7月21日 指南書




それは山である。

裾野は広く、頂上は高い大きな山である。

頂上への道は苦難の道である。

なだらかな道もあるが、最後に待ち受けるのは聳え立つ岩壁。

いつ終わるとも知れぬ延々と続く急な斜面もあるが、遥かかなたに頂上は見える。

しかし苦しみばかりが全てではない。

一歩一歩足を進め、登った喜びを感じることも出来る。

そして無理に頂上を目指す必要も無い。

道中に見晴らしの良い場所は幾つもある。

頂上に至らずとも、そこまで登れたということを誇りに思い、その場で止まっても良い。



それは山である。

裾野は広く、頂上は高い山である。

どこから登り、どのルートをたどり、どこを目指すかは、これを読むあなた自身の自由である。

そして私がここに記した文章が、あなたの道中の案内役になれれば、幸いである。

それでは、よい旅を――





『帝国』東ユーラシア司令部司令官 エリオット・スペンサー中将















簡単な応接セットと事務机と椅子だけのシンプルな部屋に、一人の男がいた。

二十台半ばほどのその男は、部屋の置くに置かれた事務机に着いて、ノートパソコンに向かっていた。

「・・・っと・・・」

ノートパソコンのキーボードを打つ手を止めると男、エリオット・スペンサーは大きく伸びをした。

意味が無いと分かっていながらも、染み付いた習慣は取れないものだ。

彼は伸びを終えると、つい先ほど書き終えたばかりの『前文』を読み返した。

既にパソコンの中には完成された原稿が入っているため、正確には『あとがき』となのだろう。

だが、これから出版される本を読む者にとっては、これは『前文』であった。

「ふふふ・・・」

『銅の歯車』出版部から『大図書館』の流通システムを通じ、人界から淫魔界までに自身の著作が広められる様を夢想し、彼はニヤニヤと笑みを浮かべた。

「・・・何しているんだ?」

不意に声がかけられた。

スペンサーが顔を上げると、部屋の入り口側に置かれた応接セットのソファに、三十代半ばほどの男が腰掛けていた。

「おーぅ腰眼!いつ来た?」

スペンサーは椅子から立ち上がりながら、男の名を呼んだ。

「ついさっきだ。貴様がパソコンに夢中になっている間にな」

「執筆中は人を通すなと言ってたのに・・・えぇい事務員め!」

「広阪さんに訳を話したら、素直に通してもらえたぞ」

「えぇい広阪め!」

隣の部屋で働いているであろう事務員の名を言いながら、スペンサーはテーブルを挟んで、腰眼の向かいに腰掛けた。

「それで、今日は何の用?」

「あぁ、実はな・・・」













若い女が一人、町の中を歩いていた。

髑髏と十字に組まれた骨がプリントされたTシャツとジーンズを身に纏い、サングラスを掛け手には買い物袋を提げていた。

女の名は、バアル・ゼブブ。

零細魔術組織『月を見るもの』に勤める淫魔だ。

そして今、彼女のサングラスの縁から覗く眉間には、深い皺が刻まれている。

皺の理由は実に簡単だ。

今彼女の手元には、『月を見るもの』の共用の財布がある。

食費や光熱費や文房具など、組織の運営に必要な金は全てこの財布から出ている。

そして光熱費や税金といった公共料金の支払いと、たった今してきた買い物で、共用財布はほぼ空になってしまった。

(ほんと、どうしようかしら・・・)

