力で崩壊させ、容易く脱出を果たしたウェステンラ。

 そんな彼女は、大きなため息を吐く。

 「まあ、それでも感謝しているよ、下等夢魔。あれから200年、時に怒りも憤りも風化しそうになる。

  たまには、こうやって思い出すのも悪くはない――」

 「そんな……! そんな、馬鹿な! 私の夢魔術が、下等淫魔に破れるはずが……!」

 「……本当に、我が下等淫魔に見えているのか? そんな貴様こそ、大した下等淫魔だ」

 すっ……と、ウェステンラは目を細めた。

 その次の瞬間、イモーシアの体が硬直する。その表情は、驚くほどにそっくりだったのだ。

 彼女の主であるノイエンドルフ家当主、魔界でも最強クラスの魔力を誇る女帝級淫魔、マルガレーテ・ノイエンドルフに――

 「そんな……! まさか……!」

 イモーシアの表情が、みるみる蒼ざめていった。

 最初から、ほんの僅かな違和感はあったのだ。

 目の前の淫魔の肉体と魂、その僅かな不統一感――しかし、今の今まで大して気にもしなかった。

 それは、大いなる過ちだったのではないか?

 自分は、絶対に触れてはいけないレベルの相手に攻撃を仕掛けてしまったのではないか……?

 「あ、貴女……名前は? もしかして、貴族出身……?」

 淫魔貴族ならば、ありえる話だ。

 上級のさらに上位である彼女達ならば、その強大な魔力をまるで感じさせないという芸当も可能なのである。

 「……ノイエンドルフ家第二公女、ウェステンラ・ノイエンドルフ。

  まあ、放蕩が過ぎて公位を継げぬ身だ。下っ端が知らんのも無理はない」

 「そ、そんな…… 『淫魔狩りのウェステンラ』……? それも、マルガレーテ様の妹君……?」

 ウェステンラの言葉に、イモーシアの体ががくがくと震え出す。

 彼女の心を支配していたのは、凄まじいまでの恐怖。ここにきて、ようやく目の前の淫魔が何者かを悟ったのだ。

 「そ、そんな……ひぃぃぃぃぃ!」

 たちまち、イモーシアはくるりと背を向けた。

 そのままばさりと翼を広げ、そこから飛び立とうとする。

 恥も外聞もなく、その場から逃げ去る――それが、イモーシアの選択だった。

 「さっきはああ言ったが……古傷に土足で踏み込まれ、それなりに頭に来ていてな――悪いが狩るぞ」

 ウェステンラは虚空からサーベルを抜き、一枚の羽のように軽く飛翔した。

 そのまますいすいと空を駆け、一目散に逃げ去ろうとする夢魔に迫る。

 「あ、あああああああぁぁぁぁぁぁッ!!」

 イモーシアの断末魔の悲鳴が、ノイエンドルフ城の地下道に響き渡っていた。

 

 

            ※            ※            ※

 

 

 「……ったくあいつ、大丈夫なんだろうな」

 俺は広く豪壮な廊下を進みながら、ぶつぶつと呟いていた。

 前から馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、あそこまで馬鹿だとは。

 上級淫魔だかなんだか知らないが、あんなトラップに引っ掛かるなどどうかしている。

 「全く――」

 そこで俺は、いかにも自分らしくない振る舞いに気付いた。

 敵地を進みながら、ぶつぶつとはぐれた仲間の文句を言う、これもプロの行いではない。

 それ以上に、自分はあのウェステンラをどう思っているのだろうか。

 「馬鹿馬鹿しい、あいつも化け物の仲間だろうに――」

 そう自嘲する俺。

 そうだ。淫魔狩りが生業というあいつは、いわば共食いをする化け物。

 当面は生かしておいた方が、淫魔同士で潰し合いをするので都合が良い。

 これは、戦略的判断に過ぎない――それだけだ。

 「ちっ、やれやれ……」

 わざわざそう思い直さなければならないあたり、深層意識ではそう思っていない証拠だろう。

 どうもウェステンラと関わり合うようになってから、調子が出ない。

 化け物など皆殺しの対象としか思っていなかった、あの時の自分はどこに行ったのだろうか――

 

 「……あれは?」

 正面遠方に立つ小さな影。

 俺の思考は、瞬時に戦闘モードに切り替わった。

 アサルトライフルを握る手に力を込め、殺気を張り詰める。

 その影は、ててててて……とこちらに近付いてきたのだ。

 接近してくるその小さな人物に、俺は微塵の油断も見せない――はずである。

 「わ〜い、遊ぼうよ〜!」

 その外見は、小学生ほどの非常に可愛らしいおかっぱ少女。

 黄色い帽子を被り、あろうことか赤いランドセルを背負っていた。

 その外見は、どう見ても通学途中の小学生である。

 ランドセルにぶら下がったネームプレートには、「ひぃな」という名前が見えた。

 そんな淫魔が、屈託のない満面の笑顔でてくてくと近付いてくるのだ。

 「ねぇ、お兄ちゃん! ひぃなと遊ぼうよ!」

 少女は俺の真ん前に立ち、そんな無邪気な言葉を投げ掛けてきた。

 

 なんだ、ただの小学生か

 こんなところに小学生がいるか

 


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