押しかけ娘と破壊王 第一話 始まりは唐突に
都内にある、有名なドーム。平時は様々なイベントで使用されるその場所には今、熱狂と興奮が渦巻いていた。その中央には大きなリングがどんと鎮座しており、傍にはマイクを持った男が一人立っている。
「えー……レディース、エーンド、ジェントルメーン! お待たせしました! これより第23回全日本格闘王無差別級決定戦、その決勝戦を開始します!」
わあっ、と観客席から嵐のような歓声が上がる。皆、これから起こる事態を胸をドキドキさせて待ち望んでいた。
「まずは……去年、破竹の勢いで並み居る優勝候補達をなぎ倒し、見事優勝の座を勝ち取った男――武道の名門、帝強大学の破壊王……長船ぇぇぇぇ、甲斐ぃぃぃぃぃっ!」
アナウンスと共に、一人の男が姿を現した。途端に会場全体にコールが響き渡る。そんな中、男は悠然とリングに向かって進んでいた。
男――甲斐長船は、実に個性的な青年だった。まず、何よりも人目を引くのはその姿だろう。190を超えているその肉体には、藍色の胴着――『一撃必倒』の四文字が背の辺りに染め抜かれている――の上からでもわかる筋肉の鎧が搭載されていた。顔立ちは武道家にありがちな無骨なものではなく、まるで映画俳優のような爽やかさすら感じさせる。だが顔に浮かべた不敵な笑みは、彼が奥に秘めし鋭さを十ニ分に表していた。
「続いては……前回は苦渋の涙を流したあの男が、完全復活して帰ってきた! もう一人の最強の男、その名はっ――北九州、高藤大学の帝王……京悟ぉぉぉぉ、村崎ぃぃぃぃぃっ!」
続いて、長船が現れたのと反対側から一人の男が現れる。こちらは飾り気のない白の胴着に、長船よりもさらに5センチほど大きいその肉体を包んでいた。顔付きはいかにも武道家といった感じでいかめしく、口元はむっつりへの字を描いている。長船を猫科の猛獣に例えるなら、こちらはまさしく大きな熊そのもののようだった。
「知っている方もおられると思いますが、この二人の直接対決は初めてです! 第20回、21回と栄光の座に輝きながらも、前大会は膝の怪我が原因で無念にも出場できなかった村崎選手。そして村崎選手不在で荒れる事が予想されていた前大会に、流星のように現れて栄冠を勝ち取った甲斐選手。果たしてどちらが強いのかっ!? 村崎選手が再び覇者の座を取り戻すか、あるいは甲斐選手が村崎選手を退け、連覇を成し遂げるのかっ!?」
「フレー、フレー、む、ら、ざ、き!」
「甲斐、そんな奴叩き潰しちまえ!」
「京悟、絶対勝てよぉ!」
「長船さん、負けないでください!」
そんな風にそれぞれの応援の声が響き渡る中、一人の少女が観客席をうろついていた。
「えっと、Dの22、Dの22……あったぁ! よかったぁ、間に合って」
どうやら自分の座席を探していたらしい彼女は、安堵の笑みを浮かべて席に座り込んだ。
透き通るように青い髪が印象的なその少女は、リングの上にいる片方――甲斐長船へと熱い視線を注いでいる。
「頑張ってね、長船君……」
ぎゅっと組んだ手を握り締め、彼女は祈るようにそう口にした。
「……やれやれ、すごい歓声だな。次から耳栓でも持ってくるとしよう」
「……随分と呑気だな。少しは緊張したらどうだ?」
轟音のような応援の渦中、二人は対峙していた。片方は不敵な笑みを顔に浮かべ、もう片方は険しい顔で相手を睨みつけている。
「生憎、能天気なのは生まれつきでね。胸を借りるつもりで……叩き潰させてもらうぜ!」
「フン、言ってくれる……こちらこそ全力で行かせてもらうぞ、甲斐とやら」
リングの上で、火花を飛ばす二人。いつしか会場の歓声は消えていた。静寂が、周囲を満たす。
「えっ、えー……これより、試合を開始します! 両者、中央へ! それでは……始めぇっ!」
かぁん、という音が会場全体に響き渡る。試合の幕は今、切って落とされた!
「ひゅぅぅぅぅっ……かあああああああああああっ!」
先に動いたのは、村崎の方だった。大きく息を吸い込み、獣の咆哮とすら思える程凄まじい声を発する。息吹と呼ばれる呼吸法。常人なら気圧されるあまり尻餅でも着いてしまいそうな重圧を前に、長船は野性的な笑みを浮かべていた。
「この勝負、思いっきり楽しませてもらうぜ! ふぅぅぅぅぅ……しゃあああああああああああっ!」
長船も、大きく息を吸い込んだ。そして先程村崎が発した声にも負けぬほど、いや、下手をすればそれを上回るのではないかと思えるほど大きな声を上げる。
「ほう、中々やるようだな……来るがいい、甲斐!」
「言われなくても!」
全身のバネをしならせ、凄まじい速度で村崎へと突撃する長船。それを迎え撃とうとする村崎。両者の姿は、さながら重戦車と要塞のようだった。
「……しゃああああっ!」
「……おおおおおっ!」