歩きながら、彼女は悩んでいた。

やがて、彼女は施設と住居をかねているボロアパートに着いた。

古びたアパートの階段を、ぎしぎし鳴らしながら上っていく。

何年か前にアパートを丸ごと購入したおかげで、他の住人に気を使う必要が無いというのが、このアパートの数少ないいいところだ。

バアル・ゼブブは二階の部屋の前にたどり着くと、がたつくドアノブを握り、扉を開いた。

玄関を挟んで、部屋の中に三人の男が並んで立っていた。

「・・・・・・」

彼女の意識が何が起こっているかを理解する前に、三人の男が動き始めた。

「仕事が無いので金が無い」

向かって右の男、足泉が何らかの構えをとりながら口を開いた。

「金が無いので飯が食えない」

続けて左の男、髄柱が同様の構えを取りながら言う。

「飯を食わねば仕事は出来ぬ」

正面の男、腰眼が両腕を上げ天井を仰ぎながら続けた。

そして。

『マジ、腹減ったぁぁぁぁ』

「はいはい分かりました、今準備しますから通してください」

タイミングを合わせての合唱を適当にあしらいながら、バアル・ゼブブは履いていたスニーカーを脱いだ。

三人はポージングを解くと、彼女のために数歩退く。

「バアル」

「何ですか?」

「久しぶりに肉を食べ」

「今日も『もやしの焼肉のたれ炒め』です」

不意の腰眼の言葉に、彼女はいささかぞんざいに答えた。

「そんな!」

「この一週間毎日もやしじゃねえか!」

髄柱と足泉が、驚愕の声を放った。

バアル・ゼブブは一つ嘆息すると、三人に向き直る。

「仕方ないでしょう、どこかの御三方が仕事を全くなさらないから」

「それは・・・依頼が入ってこないせいで・・・」

「待ってるだけだったら、いつまで経っても依頼は来ません!」

彼女の一喝に、腰眼は首をすくめた。

「そもそもなんですか。御三方とも仕事を取りに行くという姿勢が全く感じられません。

そんな態度で仕事が来るとでも思ってるんですか?」

「えぇとほら、その辺はね・・・あ、この間僕達売り込みに行ったじゃない?」

「あ、あぁ行ったよな。確かにあっちこっち回って、仕事があったら回すように頼んで・・・」

「この間って、あたしの登録を『大図書館』の支部までしに行った時のことでしょう」

呆れた様子で、バアル・ゼブブは言った。

「それに、早いところ仕事を確保しないと・・・食事の用意も出来なくなります」

「マジか」「何だと」「嘘!?」

財布の中身が危ないと言うことを知るなり、三人の態度が一変する。

(あたしは来る前は、ホントこの人たちどうやって生活してたのかしら・・・?)

