黒薔薇は真夜に咲いて・Prologue




それは、遠い平行世界のお話です。

神様は既にその信仰を失い、悪魔はその存在を御伽噺で語られるだけの存在となった現代。

その時代で出会う、一見して何の変哲もない少年と、退屈に飽いていた妖魔貴族。

彼と彼女の出会いから始まる、遠い世界の物語。

陳腐で愚かしく、それでも尊いといえる…今回はそんな話を語るとしましょう。



―――え? わたくしは誰かって?



今回の話におけるただの語り部です。部屋の片隅を飾る、一輪の華に過ぎない…そんな脇役程度の者でしかありません。

でも、そうですね…敢えてヒントをあげるとするならば、かつて『魔王』と呼ばれていた……とだけ。



それでは、ただの脇役はここで退散するとして、彼らの物語を観察させて頂くとしましょう。



「ん…ぅ……」



朝の日差し、その眩しさにゆっくりと意識が覚醒していく。

うっすらとまぶたを飽け、ボクは目覚まし時計を確認する。――午前6時30分。



(…正直、まだ寝ていたいんだけどなぁ)



内心、溜息を吐きながら、ベッドより体を起こす。

本来の一般家庭なら、ボクのような学生がこの時間帯に起きるのは早起きの部類に入るだろう。

だがボクの場合、必要に駆られて…と言うのが正しい。何故なら―――



「はよはよお兄ちゃん〜〜〜♪ 朝のちゅーと濃厚な蜜月を過ごしに来―――あべし!?」

「即刻失せろこの変態妹っ!!」



ドアを開けるなり人間離れしまくった速度でボクに襲い掛かろうとする変態(バカ)を、傍にあった目覚まし時計を投げ付けて沈黙させる。



―――あ、顔面に当たったけど大丈夫かな?



「―――いたたぁ…いきなり何しやがりますかねお兄ちゃんは。折角愛しの妹が筆下ろしの相手になってやろうと思ってたのにぃ」



そう言いつつ涙目で復帰する謎生物。―――どうやら大したダメージにはならなかったらしい。



「朝っぱらから実の兄に欲情する方が悪いよ。――というか、実妹に迫られたら実際は引くって」

「むぅ、妹萌えって難しいね」

「難しいのは咲菜だって…。いいから訳の分かんない事言ってないで部屋から出てくように。これから着替えるんだから」



そう言うが、咲菜は一向に部屋を出て行こうとしない。それどころか……



「いやいや、わたしは愛しのお兄ちゃんの裸身をじっくりと見せてもらうよん♪ 何つーか…一見女の子っぽい容姿なのに男の子っていうの…まぁ、男の娘って容姿って、実際には中々じっくり見る機会が無くてさー♪」



…ボクの体をマジマジと眺めつつ、ニヤニヤ笑みを浮かべていやがりました。スケベ親父か…咲菜。

――というか、男の娘って言うな。



まぁ、いつもの事なんで対処の手段も無い訳ではない。こういう場合は、咲菜が唯一弱点とする手段を行使すれば良いだけの話である。



「―――咲菜? 先日咲菜が赤点取った国語のテスト、母さんにその内容逐一報告されたい?」

「う……それは勘弁! そんな事をされたらお母さんに消し炭にされちゃうよ〜〜!」



あからさまに嫌な顔をして部屋を退出していく咲菜。この家で最も強い母親のことを話題に上げただけでこの有様…まぁ、正直うちの母親が心身ともに化け物じみた人だって事は認めるけど。



「――ハァ」



妹が退出したのを見届けて、心底疲れた溜息を吐く。…なぜ朝っぱらからこんなに疲れなければならないのか、と。



―――綾瀬 咲菜。

このボク、綾瀬 錬の1つ下の実の妹であり、ボクの現在の悩みの種の中でトップクラスに位置する変態。

実兄好きを公言し、毎朝毎夜隙あらばボクの貞操を狙い襲い掛かってくる実に困った生命体。

腰まで伸びたツインテールの茶髪にくりくりとした瞳、元気で活発が暴走しているようなお気楽極楽能天気娘。ちなみに胸はあまり無い。

朝から晩まで絶えずトラブルを引き起こし続けるトラブルメーカーである事と、前述の『ボクの事が好き』とか言う戯言さえ何とかなれば、本当に可愛い妹なのに―――と思うと残念でならないが、今はそのような事はどうでもいい。



