Succubus狂想曲間奏一




ここは何所だ!?

俺は誰だ!?

………って、何所かまでは分からないが自分が百武 清家だってくらい覚えてる。

で、ここはどこだ……?





Succubus狂想曲

間奏一 外なる神々



一番最後の記憶は、自宅でベッドに入った所なんだが……周囲は思いっきり草原だ。

ただの草原じゃないことは確実だけどな……。

人間のような卑小な存在が居てはいけない場所だということくらい分かるけどさ。

「君君、そんな所で寝ていると風邪を引きかねないよ」

「はい?」

上体を起こして右に頭を捻る。



―そこには、「何か」が居た―



外見はスーツを着た黒長髪で長身の美女だ。

その切れ長ながら優しげな目で俺を見下ろしている。

だが、それを見ただけで俺の精神は粉々になりかけた。

もし、この目の前の美女がその気になれば人間など塵芥のように消し飛ばされる。

そう確信した。

根拠なんて無いが、分かるんだから仕方ない。

……危害を加えるつもりも無さそうだし、挨拶くらいしとくか。

「ありがとうございます、えーと」

「世具 素徒尾巣だ、よろしく」

「よぐ……?あ、俺は百武 清家です。よろしくお願いします」

立ち上がって頭を下げる。

しかし、よぐ そとおすとか、変な名前だ……。

「所で君は人間のようだけど、ここに何か用があるのかい?」

自分が人間じゃないことを隠す気は更々無いようだ。

「すみません、寝ていて気付いたらここに……」

「へぇ、だからそんな格好なのか」

「……」

素徒尾巣さんは俺のジャージ姿を見て口角を上げる。

この人達が何者なのかを別にしても失礼極まりない格好だ。

「まぁ、それなら仕方ないね。来たまえ、服くらいなら貸してあげよう」

「あ、すみません」

踵を返して歩いていく素徒尾巣さんの後に続く。



いつに間にか……本当にいつの間にか簡素ながら結構な大きさの西洋屋敷が草原の中にあった。

魔力の動き所か空気や気配の動きすら感じられなかった。

「上がってくれたまえ。何、とって食ったりはしないよ」

「……はい」

それを見て愕然としていた俺を見て、素徒尾巣さんはそう促した。

それでも俺は恐怖を抑えきることが出来ずにいた。

「帰ったぞ」

玄関をくぐると、素徒尾巣さんは中に向かってよく通る声で言った。

「はいはぁい、お帰りなさぁい」

パタパタ足音がして、間延びした声が聞こえてきた。

明るいオレンジ色のセーターとチェックのロングスカートを着た女性が胸をタユンタユン揺らしながら出てきた。

ウェーブした薄赤色の髪が陽光を弾く。

「あらあら、お客様?」

セーターの女性が細い目をさらに細めて俺を眺める。

「あぁ、百武 清家君だ」

二人が和やかに話している横で、俺はまた底の見えない恐怖と狂気に囚われていた。

この人(?)達は絶対的にまずい。

人間なんぞがおいそれと近付いていい人達ではない。

「……やクン。清家君!」

「はい!」

「大丈夫かい?」

意識が回帰すると、素徒尾巣さんが心配そうに顔を覗き込んできていた。

「……大丈夫です」

いや、大丈夫じゃない。

「ふむ、君の言葉を信じておこう」

このヒト絶対見透かしてる!

博士が偶にやるニヤリって感じの黒い笑いしてるし。

「これは僕の妻の朱豊 尼暮羅子だ」

「尼暮羅子です。よろしくお願いしますぅ」

「百武 清家です……」

妻って……にぐらすって……。

「同性だけど異姓ですかってやかましいわ!」

「お、旨いね」

「フフ、面白い方ですね」

何やらお二人にうけたようでよかったです……。

素徒尾巣さんは柔らかな笑顔のまま尼暮羅子さんに向き直った。

「彼に服を見繕ってやれ」

「はぁい」



そんな訳で、俺は(多分)超高次元存在からラフながら高そうな服をお借りした。

居間に通されて紅茶をご馳走になっているのだが……この紅茶、人間が飲んでも大丈夫なんだろうか……?