頼りない主人に対し、頭を抱えたくなりながらも、彼女は言葉を放った。

「それでは、明日の予定は『大図書館』支部まで仕事を取りに行くということで・・・」

「分かった、頼んだぞ腰眼」

「頑張ってきてくださいね、腰眼」

「・・・何おっしゃってるんですか、御二方」

にこやかな顔で腰眼の肩に手をやった二人の男に、彼女は呆れた声で言った。

「そうだ、貴様らも付いてこい」

「だるいから嫌だ」

「面倒くさいんで嫌です」

腰眼の命令に、二人は即答した。

「・・・・・・・・・なるほど・・・どうしても、行きたくないと・・・?」

「あぁ」「はい」

異様に据わった目で、彼は二人の部下を一瞥した。

「・・・足泉、髄柱」

「何だ?」「何です?」

「『ちんこって、十回言ってみろ』『豚の鳴きまねをしてみろ』」

『っ!?』

ぼそりと囁いた腰眼の言葉に、二人の顔が強張る。

「『ちん』・・・」

「分かった!分かったから腰眼、行くから!仕事取りに行くから!」

「喜んで行きますから!ですから、ね?ね!?」

言葉を連ねようとした腰眼の足元に膝をつくと、二人は慌てた様子でそう言った。

「・・・・・・はぁ・・・」

バアル・ゼブブは小さく溜息をつくと、台所へ向かって行った。















「と、言うわけで仕事をもらいに来たわけだ」

「ふぅん」

腰眼の説明に、スペンサーは納得したような声を漏らすと、ふと思いついたように尋ねた。

「んで、何でまた私のところに?」

「くじ引きで行き先を決めたら、よりによって貴様のところに当たってしまったからだ、スペンサー」

腰眼は皺の寄ったスーツの懐に手を入れると、紙切れを一枚取り出した。

そして、そこに書かれている文章を読み上げる。

「えー『我ら『月を見る者』は暗号の作成・解読、術式の最適化お呼び暗号化に』・・・」

「あぁ知ってる知ってる。それはそうと、頼みたいことがあるんだけど」

メモの棒読みを始める腰眼を留めると、スペンサーは言った。

「本の執筆と器具の製作を今やっているんだけど、意見を聞きたいんだ」

「・・・・・・何だかすごく嫌な予感がするんだが・・・」

つい先日の電話越しの事件を思い返しながら、腰眼は応えた。

「ははは、腰眼は心配性だなぁ」

スペンサーは立ち上がると、机の脇に置いてあったダンボール箱を抱えて戻ってきた。

「とりあえずこれまでに原型から作った試作品だ。一通り見て意見を聞きたいんだ」

そう言いながら、彼は背の低いテーブルの上に箱を下ろした。

箱は、小柄な人間ならば屈めば入ってしまいそうな大きさだった。

「・・・・・・」

「あと、これまでに書いた本の原稿を印刷するからちょっと待ってて。日本語版でいいよね」

再び机に戻るスペンサーの声を背景に、腰眼は固まっていた。

(これは何だ?私の目の前にあるこれは何だ?)

彼の脳内を、疑問文が飛び回る。

(試作品を入れていると言っていたが、少々大きすぎやしないか?いや、実は大きいの一つだけかもしれない。きっとそうだ。そもそも何の試作品か聞いていないから、恐れる必要は無いはずだ。きっとそうだ。怖くない怖くない)

身体の底から湧き上がる震えを押し留め、目を閉じて深呼吸を繰り返す。

(・・・よし、大丈夫だ)

腰眼は決心を固めると目を見開き、ダンボール箱の蓋を開いた。

目に入ったのは、箱一杯に詰め込まれた灰色一色の何かだった。

大きな段ボール箱というと蛇だが蛇の方がよっぽどましだな、と彼は脳のどこかで思い浮かべていた。

腰眼の脳が詰め込まれた物体の形状を認識し始めると直前、無意識のうちに思考にフィルタが掛かった。

さて、箱に入っているのはなんだろう?

「なぁスペンサー、これは一体何だ?」

脳のどこかで誰かが悲鳴を上げていたが、彼の口はいつの間にか問いを発していた。

「あぁ、私が創った淫具だよ。一人用から複数人用まで色々ある」

「そうか」

ほとんど聞き流しながら、彼は箱の中から握りこぶしほどの大きさの、流線型をした硬質ゴムの塊を取り出した。

表面に黒のマジックで『A−05』と書いてある。

「これは?」

「それは上位アナライザー向けのアナルプラグだね」

「なるほど、お前の出身地じゃドアノブのことをそう言うのか」

握り難い形をしているがモダンデザインとかそういうものなのだろう、と腰眼はフィルタの掛かった意識で思考した。

「ははは、違うよ腰眼」

パソコンを操作し、何かを印刷しながらスペンサーが笑う。

「それは肛門自慰のやりすぎによって肛門括約筋が締まらなくなったアナライザーが、肛門に栓をするための器具だよ。私はアナルリセットできるけど、普通の人はそうはいかないからね」