「これからも暫くは、こんな事が続くんだろうなぁ…」



そう溜息を吐きつつ、ボクはパジャマを脱ぎ、制服に着替える。そして、傍に立て掛けた鏡を見て…溜息が漏れる。

姿に写る自分の姿。線が細く、華奢で、女と間違えられても仕方ないんじゃないかと思われるその容姿。

正直ボクにとってその姿は、コンプレックス以外の何者でもない。



(――これだから、男の娘呼ばわりされるんだよなぁ)



自分ではどうにもならない事を嘆きつつ、朝食の為にボクは部屋を出た。



「あら、おはよう。錬」



そう言って食卓で出迎えてくれたのは、黒髪を後ろで三つ編みに束ねた、たおやかな微笑を湛える女性。

美人…といえばそうなのだろう。事実、ボクは彼女より美人だと思える人には出会ったことはない。…ボクの友人(男)は、ボクの事を羨ましいとか言っていたが…かといってボクは、目の前の女性に特別な思いを抱く事は無い。当然だ。何せ、彼女――綾瀬 瑠希はボクと咲菜の母親なのだから。

―――そもそも、僕を含めずともこの近所一帯に母さんに手を出そうとする命知らずなど父さん位しかいない。何せ裏の業界じゃ有名なチート魔王――「錬? 何か言いたい事でもあるのかしら?」――思考に割り込まないで下さい母さん。

食事の用意は出来ていたらしく、母さんは既に席についている。



「おはよ。…あれ、父さんと咲菜は?」

「お父さんは先に仕事に出たわ。咲菜は―――」



母さんはニッコリとした笑みで窓の外を指差す。ボクは嫌な予感に駆られながら外を覗き……



「えっと……犬神家?」



窓から覗いた先。そこには何故か…少女の下半身のみが庭の地面から生えていると言うシュールな光景があった。

恐らく母さんの事だから、咲菜をわざわざ埋めたのではなく、直接叩き付けてめり込ませたのだろう。

それで割と無事っぽい咲菜も割と怪物な気がするけど…まぁ、あまり深く考えないようにしとこう。



「えっと、アレ…は?」

「テストの点数が悪いからってそれを隠すような悪い子には、当然の罰でしょう?」

「いや…ちょっと幾ら何でもアレはやり過ぎかと。(…というか、さっきの会話筒抜けだったのか…)」

「どうせ5分もあれば脱出してくるでしょうし大丈夫よ。先にご飯にしましょう♪」

「…いいのかなぁ」



窓の外の犬神家状態な咲菜を気にしつつも、席に座ってご飯を食べる事にする。



…この家ではこの程度の事は日常茶飯事だし、あまり深く考える方が負けだ。







「行ってきます」

「イッてきまーす♪」



40分後、あっさり復活してシャワー、着替え、朝食を終わらせた咲菜と共に家を出る。

外は快晴。時間帯故か小学生や中学生が多く通るその道を、ボク達は自分達が通う学園に向かって歩いていく。



「いやー、今回ばかりは流石に危なかったね♪ 窒息って苦しいんだって事、再認識したわ♪」

「…少しは反省しようよ。咲菜」



反省の欠片も見受けられない咲菜に、再び溜息が漏れる。―――今日で何回目の溜息だっけ?