「すみません、服だけじゃなくてお茶まで……」

「気にしないでくれ。偶には僕も人間に恩恵を与えないとね」

「はぁ……」

どう答えろと……。

いや、多分冗談なんだろうけど……。

「しかし、本当になんで君はここに来たんだろうね?君は信望者なのかい?」

「あの、信望者ってなんですか……」

初っ端から訳の分からない単語が出てきてしまった……。

「そこからか……。僕たちの中の誰かが呼んだとしか思えないんだよなぁ。じゃないとここで正気を保てる訳無いんだけど」

何か、物凄い不穏当な言葉を聞いた気がする。

「正気、保てないんですか?」

「普通は人間とかがここに来たら狂うか死ぬんだよ。でも君は今こうして生きている」

指を空中でクルクル回しながら説明してくれる素徒尾巣さん。

「ただ呼ばれただけじゃなくて誰かが君を祝福してくれているんだと思う。そんな親切な奴ここには能生殿透の爺さんくらいしかいないんだけどねぇ」

「じゃあ、そののうでんすさんってヒトが?」

「違うと思う」

自らの推論をあっさりと否定してしまう素徒尾巣さん。

苦笑しながら続ける。

「あの爺さん今頃無有羅途照付と大喧嘩してると思うし」

3億年ぶりだからなぁ、と幾つか0の数がおかしい数字が聞こえてくる。

そのお年よりはないあるらとてっぷというヒトと仲が悪いのか。

いや、爺さんとは言っているが、外見までお爺さんなのか疑問だ。

「それはありませんよぅ」

横からポットを持ってきた尼暮羅子さんが笑顔で話しに参加してくる。

「今日は字徒緒司様が久しぶりに目を覚ますのですし」

「あぁ、そう言えばそうだったね。そろそろ準備しなくちゃいけないか」

あざとおす……?

名前を聞いた瞬間、背筋に悪寒が走った。

いや、体が震えて止まらなくなっている。

カチカチと歯が音を立てて、噛み合わない。

呼吸が乱れて心拍数が異常に上下する。

そして、精神が崩壊しそうな恐怖を感じていた。

「あぁ、ごめんなさい。あのお方の名前はちょっと貴方には刺激が強かったですね」

肩を抱いて震える俺の背中を撫でて宥めてくれる尼暮羅子さん。

「す……すみません」

「いや、ここにいて彼の名前を聞いて正気を保っているのはすごいよ。全く、気を付けなさい、彼は人間なのだよ」

「はぁい、申し訳ありません」

素徒尾巣さんの注意に本当にすまなそうに頭を下げる尼暮羅子さん。

「いえ、大丈夫です。ここに迷い込んだ俺が悪いんでしょうから」

多少なりとも落ち着けたので、大丈夫だと手を振る。

「でもどうしましょう、私たちはあのお方の目覚めに招待されています。このまま清家様を家に放っておくというのも……」

尼暮羅子さんが気遣ってくれているが、これもしかして一人類として超破格な扱いな気がする。

いや、実際そうだろう。

多分彼女らにとって人間はバクテリア程度の価値すら無いだろう。

淫魔すら彼女達の前じゃどの程度か……。

「ふぅむ……」

自らの破格の扱いに半ば感動していると、素徒尾巣さんの唸りが聞こえてきた。

「清家君、一緒に彼の所に行かないかい?」

「へ?」

俺より先に尼暮羅子さんの困惑の声が聞こえてきた。

「素徒尾巣様、それはあんまりではありませんか?むざむざ破滅させなくても……」

「いや、多分大丈夫だ。そんな気がするんだ。と言うか、今ので確信したよ。清家君、君は彼に招待されたんだ」

「彼って……その……」

名前を思い出すことすら体と本能が拒否する。

これだけの相手に俺が呼び出されたと言うのか……?