「確かに、校門やドアはちゃんと閉まるほうがいいな」

説明の端々から聞こえた単語を都合よく変換すると、手の中のドアノブを箱に戻した。

「量が多いから一度持って帰っていいか?」

「んー?あぁ、いいよ。他の人たちの意見も聞きたいし」

印刷された紙を手に取りながら、彼は答えた。

「2の・・・3の・・・よし、できた」

プリンターから吐き出された紙をまとめると、スペンサーはそれを腰眼の元へ持ってきた。

「それじゃあ、これとそっちの器具についてレポートをまとめて、再来週の火曜までに頼めるかな?」

「一応努力はする」

「ありがと、報酬はいつもぐらいの額を振り込んでおく。それと、レポート書き上げたら器具は全部上げるから」

紙束を渡しながら、二人は言葉を交わした。

紙束の一番上には、大きく『自慰指南 初心者から熟達者まで』とあった。















テーブルの上に、紙束が置いてあった。

ただテキストを印刷しただけの文書だ。

だが、テーブルを囲む四人はいずれも紙束に手を伸ばそうとはしなかった。

「・・・・・・誰か、読まんのか・・・・・・?」

沈黙を破り、テーブルに就いていた腰眼が口を開いた。

「いや、こういう秘密文書は団長が読むもんだと思って・・・なぁ髄柱?」

「え?あ、あぁうん、僕も足泉の言う通り腰眼から読むべきだと思って・・・」

腰眼の左右に座る二人の男、足泉と髄柱が強張った笑みを浮かべながら応える。

「そ、そうだ!バアル、バアルがいるじゃねえか」

「そうだ!バアル、君が読んでよ・・・」

腰眼の向かいに座る、赤い目をしたTシャツジーンズ姿の女に、二人は話を向けた。

「・・・あたしはまだ見習いの身で御三方の部下ですので、そういう出すぎた真似は避けるべきだと・・・」

「団長命令だ」

「上司命令だ」

「同じく上司命令」

三人の男達は女、バアル・ゼブブにそう命じる。

バアル・ゼブブはその赤い眼球を瞼で覆うと、しばしの間を置いて口を開いた。

「・・・お言葉ですが、器具のレポートはあたしが半分ほど書いたので、正直この本の感想は御三方が書くべきだと思います」

彼女が目を開くと、三人は視線を逸らした。

そして無言のまま、時間だけが過ぎていく。

「・・・仕方ない、こうしよう」

腰眼が口を開いた。

「くじ引きを行って一人が本を音読し、残る三人がレポートを書き上げる・・・どうだ?」

「・・・まぁ、いいんじゃねえの・・・」

「・・・それなら、まぁ・・・」

「・・・くじ引きなら・・・」

三人は、腰眼の提案に渋々頷いた。

















話は数日前に遡る。

殺風景なボロアパートの一室に四つの人影があった。

一つは腰眼で、部下と共に部屋の中央に置かれたテーブルに就き、テーブルの上の紙束と段ボール箱を見つめていた。

「それで・・・引き受けたのか、腰眼」

腰眼の話を聞き終えた足泉が、半眼で腰眼に視線を向けた。

「あの時は正気を失っていた。今になって後悔が襲い掛かってきている」

「正気を失ってたら何やってもいいって話じゃないだろう」

「余り虐めるなよ足泉。仕事とって来たの腰眼だけなんだから」

足泉をたしなめるように、髄柱がそう言った。

「でも腰眼、もう少しものを考えてから仕事を請けて欲しかったですね」

「後で悔やむ、と書いて後悔だ」

苦い表情で、腰眼はそう呟いた。

「どちらにせよ御三方、請けたからには仕事をしないといけません」

テーブルの一角についていた、バアル・ゼブブが口を開いた。

彼女はダンボールの蓋を開くと、中に納まる器具を取り出しながら続ける。

「とりあえず、目に付いたものから順に片付けていく、という方向でいきましょう」

「うむ」「あぁ」「そうだね」

男達は口々に言いながら、バアル・ゼブブの提案に従い適当に器具を手に取り始めた。















そして数日が経過したが、誰もテーブルの上の紙束に手を伸ばそうとはしなかった。

そのため『自慰指南』だけが手付かずのまま残されているという事態に陥ってしまったのだ。

そして今、『月を見る者』の四人は『自慰指南』のレポートを書くため、一人を生贄にささげようとしていた。

「俺かよ!クソァッ!!」

当たりを引いた足泉が、声を上げた。

「締め切りまでもうすぐだ、早くしろ」

「とっとと読んで下さいよ、足泉」

「お前ら・・・」

追い討ちをかける腰眼と髄柱に、足泉の顔が歪む。

「・・・分かった、俺も男だ、覚悟を決める・・・!」

髄柱は立ち上がると、掌で自身の頬を数度打ち、声を上げた。

「己を強く持てば正気を保てる!重心低く構えればどんなタックルも受け止められる!心頭滅却すれば火もまた涼し!