「反省したらあたしじゃないジャン♪」

「頼むから言い切らないで。猛省してよ…」



言っても無駄とは分かってはいるが、どうしても言いたくなってしまう。まぁ、多分死に掛けるような事があってもまず反省しないのが咲菜なのだろうけど。



「馬鹿と何とかは死んでも治らない、か」

「うわ、お兄ちゃん酷い事言ってる!?」



言わせてるのは誰だ。…というか咲菜の前だと妙に黒くなるな…ボク。

そんな事を思いつつも、自分自身、この状況を何処か楽しんでいるのも事実。



(平穏…と言うのとは違うけど、こういうのも掛け替えのない日常なのかな)



そう思うと若干笑みが零れる。確かに疲れはするけど、こういう毎日は悪くない…そう思える。



「ん? 何笑ってるのお兄ちゃん」

「いや、別に? それより今日は休み時間に襲撃かけてこないでよ。クラスの人達に咲菜を紹介してほしいとか言われて大変なんだから。本当は逆なのにブラコン扱いされるし……」

「へっへー、それはあたしの気分次第かなー♪ つーかお兄ちゃんブラコンじゃん。何だかんだであたしに構ってくれるし」

「断じて違う…というか咲菜が絡んでくるから無視出来ないだけだって」





そんな会話も、何時もの事。全て、何も変わらない―――







突如、ガラスが砕けるような…そんな音が一帯に響いた。







―――だから、ここから何かが変わるとは、ボクは思っても見なかったんだ。







「――え?」



その音と共に…いつの間にか自分を中心として、地面に浮かび上がっていた文様―――まるでファンタジーに出て来るような魔法陣が、ガラスが砕けるように散って消えていく光景が眼に映っていた。



「な、何? 今の…?」





光の粒子を撒き散らして消えていくそれ。夜間ならば幻想的に映るであろうそれも、朝の光に照らされて消えていくそれは、酷く呆気なく、儚い印象を受けた。



「…えっと、気のせい…だったのかな?」



寧ろ、そう思うほうが正しいだろう。現実味の無い今の出来事。突然魔法陣が目の前に現れ、消えて行くなど、現実として信じられる訳が無い。



「…どったの? お兄ちゃん」



そんなボクを不審に思ったのか、咲菜がボクの瞳を覗き込んでくる。



「ねぇ、咲菜……今、何か聞こえなかった? ガラスが砕けるような音とか…」

「ん〜ん? 特には何も…そんな音、『聞こえてない』よ?」



…それじゃあ、今のは本当に気のせいだった…のか?

でも、咲菜の物言いも微妙に引っかかる。何というか…嘘を吐いているような?



「…そっか。まぁ、気のせいならそれでいいや」



だからと言って、問いただしても正直に答えるとは思えない。



「そーそ♪ あ、今日から学食で大魔王ランチなるものが出るらしいよ? 値段は超ド級の一食50,000円だとか」

「何その正規のモノから外れたネーミングセンスと値段? …と言うか余程の変わり者じゃないとわざわざそんな値段出して食わないと思う。そんなの」



だから、ボクも敢えて深くは突っ込まない事にし、少しだけ空を眺めながら学園へと歩き出す。





―――誰かの視線。ボクに向けられた見えないソレを、何となく感じていた。









――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





「――驚いたわ」

「ええ。正直、予想外でした」



そこは豪奢でありながらも、華美に走り過ぎぬ装飾で彩られた城の中…その玉座の間。

二人の女性が、宙に浮かぶ水晶を眺めながらそう呟いていた。

片方は玉座に座り、ドレスを身に纏う少女。もう一人はヴィクトリアンスタイルのメイド服に身を包んだ女性。

その二人は、水晶に映し出されていた少年少女の今の様子に、困惑と驚きを覚えていた。



「魔導トラップを完全に無効化する程の抗魔力…いえ、違うわね。どちらかと言えばアレは――」

「――神秘、秘蹟、魔に属す力を強制的に無力化する類の特殊能力…でしょうか」



少女…否、この城の主たるサキュバス、女王七淫魔の一人であるマルガレーテ=ノイエンドルフの言葉を続けるように、メイド…エミリアは推測を口にする。

先程少年に対して起動し、逆に潰された術式。通常なら、魔導トラップが完全に起動した状態で潰される事などあり得ない。

否、厳密に言えばあり得ない訳ではないが、トラップを仕掛けた術者に匹敵する魔力と、魔術知識を要する。どう見ても一般人にしか見えない少年が咄嗟に出来る所業ではなく、本来トラップそのものが成功していれば、少年はそのままこのノイエンドルフ城へと連れ去られていた筈なのだ。