「無理はしない方がいいと思うが、とにかく一度彼と会ってみたまえ。もし彼以外が君を呼び出したとしたらそれ以前に君を呼びにくるさ」

多分ね、と悪戯げにウィンクする素徒尾巣さん。

「はぁ」

俺は頷くしかなかった。



と言う訳で、俺達はその……「あのお方」の所へと向かっていた。

しかし、絶対おかしい。

上下左右前後の感覚もすでに無く、暗くて明るい暑くて寒く過ごしやすい空間がいつまでも続いている。

いい加減精神が千切れて粉々になりそうだが、そうなる度に何かの気配を感じた。

俺を嗤うような、どこか優しい気配。

なんだ……?これ。

「清家君、あと少しだが大丈夫かい?」

「もし無理でしたら私たちの家で待っていて頂いてもけっこうですよぅ?」

素徒尾巣さんと尼暮羅子さんが気遣ってくれるが、口を開けば体が裏返りそうで歪んだ顔で見上げることしか出来ない。

「…………」

苦しいが、ここまで来たのだから行きたい、と言いたかった。

「うん、分かった。急ごうか」

頭の中の言葉に返答する素徒尾巣さん。

今更驚く気にもなれないが……。

手を握って先導してくれた。

数秒か、数分か、数時間か、もしかしたら一兆年を越えたかも知れない。

永遠に続くかと思った苦しみが一気に途切れ、足場がしっかりとした場所に出る。

「!?」

「ようこそお出で下さいました、世具 素徒尾巣様、朱豊 尼暮羅子様」

眼鏡をかけたツインテールのメイドさんが慇懃無礼に頭を下げた。

例に漏れずこのヒトも超絶美人だ。

「あぁ無有羅途照付君、悪いが僕の客がいるんだ。その参加を許してくれ」

「………ええ、いいですよ」

無有羅途照付と呼ばれたメイドさんは俺を一瞥すると、口が耳まで裂けたような嗤いを浮かべて頷いた。

それを見ただけで精神が掻き乱され、頭の中が掻き回される。

「ありがとう」

手をヒラヒラ振りながら感謝を口にする素徒尾巣さんは、そんな俺と無有羅途照付さんの間を強引に通っていく。

そのおかげで体の自由と精神の平衡が多少なりとも戻ってくる。

尼暮羅子さんも会釈しながらに素徒尾巣さん続く。

俺も慌ててそれに付いていく。

「目をつけられたね」

素徒尾巣さんが耳打ちしてくる。

「……まじっすか」

それに対し、冷や汗をかかざるを得ない俺。

無有羅途照付さんからも尋常ならざるモノを感じる。

と、言うよりこのパーティー会場にいるヒトは一人残らずマトモじゃない何かを感じる。

オーケストラの皆様や周囲の有象無象の肉の塊ですら凄まじい力の渦巻きを感じる。

「もしかしたら彼の生贄に調度いいとか思っているかも知れないね。とにかく僕から出来うる限り離れないように」

「……はい」

素徒尾巣さんの言葉に頷くしかない。

気付くと、尼暮羅子さんは少し遠いテーブルで誰かと談笑していた。

その時、真横に人影があった。

やはりと言うべきか、気配なんか全く無かった。

「うおぁ!?」

灰色のドレスを着用した妙齢の長身女性が灰色の瞳で俺を見下ろしていたのだ。

膝までありそうな灰色の髪を毛先で緩くまとめてある。

「やぁ、安部方子君。どうしたんだい?」

『……人間』

地の底から響くような、それでいて春の木漏れ日のような女性の声が頭に直接響いてきた。

「あぁ、彼が呼んだみたいなんだ。道も分からなかったようだから連れてきたんだよ」

『……そう』

あぶほうすさんと言うらしい女性はふらりと俺たちから離れていってしまう。

