ヒトニザメ 二




船が風と潮の流れによってのみ動いていた時代、インド洋は狂気の海とも呼ばれていた。

船の旅というものは常に危険と隣りあわせだ。

うねる海面、不意の強風、夜闇にまぎれて接近する他の船・・・

あげれば注意すべき点は山のようにある。

しかし、インド洋は風も波も、穏やかな海である。

そのため船乗りたちは、しばしの間張り詰めた緊張から解放される。

だが稀に、その緊張からの開放に耐えられず、狂気に身を委ねる者がいる。

ある者は甲板から海へと身を躍らせ、ある者は寝具を解いて綯った縄で首を括り、ある者は船室の壁でもって己の額を打ち砕いた。

それは実に稀な例である。

しかし、人の心に残り、口から口へと伝えるには十分な例である。

それゆえに、インド洋は狂気の海とも呼ばれていた。



『ヒトニザメ 二』



不意に目が覚めた。

青年はしばしの間、毛布に包まったまま耳を澄ました。

かすかに聞こえる波の音、船体を通してわずかに響くエンジンの稼動音。

それ以外には何も聞こえない。



「・・・便所か・・・」



下腹部に感じるかすかな圧迫感に、彼は自らが目覚めた理由を把握した。

音を立てぬよう、簡易寝台から起き上がり、床に立った。

と、そのとき彼は向かいの寝台がもぬけの殻になっていることに気が付いた。

向かいの寝台の主は、今日は見張りではなかったはずだ。

おそらく彼もまた便所だろう。



(そういえば・・・)



ふと彼の心中に、数ヶ月前に知り合いから聞いたうわさが浮かび上がった。



(インド洋を航行してると、船員の一人が行方不明になるって・・・)



浮かび上がった不安感に、彼は毛布とマットレスの間に手を差し入れていた。

冷たい。



「くそっ!」



彼は短く声を上げ、当てられた船室を飛び出した。

この狭い貨物船の中非番の船員が、毛布の中が冷たくなるまで外に出るような用事はない。

だとすれば考えられるのは、『インド洋の狂気』に侵されてしまって・・・



(いや、そんなことはない!)



悪いほうへ向かいつつある思考を強引に中断し、これからの行動を考える。



(まず船長に報告して、非番の連中で探して・・・)



急いでいた彼の足が、思考とともに停止した。

彼が立ち止まったのは船長室の前。

夜間は閉じられているはずの扉は開け放たれ、横倒しにされた家具たちと、主のいない空虚な空間をさらしていた。







波の音とエンジン音。

船を操る当番船員たちの声は聞こえず、見回りをする船員の足音も耳に届かない。

波の音とエンジン音。

聞こえるのはただそれだけ。



「・・・」



彼は船倉にあった鉄パイプを握り締め、操舵室に立っていた。

地磁気測定誘導型の、自動航行装置は問題なく作動している。

しかし人の姿は無く、割れた窓と、固定されていた床板ごとひっくり返った椅子が、ここで起こった何事かを伝えようとしていた。



「・・・」



窓から飛び込む波のしぶきが、青年の顔を濡らす。

しかし彼の顔は、海水の温度とは別のものによって青くなっていた。

操舵室の床に残された、いくつものへこみ。

例えて言うなら、窓を突き破って飛び込んできた巨大な魚が、散々に跳ね回って出来たような凹みだった。

極力、なるべく音を立てぬよう、彼はすり足で後ろに引いていった。

扉の隙間から室外へと抜け出て、扉を閉める。



「・・・はぁー」



操舵室から出られたという安堵感が彼に息をつかせ、自分以外の船員の行方が知れないという事実が不安と恐怖をもたらした。



(隠れなきゃ・・・)



ついさっきまで寝ていた自分の船室を思うが、ひしゃげた船長室の扉が浮かび上がり、彼はかぶりをふった。



(もっと安全なところは・・・)