最初の一撃は、長船の正拳突きだった。顔面を狙ったその一撃を、村崎は内側から左の手刀で払いのけた。そして反撃とばかりに右の拳を長船の脇腹目掛けて放つ。長船はそれを左の肘で打ち落とし、すかさず前蹴りを放った。村崎は後ろに跳んでこれを回避する。
お互い重量級の選手であるにも関わらず、二人の動きは凄まじく早かった。軽量級の選手でも、この二人を超える動きができるものはほとんどいないだろう。
「……しぃぃぃっ!」
「ぬぅ……かあああっ!」
距離を取った村崎に飛び掛り、空中で二段蹴りを放つ長船。村崎はフェイントの一発目を見切り、冷静に二発目の蹴りを受け止める。そして長船が着地する瞬間に、鋭い回し蹴りを放った。これを避けられないとみた長船は、自分から横に跳んで蹴りの衝撃を逃がす。
「……せいっ!」
「くっ……はあっ!」
逃さんとばかりに距離を詰め、村崎は左手を伸ばして長船の襟元を掴んだ。そしてそのまま長船の体を引き寄せ、右の拳を叩き込もうとする。長船は素早く襟元を掴んだ手を下から打ち上げて外し、もう片方の手で迫り来る一撃を外側へ払った。そしてそのままの体勢で体当たりを決行し、村崎の体を跳ね飛ばす。
「うらぁぁぁっ!」
「ぐっ……むんっ!」
体勢を整えようとしていた村崎に、長船は連撃を叩き込む。村崎はその全てを受け止め、体勢を整えた所で反撃とばかりに拳を突き出した。破壊力を秘めたその拳を、長船はぎりぎりで見切ってかわし、そのままタックルに行こうとする。だがそうはさせぬと、村崎は膝蹴りを放った。とっさにタックルを中止してこれを受け止める長船。だが勢いを押さえきれず、長船の体は大きく後ろへ弾き飛ばされた。長船はその勢いを利用して後転し、距離を取る。村崎はそれを追う事はせず、その場で構えていた。
「……ちっ、来なかったか。来たら腕をへし折ってやるつもりだったんだが」
「ふん。貴様が腕を極めに行こうとしていた事ぐらい、お見通しだ」
「流石だな。それぐらい強いなら、俺も本気でやれそうだ」
長船の言葉に、村崎が顔を険しくする。
「本気で、だと? 今までは本気ではなかったとでもいうつもりか?」
「へっ。あっという間に決着がついたんじゃ、つまらないだろ?」
「舐めた事を……その台詞、後悔させてやる!」
怒りを露に、村崎は長船へと襲い掛かろうとする。だがそれより一瞬早く、長船は村崎の懐にもぐりこんでいた。
「なっ……!」
「……はああっ!」
両手を村崎の胸元に当て、一気に突き飛ばす長船。とっさに上体を崩され、村崎の足が止まる。
「しゃあああああああああっ!」
「ぬっ、ぬうっ!?」
すかさず、怒涛の連撃が村崎に襲い掛かった。その一撃一撃は、先程放たれたものよりもはるかに鋭く、そして重い。ガードを続ける村崎の額には、いつしか大粒の汗が浮かんでいた。
「……ぜぇぇい!」
「くっ……がはっ!」
必死に防御を続けていた村崎の腕を、長船が放ったアッパー気味の一撃が強引にこじ開ける。そして空いた脇腹目掛け、左の一撃が滑り込んだ。痛烈な一撃を受け、前のめりに倒れようとする村崎。そこへ長船は追撃とばかりに膝蹴りを放つが、村崎はかろうじて踏みとどまり、これをかわした。そして長船の足下目掛けて足払いを放つ。長船は上へ跳び、足下への一撃をかわすと同時に蹴りを放った。これを受け止め、村崎は一旦距離を取る。
「ぐっ……おのれ、貴様!」
「流石だねぇ、今ので倒れないなんて……それじゃ、今から本気で行くぜ!」
(何だと!? くっ……やられてなるものか!)
防御を固め、長船の攻撃を受け止めようとする村崎。それに構わず、長船は攻撃を仕掛けた。
「……しぃぃゃあああああああああっ!」
「ぐっ、ぐぐっ……!」
単純な力押しの連撃。だがその一撃一撃は恐ろしく速く、受けている腕が砕けそうな程力強い物だ。それゆえ、これを打ち破るのは難しい。体格で勝っているはずの村崎は、次第に追い込まれていった。
(こっ、こんな攻撃がいつまでも続くはずがない! 攻撃の手が鈍った瞬間、一気に叩き潰す!)
幾度も攻撃を受け、痺れる腕で防御を続けながら、長船が疲れるのを待つ村崎。だが長船の攻撃は、止まらない。
「しゃっ……うらぁぁっ!」
「ぐうっ……!?」
頭部を狙うと見せかけて変化した長船の蹴りが、先程一撃を受けた脇腹へと向かう。とっさに村崎はこれを防ごうとするが、その瞬間ガードが下がってしまった。その隙を逃さず、長船は村崎の顎目掛けて右の掌底を打ち込む。村崎はとっさに歯を噛み締め、その一撃を堪えた。だがそこへ、逆方向から長船の肘が迫る。
(……そうは、いくか!)
その間に腕を割り込ませ、攻撃を防ごうとする村崎。だが長船の肘はガードしていた腕を巻き込み、そのまま村崎の顎を打ち抜いていた。通常ならそれだけで、意識を失うに値する十分な一撃。しかし村崎の意識はまだ残っていた。彼の鍛え上げられた肉体と、王者としてのプライドがダウンを許さなかったのだ。
(こ、ここはひとまず体勢を立て直さねば……!)