「彼女の人間に対する無関心ぶりも変わらないねえ」

素徒尾巣さんは苦笑しながら安部方子さんの背中を見送っている。

しかし、多分相当偉い奴に呼ばれているはずなのに、見渡す限りとってもカオスなパーティー会場だ。

何やら床に直接眠ってしまっている青年や、ただ舞いを舞い続ける褐色肌の女性、グルグルその場で回転しているだけの黒コートを着た女性。

「葉亜須戸と打緒呂司の姿が見えんのう」

白髪で灰色の髭の爺さんが素徒尾巣さんに話しかける。

「卯簿 狭簾等君もいないだろう?ねぇ、能生殿透さん」

素徒尾巣さんは笑顔で頷く。

どうやら仲の悪いヒトではないようだ。

「まぁ、自由参加だからどうでもいいと言えばどうでもいいんじゃがのう」

のうでんすさん、と言うヒトが俺に視線を向ける。

「しかし、ここに人間が来るとはの。大丈夫かね?おんし」

能生殿透さんは気遣わしげに俺に声をかけてくれた。

「あ…はい、大丈夫です。ありがとうございます」

ペコリと頭を下げ、感謝を示しておく。

「儂は能生殿透と申す。おんしの名を伺ってもいいかの?」

「百武 清家です」

「ふむ。しかし、人間を連れてくるとはおんしも趣味が悪い」

俺からまた素徒尾巣さんに会話を振る能生殿透さん。

「にwんwげwんwww。クソワロタwwwww」

それに追従するように癇に障る声が後ろから響いてきた。

細目の奇妙な格好の男が喉の奥を鳴らして俺を指差して笑っている。

「灰土羅、失礼じゃろう」

能生殿透さんがその男に嗜めるように言うが、そのはいどらとかいう若い男は俺をおちょくるのをやめない。

「失礼じゃろう、だっておwww!こんなミジンコみたいな奴に礼儀も何もないお!」

「いやぁ、清家君はどうやら彼に招待されたらしい。客としての立場は僕たちの中で一番上じゃないかな?」

素徒尾巣さんがそれに反論するように言うと、二人は愕然とした表情を浮かべる。

「アレがか!?」

「あるあ……ねーよwww!」

特に灰土羅さんは俺を指さして大笑いしている。

「んじゃ頂きますwwwww!」

「!?」

見ることは出来なかったが、灰土羅さんから何か細長いモノが俺の首に向かって伸びてきた。

それは確実に俺の首を斬りおとすはずだった。

それこそ反応することすら出来ずに。

気付いた時には灰土羅さんが苦しそうに膝をついていた。

「が………っ!ぐっ……やめ………!」

素徒尾巣さんも、能生殿透さんも、他の皆も驚きの表情で顔を歪める灰土羅さんを見ている。

「分かった!分かったよ!やめる!コイツを刈るのはやめるから!」

必死としか言いようのない表情で灰土羅さんが叫ぶと何かの攻撃は止んだようで、苦しそうに肩で息をする。

「まじかよ……、なんで……?」

灰土羅さんの心底からの不思議そうな呟きと、周囲のざわめき。

そんな中、無有羅途照付さんが俺を睨んでいるのが分かった。

もし視線だけで人を殺せたら……いや、多分彼女なら見る必要も無く人間なんて消し去ってしまうだろう。

ともかく、その憎悪だけで気が変になりそうだが、「彼」とやらが俺を護っているようだから手は出してこないようだ。

「ふむ、もしかしたら今回は君だけの為に彼は起きるのかも知れないね」

素徒尾巣さんはしたり顔でそんなことを言う。

確かにその「彼」とかいう奴は、この片手で地球でも太陽でも吹っ飛ばしたり創り出したりしそうな連中の元締めでとんでもない力を持っているのかも知れないが、誰も自分の為に起きて欲しいなんて願っていない。