だとすれば残るのは船倉だ。

あそこならば鍵もかかるし、窓もない。

水と食い物もあるから、目的地に着くまで隠れていればいい。

ただ、ここから行くのならば、一度甲板に出なければならないが。



「行ってやる・・・」



手の中のパイプを握りなおし、ゆっくり、ゆっくりと進む。

いつもの何倍もの時間をかけて廊下を進み、曲がり角に来るたび何度も先を確認する。

そして、彼は一つの扉の前にたどり着いた。

ここを出れば、船倉まで、安全地帯まで数メートルだ。

意を決し、掴んだレバーを一息にひねった。

重いドアが開き、潮風が彼の頬をなでる。

左右に目を走らせ、異常がないか確かめる。

右には転落防止の柵、左には防水布をかけられた何か。



「よし・・・」



小さくつぶやいて、一歩踏み出す。



「・・・け・・・」

「!?」



彼の耳朶を、小さな声が打つ。

彼はとっさに、左の防水布に駆け寄り、それをめくった。

防水布の下から、髪が長く、色の白い女性が顔を覗かせた。



「よかった・・・人だ・・・!」



誰だ?という疑問よりも、自分以外の何者かがいたという安心感が、彼に歓声を上げさせた。



「さ、隠れるぞ」



彼は防水布の下から覗く、女の手をとりながら声をかけた。

しかし彼女は立ち上がろうともせず、防水布の下に転がっているばかりだ。



「どうした、早くしないと襲われる・・・」

「いいえ、あたしは大丈夫・・・」



不意に、彼の手を掴む指に力がこもる。



「危険なのは・・・あなた」



防水布が突如として吹き飛び、その下にあるものの姿を現した。

甲板の上で、防水布をかぶって転がっていたのは鮫。

体長数メートルはあろうかという大鮫。

そしてその広げられた口から、女の一糸まとわぬ上半身が露出していた。

尾びれが甲板を強く打ち、反動で鮫の体が前に進む。

女は腕を広げ、彼の体を抱え込み、鮫の口の中へと引き込んでいった。

鮫の鼻先が転落防止の柵を突き破り、そのまま海へと落下していった。









柔らかくて、温かい。

両脇に差し込まれた腕も、

胸に当てられた二つの固まりも、

彼自身を包み込む粘膜も、

全てが柔らかく、温かだった。



『ようこそ、あたしの中へ・・・』



どこからとも無く声が届く。



『あなたで最後みたいね・・・

ほかの人はすぐに食べちゃったけど、あなたは楽しんであげる・・・』



言葉に合わせるように、幾本もの手が彼の体をまさぐる。

そして、彼が身につけていたシャツに、ズボンに、下着に指をかけていく。



(何だ、これは・・・!?)



完全に光を遮断された闇の中、彼の体は二本の腕に抱えられ、衣服を脱がされまいと、無駄にもがく以外できることはなかった。



『ちょっと、大人しくしていてくださいね』

(!?)



不意に唇を、柔らかい楕円状のものがふさぐ。

それの横一文字に入った亀裂から、液体にまみれた軟体動物を思わせる何かが、彼の口中へ分け入って生きた。

口の中に、異様なまでの甘さが広がる。



(舌・・・?)