今にも崩れそうな膝に力を込め、距離を取ろうとする村崎。そこへ長船は容赦なく上段の回し蹴りを放つ。何とかこれを受け止めた村崎だったが、その瞬間長船の右手が村崎の奥襟を掴んでいた。そしてすかさず背負い投げに移行する。今の村崎には、それを堪えるだけの力は残っていなかった。
「……せやぁっ!」
「……ぐはっ!?」
なす術もなく投げられ、地面に叩きつけられる村崎。それでも何とかして立ち上がろうとした村崎の眼前に、長船の拳が突きつけられる。
「……まだやるかい?」
下段突きの体勢のまま、そう問いかける長船。それに対し村崎は……。
「いや……俺の、負けだ……」
自らの敗北を認め、その場に崩れ落ちた。
「はぅぅ……長船君、凄かったなぁ……」
興奮冷めやらぬといった面持ちのまま、彼女は会場からの帰り道をてくてくと歩いていた。そこへいかにも最近の若者といった感じの男達が近づき、彼女へ声をかける。
「よぉ、そこのカノジョ。俺達と一緒にカラオケでも行かねえ?」
「あ、いえ。その……私、急いでますからっ!」
わたわたと慌てながら、その場から立ち去ろうとする少女。だが男達は少女の前方に立ちふさがり、逃げられないように少女を取り囲みはじめる。
「いーじゃん、そんなに急がなくたってさぁ……俺たちと遊ぼうぜぇ」
「まあ、最終的に行く場所は決まってるんだけどなっ。キヒヒヒッ!」
「おいおい、今からエキサイトしててどうするんだよ。お楽しみは最後だぜ」
「そうそう、ジュンの言う通りだぜ。それじゃ、行こうか」
「やっ……はっ、放して!」
腕を掴み、強引に少女を連れて行こうとする男達。少女も抵抗するが、如何せんこの人数相手にはどうしようもない。
「だっ、誰か助け……んむぅっ!?」
「ったく、騒ぐなっての!」
助けを呼ぼうと開けた口の中に丸めたハンカチを詰め込まれ、その上からガムテープでふたをされてしまう。
「さっさと行こうぜ、あんまりもたもたしてると人が来ちまう」
「むっ、むぐっ……」
男たちは近くに停めてあったバイクに彼女を乗せ、そのままそこから走り去ろうとした。だがその瞬間、バイクを動かそうとしていた男の体が突然宙へと持ち上がる。
「……へっ?」
間の抜けた声を上げる男達。次の瞬間、宙に吊り上げられていた男の体は思い切り地面に叩きつけられていた。蛙のつぶれたような声を上げて、男はあっさりと気を失う。
「なっ、何だてめ……おっ、長船さんっ!?」
(……えっ!?)
見ると、バイクの正面に甲斐長船が立っていた。驚く男達を前に長船は呆然としていた少女をバイクの上から下ろし、口を塞ぐガムテープをはがしてやる。
「あー……念の為に聞いておきたいんだが、あいつらに襲われてたんだよな?」
長船の問いかけに、少女は首を縦にこくこくと振る。
「そうか、ならいいんだ。いや、前に襲われてた女の人を助けた事があるんだが、実はそれAVの撮影だったらしくてな。それ以来一応確認しておくことにしてるんだ」
そう言って少女に微笑むと、長船はこっそりと逃げ出そうとしていた男達に向き直った。
「さて、キミタチ。何か言い残す事はあるかな?」
「あっ、あの……ボクタチ、そろそろお家に帰って勉強しようと思いますです、ハイ」
「そうか……とりあえず、朝まで寝てろ」
にこやかな笑みを浮かべたままそう言うと、長船は瞬時に男の一人に肉薄し、腹に強烈な一撃を叩き込んだ。男は白目を剥いて悶絶し、地面に転がる。
「確か、前に言ってたよなお前等。もう悪さはしないって」
「ひっ、ひいいいいっ!?」
「……逃がすかっ!」
あわててバイクにまたがり、その場から逃げ出そうとする男達。だが男達がバイクを動かそうとするよりも早く、長船は行動を開始していた。先ほどノックアウトした男の体をむんずと掴み上げ、バイクにまたがっていた男達めがけて思いっきり投げつける。
「……うぎゃっ!?」
発進しようとしていたバイクは、もう一台のバイクを巻き込んで横転する。結果、男達は地面に投げ出されることになった。
「……成敗っ!」
そう叫ぶと同時に長船は立ち上がろうとしていた男達に近づき、一秒にも満たぬ間に一人につき一撃ずつ叩き込んだ。鍛え抜かれた体から繰り出される一撃を受け、男達はあっさりと意識を手放……せなかった。
「ぐ、ぐべろっ……」
「ごっ、ごぎがっ……」
皆一様に地面の上でのた打ち回り、悶絶している。長船の絶妙な手加減の賜物だった。
「さて、こいつらは……おっ、ちょうどいい所にゴミ捨て場が」
近くの路地裏にゴミ袋が置いてある場所を見つけた長船は、倒れていた男の一人を持ち上げると無造作にゴミ置き場めがけて放り投げた。男の体は見事な放物線を描き、ゴミ袋の上に着地する。
「あっ、そーれ! 一つ積んでは俺の為〜、二つ積んでは人の為〜、三つ積んでは親の為……ん? 何か間違ってる気が……まあいいか」
鼻歌交じりに、男達を次々とゴミ置き場に投げ込んでいく長船。最後に二台のバイクもまとめて投げ込むと、長船はぱんぱんと手を払い、少女に向き直った(路地裏から断末魔の声が聞こえたような気もするが、それはまた別の機会に語るとしよう)。
「えっと、大丈夫だったか?」
「あ、うん。ありがとう、長船君」
「ん? 何で君、俺の名前知って……ひょっとして、君俺のファンとか?」
なんちゃって、と続け、ぺろりと舌を出す長船。
「えっ? あの……ひょっとして、気づいてないの?」
「へっ? 気づいてないって何が……」
「あっ、見つけたぞみんな! こっちだこっち!」
突然、大通りの方からカメラを持った男達が現れた。それを見た長船の表情が固まる。
「やばっ……!」
「ど、どうしたの?」
「いや……実は少し前に、インタビューから逃げ出してきた所なんだ。あいつら、あまりにもしつこかったんでね……」
ため息をつきながら、長船は近くに転がっていた荷物袋を引っ掴んだ。
「そうそう、さっきの事は内緒にしておいてくれよ。格闘大会の優勝者が街中でケンカなんて、週刊誌の格好のネタにされるからな。それじゃっ!」
「あっ、長船君……!」
そう言うと、長船は慌ててその場から駆け出していった。その後を、カメラマン達が追いかける。