と言うか、そんな奴なら一生寝ていて欲しい。

そう考えたらなんだか腹が立ってきた。

なんで勝手に目覚めた上に俺を同意も無しに連れてきたのか。

「行くのか?」

能生殿透さんが暗い声を出す。

「ええ、一言文句言わないと気が済みそうにないので」

引き止めたそうな表情を浮かべた能生殿透さんがさらに続ける。

「ならとにかく気を付けることだ。あやつにとって世界ですら玩具でしかない。ましてや人間なぞ塵の一片にも満たん」

気を付けたところで意味も無いだろうが、と肩を竦めながら言った。

それなら言わないで欲しかった。

一気に意気消沈し、すぐに帰りたくなる。

奴に会うと決めた途端今までとは比べ物にならない狂気と恐怖が押し寄せてくる。

怒りなど簡単に霧消して、純然たる恐怖のみが心を満たす。

無有羅途照付さんすら気にならなくなるような……。

「主がお呼びです。ご案内致します」

その無有羅途照付さんがいつの間にか俺の前に立ってそう言った。

その顔は俺の恐怖が分かっているのか、あの口が裂けているかのような嗤いだ。

「………」

ゴクリと、喉の鳴る音が耳に残る。

「ふむ、僕は同行させてもらおうか」

「どうぞ」

素徒尾巣さんの言葉に、笑顔を崩さず無有羅途照付さんは頷いた。



気が付くと、宇宙空間に居た。

瞬かない星とどこまでも続く闇だけの空間。

周囲を見回しても太陽とか地球とか自分の知る星は見当たらない。

もしかしたら冥王星の近くだったりするのかも知れないが……。

息も問題無く出来るし、今更この程度の出鱈目さでは気にもならないが。

視線を周囲に彷徨わせると、人間大の真っ黒な球体を見つけた。

まるで、生き物のように脈動している。

「こちらです」

無有羅途照付さんがそれに手を指す。

「さて、どうする?ここまで来てなんだが、彼には会わなくてもいいと僕は思っている。全てを滅ぼし創り出す「万物の王」、そんなモノに会ったら君が……」

素徒尾巣さんが本当に真剣に俺を見てくる。

本気で俺を心配してくれているんだと思う。

それは本当にありがたいが、ここで会わなければまたいつ呼ばれるか分かったものじゃない。

アイツじゃないが、明日は普通に学校で、しかも日直なんだ。

さっさと帰してもらわなくちゃ困る。

そう、震えだしそうな体を叱責して一歩踏み出す。

ゆっくりと指先から触れると、何の抵抗も感触も無くスルスルと入ってしまう。

進むも戻るも全く支障が無い。

覚悟は決まった。

「おぉうぁぁ!」

目を硬く瞑り両腕で顔面を庇い、情けない奇声を上げながら一気に球体の中へと飛び込む。

多分無有羅途照付さんは嗤ってるんだろうな……。

中に入ってしばらくそのままで固まっていたが、何も無い。

しかし、雰囲気、いや感情とでも言うべきモノを感じることは出来た。

ここに来られたという歓喜。

ずっと居たいという安心。

今すぐ逃げ出したいという恐怖。

居てはいけないという焦燥。

その他名状し難い矛盾した感情の渦巻きに精神が翻弄される。

そこに居るだけで俺は発狂寸前だった。

それでも、ゆっくりと目を開く。

それだけで俺は狂った。

口から意味の無い絶叫が溢れ出す。

見えたのはどこまでも続くただの闇。

自分の周囲のみなのか、無限に広がっているのか、それともその両方なのか分からない暗黒。

自分の体すらも分からない漆黒。

そして、その中に見える狂気。

そこには、ありとあらゆる生命に対する悪意と敵意と嫌悪と憎しみと怒りと蔑みと嘲りと嫉妬と怨みと憧憬と尊敬と友愛と慈愛とが混ざり合って存在している。

それを知覚してしまえば、ただの人間が「存在していること」など許されない。

いや、例えどんな人間であろうと、淫魔であろうと……神ですらそんな不遜は許されず、消滅するしか選択肢は無かっただろう。

そこの主に求められでもしなければ。

「………え?」

素徒尾巣さんと無有羅途照付さんもすでにここに入ってきていて、二人の姿だけが暗闇の中で鮮明に見える。

「俺……」

確かに俺は狂ったはずだ。

何度かアイツにやられてるからそれは感覚で理解出来た。

しかし、現に俺は正気を保っている。

さっきまで持っていた恐怖を今も心に浮かべている。

じゃあ、誰が俺を護ってくれた……?