「ただの一般人、と思っていたのだけれど。それにあの少年の隣にいる…妹かしら? あの少女からは、私に匹敵する魔力を感じるわ」

「…古代の神族、或いは上位魔族の血脈でしょうか。それならば、あの二人から感じる凄まじい力にも納得が行くのですが」

「さぁ? かといって……」



クスリと微笑んで、マルガレーテは少年を眺める。



「少女の方はどうでも良いけれど、少年の方はこのまま他の者に渡すのも癪ね。アレほど上質な精を持つ人間は、この城は愚か、世界中どこを探してもまず存在しない。千年先を待ったとしても現れるかどうか分からない…あの安穏とした環境で、今まで喰われなかった事の方が奇跡といって良い程の者を」



…水晶に映る少年を、嗜虐の瞳で見つめるマルガレーテ。

それは、その少年を絶対に自分の物とする宣言をしたと同義。

そんなマルガレーテに対し、エミリアは――



「ですが、彼を魔術で呼び寄せる事は出来ません。配下の者を使って拉致させるにしても、彼の力が私達の推測通りのものなら、こちらに連れてくるのは極めて難しい……」



そう。少年の力がそもそも奇跡や魔術による歪みを強制的に正すものであるなら、少年自身をこの城へ連れてくる事自体が不可能に近い。

否、出来なくは無いが、その場合は人間界に於ける対魔の勢力…サキュバス達を初めとした淫魔にとって天敵の勢力に補足される可能性が高い。そうなっては彼を連れ去るために遣わした配下が討たれると言う事態もあり得る。そうなっては、後々に様々な面で面倒な事になりかねない。

そのエミリアの懸念に対し、マルガレーテは――



「だからこそ、面白いんじゃないかしら」



そう言って笑った。無邪気に、そして妖艶に。





マルガレーテは飽いていた。その生に。今の生活に。

彼女は持て余すその退屈を紛らわすため、ありとあらゆる趣味、趣向に手を出してきた。

読書、乗馬、映画鑑賞、音楽鑑賞、楽器演奏、その他色々…それらは今まで彼女の心を満たし、そしてその退屈を紛らわしてきた。

されど、それらも時と共に何時しか彼女にとって退屈へと変わる。

驚きや躍動の無い生は死んでいるのと同じ。

彼女が人間を嫐り、弄ぶのは、サキュバスとしての性質もあっただろうがそれ以上に…そうしなければ死んでいるのと同じだったからだろう。

様々な趣向を凝らし、ありとあらゆる器具を使い、人間の男たちを嫐り、犯し、快楽を以って壊す。

そうしてマルガレーテは己の心の無聊を慰めてきた。



―――だが、それもまた何時かは飽きが来る。



今はまだいい。まだ楽しめる余裕も趣向もある。だが、それも何時かは無くなってしまうもの。

時を経ればかつて楽しいと思えたものも、何時かはただの作業、雑事へと成り下がってしまう。

そうなってしまえば…もし楽しみや驚きを見出せるものが無くなったとしたら、何時かマルガレーテ=ノイエンドルフは死んだも同然のモノへと成り下がるだろう。

だから―――



「―――本当に、驚かせてくれるわね。あの少年」

「? 如何なさいました?」



エミリアの疑問には答えず、虚空に浮かぶ水晶玉を眺めたままのマルガレーテ。

水晶に映る先…少年を映すその水晶越し。少年はマルガレーテを見ていた。

否、厳密には向こうからは姿は見えてはいないだろう。実際は一方的な遠見にしか過ぎないのだから。

しかし、その少年の瞳は確かにマルガレーテを捉えていた。



―――水晶越しに交錯する、視線。



そして、マルガレーテの心は決まった。



「――エミリア」

「はい」

「久々に外に出るわ。護衛は任せたわよ」











―――そして始まる、一つの物語。

   それがどのような結末を迎えるかは…今はまだ誰も知らない。




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