「○×新聞です! 長船君、インタビューをお願いします!」
「長船君、今回の試合について是非感想を!」
「今、付き合っている人はいないんですか!?」
「好きな色は何ですか? 情熱の赤ですか、それとも他の色?」
「だああああっ! お前ら、しつこいにも程があるだろ! つーか後半、明らかに今日の試合と関係ないし!」
「お願いします、是非!」
「サインだけでも!」
よく見ると、長船を追っている者達の中にはファンらしき者も結構混じっていた。追われている長船は気づいていないようだったが。
「……くそっ、こうなったら全力で振り切ってやる!」
そう言うと、長船は走るペースを上げ始めた。次第に集団との距離が開き始める。
「くっ、このままでは……」
「先輩! 自転車借りてきました!」
「でかした! よし、追うぞ!」
「くそっ、あいつらに負けるな! 誰か足探してこい!」
「先輩、こっちにリヤカーがありました!」
「よし、これで……って、アホかお前は!」
「はっはっは、○×新聞の諸君!」
「お、お前たちは△●新聞の……ばっ、バイクだとぉ!? 一体どこで調達したんだ!?」
「誰が商売敵に教えるものか。君たちはせいぜい汗水たらして、地道に追いかけるといい」
「くっそぉ〜、馬鹿にしやがって……だったら、箱根駅伝で入賞した事もある俺の脚を見せてやらぁ!」
「なっ、何ぃ!? バイクよりも早いだとっ!?」
「へっ、どうだお前達! 所詮機械に頼るお前達の力など、その程度……うぎゃっ!?」
「はっはっは、自分の靴紐を踏んで転ぶとは……つくづく運に見放されているようだな!」
「ぐっ……あっ、脚がもう動かねぇ……」
「先輩、大丈夫ですか!?」
「田中か……よく聞け、俺はもう駄目だ」
「何を言ってるんです先輩!? 雨が降ろうと風が吹こうと、スクープを追い続けるのが先輩の信念じゃなかったんですか!?」
「馬鹿野郎! お前、俺なんかに構ってる場合か!」
「で、でも先輩を放ってなんて……」
「いいからお前はあの男を追うんだ……」
「し、しかし……」
「約束……したんだろ? 友達と、よ」
「っ!? ど、どうして先輩がそのことを!」
「悪い……お前の日記、読んじまった……」
「そ、それじゃあ……僕があの人の息子だって事も……」
「ああ、知ってる。でも、だからどうしたっていうんだ? お前は、お前じゃないか」
「先輩……」
「……さあ、早く行け。今ならまだ、間に合うはずだ……」
「……わかりました、僕やってみます! うおおおおおおおっ!」
「そうだ、それでいい……行け、どこまでも……っ!」
とまあ、そんな感じのドラマが繰り広げられる中、一人周囲から取り残されていた少女は。
「……まあいっか。どうせ後で会えるんだし」
速やかにその場を後にした……。
「……ふぅ、やっと撒いたか」
周囲を確認すると、俺はほっと一息ついた。
「流石に家に行けば、あの連中もいないだろ……あそこには、正宗兄貴もいることだし」
ある意味、自分よりはるかに恐ろしい人物の一人である長兄の事を思い浮かべ、思わず苦笑する。
「前なんか、手が滑ったとか言ってカメラ全部棒手裏剣投げつけて壊してたからなぁ……死人がでてなきゃいいけど」
そんなことを考えながら、周囲に注意を払って自宅へと向かう。しばらく歩いた後、ようやく俺は自分の家にたどり着いた。
「……よし、誰もいないみたいだな」
地面に何かの破片らしき物が落ちているが、気にしないでおくことにする。血の匂いはしないし、大丈夫だろう……多分。
「たっだいま〜!」
「あっ、長船兄。今日の試合、どうだった?」
「どうだったって……テレビで見てなかったのか?」
「あー……今日は、虎徹がいたからね」
「そっか、あいつ一応受験生だもんな……まああいつなら、放っておいても心配ないと思うけど」
玄関で俺を待ち受けていたのは、弟の一人吉光だった。こいつは家の兄弟の中では珍しく小柄で、どちらかというと可愛い系に分類されるタイプだ。本人は背の事を気にしているので、可愛いだの小さいだのと言われるのを極端に嫌っているが。
ちなみに虎徹というのは末の弟で、現在俺と吉光が通っている大学を目指して猛勉強中なのだ。弟の勉強の邪魔をしてはいけないと、吉光は判断したのだろう。
「で、どうだったの?」
「もちろん、俺が優勝したに決まってるだろ……ほれ」
そう言って、鞄の中に仕舞っていた賞状を取り出して目の前に示す。
「おお〜、流石は長船兄。伊達に毎日鍛えちゃいないね」
「はは、褒めても何も出ないぞ」
「ちぇっ、残念」
そんな風におどけながら靴を脱いで上に上がろうとした時、俺はある物に気付いた。靴置き場に並べられた靴の中に、女物の靴が一足あったのだ。家の兄弟は全員男ばかりで、母親は虎徹を生んだ時に他界している。誰か客でも来ているのだろうか?
「なあ、吉光。今日誰かお客さんでも来てるのか?」
「えっ? 少し前に、青い髪の女の子が来てたけど……それがどうかした?」
「いや、ちょっと気になってな……青い髪、ねえ……」
ふと、俺は帰る途中で会った女の子の事を思い出した。確か、あの少女も青い髪の持ち主だったな。まさか、あの子が?
(……流石に、それはないか)
例えあの子が熱心なファンだったとしても、家に押しかけて上がり込んだりまではすまい。もしそうしていたとしても、正宗兄貴なら確実に追い払うだろうからな。
(……まあ、面白がって家に入れる可能性がないとも限らないけどな。最近兄貴、親父に性格が似てきた気がするし)
本人が聞いてたら斬られそうな事を考えつつ、俺は吉光とその場で別れて自分の部屋に向かう。その途中で、正宗兄貴に出くわした。兄貴はいつもよく着ている作務衣に身を包んでいる。あまり改まった客が来ているというわけではないようだ。
「あっ、兄貴。ただいま」
「長船か、ちょうどよかった。吉光と虎徹も連れて、客間まで来てくれ」
「客間って……何かあったのか? 虎徹まで呼ぶなんて……」
客間って事は、多分来客と関係がある事なんだろうけど……わざわざ受験生の虎徹にまで声をかける必要があるような事なのか?