それは……。

背後で二人が傅くのを感じた。

そして、俺の前に奴は姿を現した。



ありとあらゆる美の形容を使っても形容出来そうにない美貌は、誰もが躊躇無く膝をつくであろうと思える程。



雰囲気はまさに支配者と言ってよく、彼女に「死ね」と命令されれば誰もが自らの命を奉げるだろう。



腰まで波打つ闇を溶かしたような漆黒の髪は濡れているかのように艶やかだ。



並べれば宝石の方が色あせるであろう真紅の瞳を据えている目は、眠そうにボーっとしている。



そんな容姿に合わせるように体躯も見事だ。



肌は陶器のように滑らかで、皺も染み全く見当たらない。



妖艶でありながら清楚……いや、形容することすらおこがましく感じてしまう。



そう、それは……。



「絹見!」

「おはようございます、清家」

あの莫迦が暢気に笑顔で挨拶してきやがった。

寝起きなのか欠伸を噛み殺しながら。

着物のようなドレスのような大きな余裕のある服を着て、こちらに視線を向けている。

「おい!これはどう言う事だ!」

肩を掴んで前後に揺さぶる。

「あうあう。待ってください、寝起きなんだから」

「いいから説明しろ!場合によっちゃ許さねぇぞ!」

ガクガクと揺さぶられるままの絹見を怒鳴りつける俺。

背後から素徒尾巣さんと無有羅途照付さんの驚愕する気配が伝わってくるが、今それどころじゃない。

「うぅ、許される自信がありません」

いつもの絹見がそこには居た。

「万物の王」とやらはどこ行きやがった!?

「とにかくまずはご挨拶をば」

そう言って絹見は、優雅に頭を下げた。

背筋は凍り、体は震え、精神は病む。

「「魔王」アザトースです。よろしくお願いします、清家」



―どこかの宇宙が、確かに滅んだ―



「大丈夫ですか?清家」

「あ…あぁ」

大丈夫?

そんな訳あるか。

目の前の存在は確かに俺の知る絹見で間違い無い。

間違い無いが、本来なら俺を含めてありとあらゆる種族が対面してはいけない存在でもあった。

世界はコイツが見ている夢で、コイツが世界なんだ。

コイツがその気になれば全てが「無」に帰る。

それをしないのはコイツにとって全てがどうでもいいからだ。

人類は地球の支配者?

淫魔は高位種族?

笑わせる。

コイツはそれすらどうでもいいんだ。

人間が塵の動向を一々気にしないように。

一つの惑星とその裏側にある世界なんてその塵一片程度の価値すら無い。

これを知っておかしくならない奴なんているのか?

そんな「魔王」が、いったい俺に何の用だと言うんだ。

「すみません、突然呼び出したりして」

「……あぁ」

呆けたような声しか出ない。

声が出ること自体自分でも驚きだが。

「目が覚めた時に、傍に清家に居て欲しかったので」

「……あぁ。……………て、おい!!」

「うぅ、やっぱり怒られた」

なんかさっきまで考えてたことがアホらしくなってきた。

「当然だ!家に呼べ家に!」

「確かにアレも私ですけど、この私じゃなくて淫魔の私じゃないですか!あと三無量大数年会えないなんて寂し過ぎます!」

ゼロが幾つだそれは。

「と言うかそんなに経ったら俺も生きてねぇよ!」

「たしかに最後に会ったのは七五一不可思議年前ですけど……」

なんだそれ?

最後にあったのは遠い昔なのに会えるのは遠い未来って……。

……いや、多分コイツらには……。

「うん、君が思っている通りだよ」

後ろからヨグ・ソトースさんが声をかけてきた。

「僕たちに君たちと同じ時間の概念は存在しないんだ。僕自身時間だから特にね」

「あ、おはようございます、ヨグ・ソトース。ニャルラトテップも」

「おはよう(ございます)、アザトース様」

背後の二人が恭しく頭を下げたのが分かった。

「しかし、なぜ彼を近くに呼ばなかったのですか?」

ニャルラトテップさんが小馬鹿にしたように言う。

いいのか、自分の主に対してそんな口調で。

絹見は全く気にしてないみたいだが。

「どうも淫魔の私に妨害されてしまったようです。流石私!」

「つまり?」

俺が不機嫌な声で促すと慌てたように説明を始める絹見。

お前「万物の王」じゃねぇのかよ。

「つまりですね、ここに清家を連れて行かれるのを察知した淫魔の私が無意識か意識的かは知りませんが妨害したのですよ。でも、覚醒はしていても自覚は無いですから自分の力を満足に振るえず、現れる場所がずれただけになった……と、言うことです」