行くぞ!」

己をひとしきり鼓舞すると、彼は『自慰教本』を手繰り寄せ、めくった。

「・・・・・・ごめん・・・」

「「「早!?」」」

謝りながら椅子に崩れ落ちる足泉に、三人が声を上げた。

「ちょっと待て足泉、いくらなんでも早すぎる!」

「腰眼・・・目次だけで俺死にそう・・・」

「いや、何見たんだお前・・・」

「心頭滅却しても火は熱いんだな、髄柱・・・」

「ちょっと、しっかりして下さい足泉様!」

「うん・・・川の向こうに花畑が見える・・・」

「おい、足泉!?バアル!タオル濡らして来い!」

「はい!」

必死で介抱する三人に、足泉はうわごとを漏らした。

「肛門と乳首は分かる・・・首筋と背中も分かる・・・でも耳と目って何なんだ・・・?」

「分かった、もういい。深呼吸しろ」

「腰眼様、タオルを」

「ありがとう」

渡された濡れタオルを足泉の額に当てながら、彼は深呼吸を促した。

足泉の呼吸が穏やかなものになっていき、いつしか寝息に変わっていった。

「・・・よし、今日はもう遅いし、このまま寝るとしようか」

「そうですね、じゃあ僕は布団敷いてきます」

「御二方、まだお昼前ですよ」

いつの間にかこのまま寝る方向で話を進めていた二人に、バアル・ゼブブが突っ込んだ。

「だって・・・こんな危険物だとは思わなかったから・・・」

半分泣き声で、腰眼は応えた。

バアル・ゼブブは情けない主人の姿にふぅ、と溜息をついた。

そして、口を開く。

「・・・それじゃあ、こうしましょう。あたしが読んで要約しますから、それを元にレポートを御二方が書く、と言うことで」

「出来れば要約は口述じゃなくて、文書にして欲しい」

「そしてそのままレポートまで書いて欲しい」

「仕事しろお前ら」

彼女の言葉に、二人は首をすくめた。

「・・・分かった、それならば我々も大丈夫だろう・・・」

「いざと言う時は面倒見るから、安心してね」

少々頼りない主人達に嘆息すると、バアル・ゼブブは自分の席に戻り、『自慰指南』を手繰り寄せた。

そして表紙をめくり、前文に目を通す。

「・・・登山の話ですが、何となく不穏なものを感じます」

「読まなくて良かった!」

髄柱が安心したように声を上げた。

「それでは続きを・・・」

ページを捲り、彼女は淡々と流し読みをしていった。

文字情報が彼女の脳内に染み入り、意味を認識し、理解を促す。

一枚ずつページを捲りながら、彼女は文章を理解し、主人達がダメージを受けないレベルに文章を砕いていった。





「・・・読了、いたしました・・・」

どれほどの時間が経過しただろうか、彼女は最後のページの上に今まで読んだページを乗せると、軽く目元を揉んだ。

(・・・何となく、足泉様が卒倒なされた理由が分かった気がする・・・)

胸中でそう呟くと、彼女は口を開いた。

「それでは、『自慰指南』の要約をいたします」

「うむ、頼む」

「僕達に害が無い程度にね」

二人の主人のため、彼女は言葉を選びながら続けた。

「まず、本編の構成は初級編中級編上級編、そして応用編の四つの章に分かれておりました」

目次を開き、内容を思い出す。

「内容は、タイトル通り全編にわたってオナニーの仕方が解説してありました。

初級編では生殖器や敏感なところを。

中級編では一見快感とは無縁そうな箇所を。

上級編ではもはやオナニーとは言えない様な方法で。

そして応用編では器具やシチュエーションを組み合わせての、更なる快楽の追求について記されてありました」

「・・・だから目次で足泉が失神したんだ・・・」

「やはり、スペンサーの脳みそは地獄と直結しているんだろうな・・・」

恐怖を通り越し、もはや一種の感慨を抱きながら男達が呟いた。

「ちなみに、足泉様がご覧になられたのは、いずれも初級編のようです」

「「何・・・だと・・・!?」」

驚愕する二人に向け、バアル・ゼブブは言葉を紡ぐ。

「肛門は前立腺、乳首は無論敏感な箇所なので、オナニーの際に使えるようです。

そして首筋と背中についても、性行為中の痺れるような感覚を再現することが出来れば、ここでもまた快感が得られるとのことです。

最後に耳と目ですが、これは視覚と聴覚による刺激のことだと考えられます」

「・・・なるほど」

「・・・そゆこと」

彼女の説明に、二人は呆けたような納得したような、微妙に間の抜けた表情を浮かべていた。

「つまり、足泉様が卒倒なさったのは、スペンサー様の著作という先入観とご本人の無理矢理高揚させたテンション、そして目にいきなり飛び込んだなじみの無い箇所でのオナニーという情報が、脳に多大な負荷をかけたためだと考えられます。