「一応、話しておかないとまずい事もあるのでな……」
「……わかった。二人を呼んでくる」
まあ、後で説明を聞けばわかるだろう。そう考えた俺は、吉光と虎徹を連れてくるべく二人の部屋に向かった。
「正宗兄がわざわざ俺達を呼ぶなんて……何かあったのかな?」
「……むぅ〜、一体何なの? せっかく勉強がはかどってた所だったのに」
不満そうにぶつくさ言いながら、歩く虎徹。吉光はというと、俺達二人から少し離れて付いて来ていた。何でも、俺達と並ぶと自分の背の低さが目立つから嫌らしい。まあ俺はともかく、今じゃ弟の虎徹にまで背で抜かされてるからな。気持ちはわからないでもない。
「文句なら、正宗兄貴に言ってくれ。つーか、本当に勉強してたんだろうな?」
「むっ、長船兄さんにだけはそういう事言われたくないなぁ。受験の時ほとんど勉強してなくて、ぎりぎり補欠で受かったくせに」
ぐっ! こいつ、痛いところを……。
「はっはっは、弟よ。そんな細かい事、どうでもいいじゃないか。補欠だろうがなんだろうが、受かれば勝ちだ。悔しかったら、さっさと合格したまえ」
「うわー、すっごく嫌味だね!」
「はっはっはっは、そんなに褒められると照れるなぁ」
「どこをどう取り違えたら褒めてるように聞こえるのかなぁ? おかしいのは耳? それとも頭?」
むっ……こいつ、最近生意気になってきたな。ここは一つ、兄としての立場を示しておくか。
「……中々いい度胸だな、虎徹」
笑顔で微笑みながら、ポキポキと拳を鳴らしてみせる。いい加減にしとけという、俺なりのサインだ。だが、虎徹はこれを無視して見せた。
「褒めてくれてありがとう、兄さん」
「はっはっはっは! 今のは皮肉に決まってるじゃないか、馬鹿だなあ虎徹は!」
「気付いて言ってるに決まってるじゃない、馬鹿だなあ兄さんは」
「はっはっはっはっは!」
「ふふふふふ……」
「あー……二人とも、早く行かないと正宗兄に怒られるぞ〜」
とまあ、そんな感じに不穏な空気を漂わせながら、俺達三人は客間へと向かった。客間に着いた後、俺は軽くドアをノックする。
「二人とも、連れてきたぞ」
「ああ、入ってくれ」
言われるままに、ドアを開けて中へ入る。中にいたのは正宗ともう一人――帰り道で会った、あの青い髪の少女だった。
「き、君はさっき……」
「あっ……長船君だぁ!」
さっき会った、と俺が続けるよりも早く、少女は俺に向かって飛びついてきた。とっさに俺は彼女の体を受け止める。後ろで虎徹が口笛を吹いていたのが聞こえた。虎徹、後で覚えてろよ。
「お、おい! 急に何を……」
「ふふ、本物の長船君だぁ……」
満足そうに微笑を浮かべながら、俺の胸元に顔を擦り付ける少女。い、一体何なんだ?
「あー……青栖さん、長船から離れてはもらえないか? 気持ちはわからないでもないが、このままでは話が続けられそうにない」
「えっ……はわわっ!? わ、私ってば人前で何て事を……!」
顔を赤くし、慌てて離れる少女。
「えっと……正宗兄さん、この人誰なの?」
「ああ、紹介しよう。この人は青栖来夢(あおす らいむ)さんだ。今日からここに住む事になった」
…………えっ?
「なあ、兄貴……俺の聞き間違えじゃなきゃ、その人がここに住むって言ったように聞こえたんだが」
「そのまさかだ。とりあえず、仲良くしてやってくれ」
「…………えええええええええええっ!?」
思わず、驚きの声を上げる俺。吉光と虎徹も、目を丸くしていた。
「住むって……何で!?」
「あー……話すのは面倒だ。これを見ろ」
そう言うと、正宗兄貴は俺に一通の手紙を手渡した。差出人の名前を見てみる。そこには――甲斐正明(かい まさあき)、と書いてあった。
「なっ……親父からの手紙だと!?」
「ええっ!?」
「い、一体どんな事が……」
恐る恐る手紙をひっくり返し、裏に書かれている内容に目を通す。
「えっと……なになに……」
『やあ、我が愛しき息子A、C、D、Eよ。今にも死にそうかね?
今日は君達に大事なようで大事じゃない、と見せかけてやっぱり大事なお知らせがあるんだ。是非最後まで見ないで、いや見てくれたまえ。
実は私の知り合いに青栖という者がいるんだが……そこの娘さんが今年、帝強大学に落ち……もとい、入ることになったんだ。
彼女の親は仕事があるので、そちらで一人暮らししていたんだが……このご時世、女の子の一人暮らしなんて危険だろう?
そこで、うちの家に下宿してもらうことになったんだ。彼女にとっても、その方が都合がいいだろうしね。
この手紙を彼女に持たせて行かせるから、是非生温かく受け入れてやってくれ。あっ、生温かくと言っても罵声や暴力は駄目だぞ?