つまり絹見同士で俺を取り合ってたのか。

何じゃそれ。

「なにはともあれ清家、ありがとうございました。これでまたグッスリ眠れそうです」

「なんだよ、もう寝るのか」

起きてから一時間も経ってないぞ。

「はい。世界をいくつか壊してしまいましたし、その修理をしなくちゃいけません。それに起きていたらいつまでも清家が帰れませんから」

寂しそうにそう言って、絹見は闇にたゆたい始めた。

そう思うならその目をヤメロ。

ったく。

「おい、絹見」

「はい?」

「俺が死んだら魂やる」

「……は?」

俺は何を言ってるんだろうな?

「俺でよかったら死んでからここに居てやるって言ってるんだよ」

人間一人の命がコイツにとって価値のあるものには思えないが。

しかし、絹見は嬉しそうに……本当に嬉しそうに微笑んだ。

「はい、何兆年でも待っています。だからそれまで、そちらの私と仲良くしてください」

そんなにかかんねぇよと言おうとした時、世界が引っ繰り返った。



真っ白な世界の中、凄まじい速度で落下していく。

いや、上昇してるのか?

そこに、ヨグ・ソトースさんが現れた。

「やぁ、清家君」

「ヨグ・ソトースさん。あの、ありがとうございました」

「いや、気にしなくてもいいよ。アザトース様の友人なら僕にとっても友人だよ」

ヨグ・ソトースさんはそう言って、愉快そうに笑顔を浮かべる

「そうそう、服は返してもらったよ。その代わりにちゃんとジャージは返したからね」

「あ、はい」

いつの間にか俺はジャージ姿に戻っていたが、本当に今更だ。

感謝こそすれ驚きも恐怖も無い。

「それと、はい、お土産」

「?」

ヨグ・ソトースさんが差し出したのは古めかしい銀の鍵だった。

使い込まれているが、地上にあるどんなモノより美しかった。

「どうしても、と言う時に使いたまえ。本当にどうしても、と言う時だ。使い方は君の所のアザトース様…いや、絹見ちゃんが知っているさ」

ジャージの右ポケットに、ズシリとした重さが現れた。

「それじゃあ、またいつか」



「……ンヤ!清家!」

「あ……?」

体を乱暴に左右に揺さぶられる感覚に、意識が覚醒する。

本来なら寝ていたって誰かが接近してくるのを警戒する俺の体に無造作に触れる奴。

俺が知る限り、身近には一人しかいない。

「…んだよ、絹見」

泣きそうな表情の絹見がベッドに昇って、俺を揺さぶっている。

時計を見ると7時少し前。

起きるにはほんの少し早いが、誤差の範囲内だろう。

「よかった。目、覚めましたか?」

その豊かな胸を撫で下ろし、安堵の表情を浮かべる絹見。

「なんだよ。俺になにかあったのか?」

「……覚えて…ないのですか……?」

なぜか、目の前にあるのに絹見の顔が分からなかった。

「何をだよ」

夢は覚えてないし、夜にどこかに行った記憶も無い。

「……なら、いいのです」

絹見はベッドを降りて、歩いていく。

「おい、どこ行くんだよ?」

「朝御飯、作りますよ。パンを焼くだけですけど」

微笑む絹見が見えた。

そのまま台所に絹見が向かった後、ポケットに何か入っているのに気が付いた。

「……鍵?」

古いけど、とても綺麗な銀の鍵だ。

なんだこれ?

「おーい、絹見」

「なんですか?」

キョトンとした表情の絹見が振り返る。

「この鍵、何か分かるか?」

「………使うのですか?」

質問に対してチグハグな答えだったが、俺はもうそれを指摘する気ももう一度質問する気も起こせなかった。

……やっぱり絹見の顔が分からない。

真直ぐ見ているはずなのに……。

「……いや、まだいい」

しばらくの沈黙の後、まるで自分じゃない誰かに言わされているように、俺は答えた。

「そうですか」

絹見が微笑んだ……気がした。



また一つ、宇宙が滅んだ




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