ですから、著作自体は御二方がおっしゃるほどの『危険物』、というわけではないようです」

「良かった・・・」

「ですが・・・」

ほっと顔をほころばせる二人に、バアル・ゼブブは顔を曇らせながら続けた。

「それは初級編までの話です。

中級編の半ばからはもはや、淫魔のあたしでさえも理解しかねる世界でした・・・」

「「な・・・に・・・!?」」

再び二人が驚愕する。

「ですから正直、御二方にこのまま要約を続けていいものかどうか・・・」

「・・・バアル、やれ」

言いよどむ彼女に、腰眼が短く命じた。

「腰眼!?」

「足泉は直に見て大ダメージを受けた。正直私も聞きたくないところだが、くじ引きやお前の提案を受けた以上逃げるわけにはいかん・・・」

彼はペンを手に取ると、メモ用のノートを手繰り寄せ、続けた。

「だから、そのままお前の要約を聞かせてくれ」

「腰眼・・・」

「髄柱、お前は無理に付き合う理由は無い」

うろたえた視線を向ける髄柱にも、腰眼は命じる。

「だから、このまま外に出て散歩でもして来い。私が倒れた後はお前に任せる」

「・・・・・・付き合う理由は無い?外に出て散歩でもして来い?」

しばしの沈黙を挟んで、髄柱はくつくつと笑いながら口を開いた。

「笑わせないで下さいよ、腰眼。一体何年あなたと付き合ってると思ってるんですか?

学校で卒業課題をまとめた時も、『月を見る者』が崩壊した時も、先代が死んだ時も・・・いつも僕たちは三人一緒だったじゃないですか」

彼はそう言うと椅子に腰掛けなおし、腰眼と同じようにペンを取り、ノートを手繰り寄せた。

「一人が倒れて一人が死地に臨んでいるってのに、今更逃げ出せるわけ無いじゃないでしょう」

「髄柱・・・」

「さあ、僕の覚悟が緩まないうちに、バアルに命じて下さい」

「・・・分かった」

腰眼と髄柱の目に、ある種の決心が宿るのを、バアル・ゼブブは見た。

「というわけだバアル、安心して続けろ」

「・・・かしこまりました」

主人達の決心を受け、彼女は短く応えた。

















そして数時間後、ボロアパートの一室に三枚の布団が並べられていた。

布団の上には三人の男が寝かされており、苦悶の表情を浮かべていた。

「うぅ・・・首筋・・・背中・・・」

「アイスコーヒー・・・オムツ・・・電車・・・」

「熱湯・・・氷・・・太もも・・・」

バアル・ゼブブは固く絞った濡れタオルを三人の額に乗せながら、短く嘆息した。

(正直、止めときゃよかったな・・・)

あの瞬間は腰眼と髄柱の妙な迫力に押されてしまったが、主人らのことを想えば命令を拒否してでも口述を止めておくべきだった、と今更ながら後悔していた。

「あぁ・・・目・・・耳・・・」

「ローション・・・スポンジ・・・グラインダー・・・」

「ガスタービン・・・ダイナモ・・・エレクトリカル・・・」

うなされながら三人が漏らす言葉に、バアル・ゼブブの脳内でも『自慰指南』の該当項目の内容が自動再生されていく。

そのある種地獄ともいえる内容に、彼女は軽い頭痛を覚えていた。

本当に『自慰指南』を書いたのは人間だろうか?

そんな疑問が胸中に沸き起こる。

「はぁ・・・」

何度目か知れない溜息をつくと、彼女は主人達の顔を見回し、立ち上がった。

主人が三人とも倒れた以上、『自慰指南』のレポートは彼女が書き上げなければならない。

「乳首・・・乳首・・・」

「ゴルフボール・・・ハンドドリル・・・」

「鋏・・・突撃銃・・・」

三人分のうわごとを背景に、彼女は無言で襖を閉ざした。




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