なお、この手紙は読後真空パックにて保存するように。ではでは、会いたくないだろうがまた会おう〜!』
「……相変わらずだな、あの親父は」
「できれば、少しぐらいマシになってて欲しかった……」
「愛しき息子をアルファベットで識別って……」
思わずげんなりとなる俺達。何なんだ、この突っ込みどころ満載な文章は。
「……まあ、そういう事だ。仲良くしてやってくれ」
「今年入学って事は……俺と同級生になるのか? てっきりもっと下かと……あ、ごめん」
「いえ、気にしないでください。よく歳より下に見られる事が多いんです」
「そうなんだ……何となくわかる気がするな、俺も実年齢より下に見られる事が多いし」
……まあ、どっちも大学生には見えないしな。吉光なんて下手したら、小学生でも通りそうだ。
「長船兄……何か今、失礼な事考えてなかったか?」
「気のせいだ、吉光。それはそうと兄貴……女の子が男連中と一つ屋根の下で暮らすってのは、問題があるんじゃないのか?」
吉光の追及をさらりとかわし、正宗兄貴に尋ねる。
「その事なら心配ないだろう。うちの兄弟は一癖も二癖もある連中ばかりだが、嫌がる女を無理矢理襲うような恥知らずはおらんと信じているからな」
「まあ、それはそうだが……」
「それに万一の事があれば、そいつの首を切り落す覚悟もある」
……今さらっと物騒な事言いやがったな、オイ。
「それはさておき、まずは自己紹介といこう。私は甲斐正宗、ここの長男だ。弟たちの事で何かあったら、遠慮なく相談して欲しい」
「あっ、青栖来夢ですっ! 私の事は来夢って呼んでくださって結構です。これからしばらくの間お世話になると思うので、どうかよろしくお願いします!」
「えーと……甲斐吉光です。今年来夢さんと同じ帝強大学に入学しました。キャンパスで会う機会もあると思うので、その時はよろしくお願いします」
「甲斐虎徹です。受験生なので何かと迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「俺もか? えっと……俺は甲斐長船。今年で帝京大学の二年になる。こちらこそよろしく」
まあ、挨拶はこんなものか。
「そういや、来夢さんの部屋とかはどうするんだ?」
「青栖さんには、村正が使っていた部屋を使ってもらうことになっている。くれぐれも、勝手に入ったりする事のないように」
ちなみに村正というのは、俺のもう一人の兄貴だ。今は家を出て一人暮らししているため、兄貴の部屋は半ば空き部屋になっていたのだが……。
「あそこ、物置代わりに使ってたからな……後で、私物だけ取りに行っても構わないかな?」
「あっ、はい! 遠慮なんかせずに、是非取りに来てください!」
「あ、ああ……」
何か、すごく嬉しそうだな。やっぱり、彼女は俺のファンなのか?
「えっと、来夢さん。一応聞いておきたいんだけど……」
「はっ、はい! 何でしょうか、長船さん?」
「いや、そんなに緊張しなくても……来夢さんって、俺のファンなの?」
俺の問いに対し、来夢さんはショックを受けたような表情を浮かべる。
「あ、あの……長船さん、私の事全く覚えてないんですか?」
「へっ? 覚えてないって……来夢さんとは今日会ったばかりじゃなかったっけ? 確か、帰り道で……」
「そんなのじゃないです! ずっと前の話だから、覚えてないのも無理はないかもしれませんけど……」
そう言うと、来夢さんは落ち込んだ表情を見せた。ずっと前の話って……一体どういう事だ?
「……どういう事だ、長船?」
「俺が聞きたいよ、そんな事……なあ、俺と君の間に一体何があったって言うんだ?」
「ううっ……悲劇です、不幸です、理不尽です! 神様、あなたはどうしてそんなにも意地悪なんですか! 酷い、あんまりです!」
……駄目だ、話が通じそうにない。しばらく放っておくか……そう俺が考え始めた矢先だった。彼女がとんでもない事を口にしたのは。
「私は離れてる間もずっと長船君の事ばかり考えていたのに……肝心の長船君が結婚の約束を忘れてるなんて!」
「ほうほう、結婚の約束……何ぃぃぃぃぃっ!?」
思わず俺は大声で叫んでいた。他の兄弟達も、その言葉に反応して俺に詰め寄る。
「結婚の約束だと? それは本当なのか、長船」
「結婚って……本当なの兄さん!?」
「長船兄、一体どういう事だよ!?」
「お、俺に聞かれても……そうだ来夢さん、それっていつの話なんだ? 良かったら聞かせてくれないか」
話を聞けば、その内思い出せるかもしれない。結婚の約束とやらを、俺がどういう状況でしたのかも気になるしな。
「わかりました。あれは忘れもしない、八年前の事……」
当時、まだ小学生だった私はこの町に住んでいました。
学校では私、虐められっ子で……よくからかわれたり、物を投げつけられたりしてました。
そんなある日、いつものように虐められていた私を長船君が助けてくれたんです。
「お前等、集団で弱い者虐めなんて恥ずかしくないのか!」
そう言って、いじめっ子達を追い払ってくれたんです。
その後、長船君は泣いてる私にこう言ってくれたんです。
「……お前、友達いないのか? だったら、俺が友達になってやるよ!」って。
「……そう言われてみれば、そんな事もあったようななかったような」
「ふむ……まあ、続きを聞くとしよう。結婚の約束とやらも気になるしな」
「えっと……それでですね、一年近くの間私たちは仲良く一緒に遊んだりしていたんです」
「なあ、来夢。今日は何して遊ぶんだ?」
「うーん……それじゃ、かくれんぼ!」
「よし、それじゃ……じゃんけんぽん!」
私が出したのはチョキ。長船君はパーでした。
「ちぇっ、俺が鬼か。それじゃ、十数える間に隠れろよ。いーち、にーい……」
「わわっ、数えるの早いよ〜!」
「さーん、しーい……」
私の抗議も聞かず、両手で目を塞いでカウントを始める長船君。慌てて私は近くにあった茂みに身を隠しました。
「きゅーう、じゅーう……もういいかーい?」
「もっ、もういいよ〜!」
「よし、それじゃ探すぞー!」
そう言うと、長船君は私を探し始めました。私は茂みの中から、それをじっと見守っていましたが……そんな私の視線に気が付きでもしたのか、長船君は私の方へ振り向くと、すぐに駆け寄ってきました。