挿し込まれたものの正体に思い当たる。

しかし彼の脳内に甘い靄がかかり、意識が少しだけ遠のく。



『うふふ、そうやって大人しくしていてくださいね』



彼に掛けられた無数の手に力がこもり、衣服を引き摺り下ろし、あるいは引き裂いた。



『あら、もうこんなに・・・』



暗闇の中、彼女には見えるのか、あらわになった彼のペニスに言葉を漏らす。

彼のペニスは、温かな彼女の体内と、注ぎ込まれた唾液の効果によって痛いほどに勃起していた。



『それじゃあ、まず一回』



彼のペニスに、彼女の体内から伸びた手が添えられ、やさしく掴む。



ちゅぷ・・・



手はすでに、粘液のようなものに包まれていた。

そしてペニスを前後に扱き始めた。



ちゅぷ・・・ぶちゅ・・・



「・・・!・・・!!」



彼は、口をふさがれたまま声にならぬうめきを上げ、与えられる快感に腰をくねらせた。



『ほら、暴れないでください』



彼の腰を新たに伸びた手が押さえ、動きを封じる。

その間にも、粘液にまみれた手は彼のペニスを淡々と扱きあげていた。



ちゅぷ・・・ぶちゅ・・・ちゅぷ・・・ぶちゅ・・・



「ん・・・!んん・・・!」



ちゅぷ・・・ぶちゅ・・・ちゅぷ・・・ぶちゅ・・・



『ふふ、そんなにいいんですか?』



単調な上下運動だが、粘液の感触と、緩急つけられる握力が彼を確実に追い詰めていく。

そして―



ぶびゅっ ぶびゅぶびゅぶびゅ・・・



ペニスが大きく脈打ち、精液を鈴口から噴き出した。



『あらあら、こんなに出して・・・』



若干動きが遅くなった手に、尿道に残った精液を搾り出させながら彼女が言う。



『そんなにあたしの手がよかったんですか?』



しかし彼の口はなおもふさがれたままで、無論彼女の問いに答えることは出来なかった。



『それじゃあ、もっとすごいことしてあげますよ』



不意に、彼の体を押さえ込む手が離れた。

彼を包む粘膜が蠕動し、彼の姿勢をちょうど幼児が小便をさせられているときのような姿勢に変えた。

抵抗しようと試みるが、射精の余韻と脳内の靄が、彼から力を奪っていた。



『じゃあ、足からいきますよ』



べちょり



足の裏を、柔らかな何かが撫でていった。

例えるならば、舌。

ただし、足よりも幅があり、表面が複雑に蠢いていたが。



『次は・・・』



ぶぢゅ、ぶぢゅぢゅぢゅぶぶ・・・



「んん!」



すねからふくらはぎを通り、膝裏、太もも、尻を撫で、背中へと通り抜けていく。

舌が触れた部分が、ぞくぞくするようなくすぐったさを訴える。

舌は数度、背中に円を描く様にした後、離れた。



『ふふ、どうですか・・・?』



口を覆う何かが取り除かれ、女の声が問いかける。

彼は口で荒く息をつくばかりであったが、硬直した全身と、ペニスの様子を見れば答えは明らかだった。



『それじゃあ、再開しますね』



べちょり



粘着質な音とともに、舌が再び体に当てられた。

背中と、両脚に一つずつ。



「え・・・?」



ぶぢゅ、ぢゅぶぶぶぶぶぶ



「あぁーっ!?」



いっせいに舌が動き出し、彼は声をあげた。

舌先が足の裏を、指の股をくすぐり、すねを膝を撫で上げる。

もう一方の舌が足に巻きつき、包み込み、その表面をうねらせてふくらはぎを、太ももを揉みたてる。

背中に当てられた舌は、尾てい骨から背骨に沿って背筋を這い登り、鎖骨と首筋をくすぐっていく。



「ひぃぁぁああああーっ!」



くすぐったさとともに与えられる快感に、彼は背をのけぞらせて叫び声を上げた。

耳の奥で血液が流れる音が響き、ペニスは加速する心拍にあわせて脈動している。



『うふふ大きな声・・・そんなに気持ちいいんですか・・・?』

「あぁっ!ぅあぁっ!」



静かな彼女の問いかけに、叫び声で応える彼。

確かに舌の愛撫は気持ちいいものであったが、彼のペニスは放置されていた。

全身を舐められ、極限まで押し上げられた今の彼は、ほんの一扱き、いや、亀頭に触れられるだけでも射精しかねなかった。



『ほらほら、あーだのうーだのじゃ分かりませんよ?』



両足を、胴を包むように舌が巻きつき、その表面を波打たせる。



「ぃぎひぃぃぃいいいいっ!!」



柔らかく、温かな肉に包まれ、揉みあげられる感触に、歯を食い縛りつつも声を上げる。

しかしペニスは、三本の舌のいずれとも触れず、ただ鈴口から透明な粘液を垂らしながら、心拍にあわせてはねるばかりであった。



「こんなに脈打たせて・・・」



不意に彼女の声が明瞭なものになり、彼の頬に手が当てられた。

ごうごうと血流が鳴り響く頭で、彼は彼女がすぐそこにいることを悟った。



「精液、出したいですか?」



問いかけに、体が揺れるほどの勢いで頭を振る。



「暗いから何も見えませんよ?さぁ、声に出して」



舌がきゅっと体を締め上げ、そのまま表面が波打つ。



「ぁがぁぁああああああっ!!」



快感に声を上げながらのけぞり、散り散りになっていく意識を強引にかき集める。

そして、彼は声を上げた。



「出ざぜでぐだざい!いっばいだざぜでぇっ!」

「はい、よく言えましたね」



顔の上の辺りから響いた声が、腰の上、ペニスの上辺りから響く。



「遠慮せず、たくさん出しなさい」



亀頭から、根元付近までが柔らかいものに包まれる。

亀頭を撫でていったつるりとした粘膜、裏筋をくすぐっていくぶよぶよと柔らかい肉、そして根元付近に触れる硬い何か。

口だ、と認識する前に、背骨から何かが駆け上ってきた。

そして、精液が鈴口から吹き出る。

睾丸から尿道を突き進み、鈴口を広げ、精液が吹き出る。

心臓の脈動に合わせ、強弱をつけながら精液が吹き出る。

開放感に意識が散っていき、脈打つペニス以外の感覚が消失していく。

射精はたっぷり、一分以上続いた。

ペニスを咥える唇がすぼまり、裏筋を圧迫しながら尿道に残った精液を搾り出していく。

そして鈴口を吸い、舌先で軽くくすぐってから、ようやく唇は離れていった。



「ふふ、一杯出ましたね。おぼれるかと思っちゃいましたよ」



かすかに笑みを含んだ声が、脱力しきった彼の耳に届く。



「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」



全てが遠い。

耳に届く彼女の声も、胴や足を包み込んでいる舌の感触も、未だ硬さを保っているペニスの感触さえも、

全てが遠い。



「本当はもう少し楽しみたいんですけど、もう時間がありませんね」



いずこからか届いた声が、脳に響く。



「それでは、いただきます」



体を包む肉の表面から粘液が滲み出し―









皮膚、筋肉、脂肪、内臓、腱、骨格、体毛。

それらを全て溶解した消化液から、体内の保護粘膜を通して栄養分が血管に吸収されていく。

たった一つの袋からなる消化器内には何も残っていなかったが、彼女は満腹感を感じていた。

何ヶ月も何も食わずとも生きていけるよう、鮫は食えるときに食いだめをする。

しかし、流石に今日だけで十数人というのは多すぎたかもしれない。



(いや、まだ・・・)



十数人分の精により、少しだけ増加した己の魔力を感じながら、彼女は考える。



(まだ足りない・・・もっと・・・もっと・・・)



尾びれを一打ちし、海中深く、今のねぐらへと潜行していく。

もっと強くならねば。

もっと人を喰わねば。

月が、やってくる。

深海に繋ぎ止められた、月が。








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