「そこだっ! 来夢みーつけた!」
「えっ、ええっ!? 何でわかったの!?」
「へへっ、内緒だよ。今度は来夢が鬼だぞ」
「むむっ! 今回は絶対見つけてやるんだからっ!」
当時の私は、どんな場所に隠れても長船君に見つけられていました。逆に私が探す時は、長船君が自分から出てきてくれるまで見つける事ができずにいて……いつか絶対長船君を見つけてやるんだって、張り切ってました。
「い〜ち、に〜い、さ〜ん、し〜い……」
「今日はどこに隠れるかな……よし、あそこにしよう!」
「ご〜お、ろ〜く、し〜ち、は〜ち、きゅ〜う……じゅ〜う! もういいか〜い?」
「もういいよー!」
カウントを終えた私は、辺りを探しました。けどどれだけ探しても、長船君の姿は見つかりませんでした。必死に探し続けたけど、見つける事ができなくて……とうとう私、泣き出しちゃったんです。
「うわ〜ん! 長船君、どこなの〜?」
「ったく……ここだよ、ここ!」
「ふえっ……わっ!?」
突然、上から長船君の声が聞こえてきました。長船君は、樹の上に隠れていたんです。
「長船君、そんな所に隠れてたんだ……」
「下ばかり見てたんじゃ、気付けない事もあるんだぜ。来夢もまだまだだな」
「もう……いつもそんな意地悪ばっかり言うんだから……」
そう言いながらも、私は少しだけ嬉しかったんです。だって、長船君は泣いてる私のためにわざわざ出てきてくれたんですから。
「はは、ごめんごめん」
「あっ……」
長船君は手を伸ばして、私の頭を撫でてくれました。長船君の手は少しざらざらしていたけど、温かくて……多分この頃には、長船君の事を好きになってたんだと思います。
「……何か、いい話だね」
「それ、本当に長船兄さんの事? 別の誰かと間違えたりしてない?」
「虎徹、それは俺に喧嘩を売ってるのか?」
「騒ぐな二人とも……それはそうと、結婚の約束とやらの話はまだなのか?」
「あっ、もうすぐです。それからしばらく経った後……両親が私を連れて、引っ越す事になったんです」
「……引越し?」
両親からその事を聞いた私は、愕然としました。だって引っ越すって事は、長船君とも離れ離れになってしまうって事ですから。
「いや! そんなの絶対いや!」
「わがまま言わないで、来夢。母さん達も好きでこの町を離れるわけじゃないの……」
「でも……それじゃ、長船君と離れ離れになっちゃう!」
「仕方ないんだ、来夢。父さん達にも色々事情はある」
散々駄々をこねた私ですが、結局両親の決定を覆す事はできませんでした。後で聞いた話によると本当は夜逃げのようなものだったとの事でしたから、仕方ないといえば仕方なかったんでしょうけどね。
「出発は今日の夜よ。それまでに、友達とのお別れを済ませておきなさい」
そう言われて私が向かったのは、いつも長船君と遊んでいる空き地でした。いつものようにそこに長船君がいる事を祈りながら、私は息を切らせてそこへ辿り着いたんですが……そこには長船君の姿はありませんでした。
「えっ……そんな……」
愕然とした私は、思わず地面にへたり込んでいました。せめてお別れだけでもしたかったのに、それすら叶わないのか……そんな風に思いかけていた時。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……悪い、待ったか来夢?」
「おっ……長船君!」
そこにいたのは、白い胴着に身を包んだ長船君でした。ここまで全速力で走ってきたのか、かなり息が荒いようでした。
「よかった……今日はもう来てくれないのかと思っちゃった……」
「ちょっと色々あって……それより来夢、俺お前に言っておかなきゃいけない事があるんだ。実は俺……しばらくお前に会えなくなりそうなんだ」
「えっ?」
長船君から聞いた話によると、何でも長船君のお父さんが長船君に本格的な修行を受けさせる事にしたらしいのです。それで、今後はあまり一緒に遊んでやれそうにないとのことでした。
「……とにかく、そういうわけなんだ、ごめんな来夢……来夢?」
「うっ……ぐすん、ひっく……」
「泣くなよ来夢。修行は一年くらいで終わるらしいから、それまでの辛抱だって! そりゃあ、寂しいのはわかるけど……」
「違うの……もう、会えないの……うわああああん!」
「会えないって……どういう事なんだ?」
私は、泣きながら話しました。今日の晩、この町を離れなければいけないことを。長船君は私の頭を撫でながら、黙って私の話を聞いていました。
「そうだったのか……」
「ごめん……ごめんねぇ、長船君……」
「泣くなって! お前が悪いわけじゃないんだからさ……その、元気出せよ」
「うん……でも……」
「あのさ……別にもう二度と会えないってわけじゃないんだから! いつか大きくなったら、またこの町に戻ってくればいいだろ」
「この町に……戻ってくる?」
「ああ……俺はこの町で、お前が帰ってくるのを待っててやる。だからもう泣くなよ?」
当時の私には、そんな簡単な事も思いつかなくて……私とたった一つしか歳が変わらないのに、そんな発想ができる長船君は何てすごいんだろうと思いました。
「そっか、帰ってくればいいんだ……。でも長船君、約束忘れたりしない……よね?」
「忘れないって! 不安だったら忘れないように指きりでもしとくか?」
「うん、するする! ゆ〜びき〜りげ〜んま〜ん、う〜そつ〜いた〜らは〜りせ〜んぼ〜んの〜ますっ! ゆ〜び切った!」
お互い小指を絡めてした約束。その後指を離そうとした私ですが、ふとある事を思いつきました。
「あっ……あの、長船君! もう一つ、お願いがあるんだけど……」
「ん、何だ? 言ってみろよ」
「その……帰ってきた時に、私を長船君のお嫁さんにして欲しい……ってのは、駄目かな?」
「来夢が、俺のお嫁さんにねぇ……って、何ぃぃぃぃぃっ!?」
大きな声を上げて驚く長船君。
「あっ……やっぱり、駄目かな……?」
「えっ? いや、その、何というか……あっ、別に来夢の事が嫌だってわけじゃないぞ! ただ、いきなりそんな事言われたんで驚いたっていうか……って、うわっ!?」
「長船君……嬉しいっ!」
思わず涙目になった私を見て、慌ててそう口にする長船君。そんな長船君の言葉が嬉しくて、思わず私は抱きついていました。
「ちょ、ちょっと待てって!」
「どうして? 私の事、嫌じゃないんだよね?」
「そ、それはそうだけど……そ、そうだ! 条件が一つある!」
顔を赤くしながら、長船君はそんな事を言い出しました。多分、照れくさかったんでしょうね。
「条件?」
「そ、そう。条件だ。それをちゃんと満たしてたら、その……来夢と結婚してもいいぞ」
「本当!? その条件って何?」
「え、えっとだな……よし! この町に戻ってきた時に、来夢が今よりもずっと美人になってる事だ! どうだ、ちゃんと守れるか!?」
「今よりも美人に……うん、わかった。私、頑張るね! 長船君が結婚したいって言ってくれるぐらい、美人になって帰ってくるから!」
「あ、ああ。それじゃ……えっと、指きりするか?」
「うんっ! ゆ〜びき〜りげ〜んま〜ん、う〜そつ〜いた〜らは〜りせ〜んぼ〜んの〜ますっ! ゆ〜び切った!」
結婚の事を約束した後、私は別れの時が来るまで長船君と色んな事を話しました。最近こんなものが流行ってるとか、こんなものが好きだとか……そんなたわいもない話ばかりでしたが。
そうこうするうちに、だんだん日が暮れてきました。
「……もうこんな時間か。そろそろ、戻らないと」
「うん……あっ、あの! 長船君!」
「……今度はどうしたんだ? まだ何かお願いしたい事でもあるのか?」
「うん、その……長船君って、キスってした事ある?」
「ききき、キスぅっ!? ななな、何言ってるんだよ! あるわけないだろ、そんなの! そう言う来夢はしたことあるのかよ?」
「わっ、私だってないよ!」
長船君は顔を真っ赤にして、そう答えました。お互い真っ赤になり、しばらくの間言葉一つ口に出すことができませんでした。でも、私は勇気を振り絞ってこう言ったんです。
「じゃっ、じゃあその……私と、キスしてくれないかなっ!?」
「えっ、ええええええっ!?」
驚き、目を白黒させる長船君。
「キスって、その……お、俺なんかでいいのか? その……ほら、ファーストキスって大事なものなんだろ?」
「だっ、大事だからこそ、長船君としたいの! ファーストキスだけじゃなく、次も、その次も!」
「来夢……」
「それとも……私なんかが相手じゃ、嫌なの……?」
「いっ、嫌なわけないだろ! で、でもその……きょっ、今日は一回だけだぞ!?」
「うん……二回目から先は、今度会った時のために取っておくね」
私は目を閉じ、長船君のキスを待ちました。長船君はしばらくの間ためらっていましたが……やがてゆっくりと顔を近づけ、キスしてくれました。
唇と唇を重ねるだけのキス。でも、私……すっごく嬉しかったです。
「……マジで?」
「はい、マジです。本気と書いてマジです」
「全然、記憶に残ってない……そんな事があったら、絶対覚えてそうなのに」
必死に記憶の奥を探ってみるが、それらしい記憶は見つからない。出会った当初の事や、一緒に遊んだりした事などはわずかながら思い出せたが……最後の日の事だけは、全く思い出せなかった。
「何でだ? 他の事はうっすらと思い出してきたけど、最後の日だけ全然思い出せない……」
「ふむ……そうだ、もしかしたらあれが原因かもしれんな」
「ん? あれって何だよ、兄貴」
正宗兄貴の言ったあれという言葉に、思わず俺は聞き返した。
「長船。お前……親父殿とやった修行の事を覚えているか?」
「……ほとんど覚えてない、つーかむしろ全部忘れたい。思い出したくもないし」
これは冗談でもなんでもなく、俺は本当に覚えていないのだ。多分あまりに過酷な体験だったため、脳が無意識に記憶に蓋をしているのだろう。
「多分、それが原因だ。親父殿の修行は何と言うか……虐待に近かったと言うか、そこらの虐待よりはるかに酷かったからな。前後の記憶が欠落している可能性は十分にある」
「……そういや、修行の後九九が思い出せなくなった事もあったな。幸いすぐに思い出せたけど」
「そ、そんなに酷かったんですか!?」
信じられないといった表情で、来夢さんは驚きの声を上げた。
「まあ、何と言うか……私の時は、修行の仕上げに二メートルくらいある熊と戦わされたりしたからな」
「くっ、熊ですか!?」
「ああ、熊だ。ちなみに獲物は木刀一本だった。当時の私は小学六年生だったというのにな」
「それ、虐待ってレベルをはるかに超えてるんじゃ……それにしてもよく生き残れましたね」
こめかみに汗を垂らしながら、あきれたような表情を浮かべる来夢さん。
「まあ……最後の突きが決まらねば、本気で死んでいただろうな」
「って、倒したんですか!?」
「うむ。写真もあるが、見るか?」
「いえ、いいです……何か、長船君の強さの理由がわかった気がします」
まあ小さいときに猛獣と戦わされた経験があれば、他の相手など大して恐れるような事もないしな。俺には親父の方が、よほど猛獣などより恐ろしかったが。
「そういえば、僕の相手は虎だったっけ。木の棒を尖らせて作った槍を、こうぶすっと刺して倒したんだよね」
「俺の時はライオンが相手だったな。村正兄は確か、山の主っぽい猪と戦ったって言ってたけど」
「……それ、全部倒したんですか?」
「んー、まあね」
「倒せてなかったら、多分この世にいなかったと思う」
多分一般人には信じられない話だと思うが、全部本当の話なのだ。ついでに言えば、全員この荒行を成し遂げたのは小学六年生の時だったりする。
……成し遂げたというより、成し遂げられるように無理矢理鍛えられていたと言った方が正しいのだろうが。
「あ、あはは……お、長船君は何と戦ったんです?」
「俺は……何と戦ったんだっけ? ……駄目だ、思い出せそうにない。素手で戦ったって事だけは覚えてるんだけど……」
親父の事だから、他の兄弟と同じ相手を選んだとは思えない。熊、猪、獅子、虎……後何かあるか?
「長船兄の戦った相手……ゴリラとか?」
「意表を突いて鮫とかじゃない?」
「いや……親父殿の事だ。案外大量の蜂とかかもしれん」
そのどれだったとしても、正面からやり合いたくないな。つーか、いくらなんでも鮫はないだろ。虎徹、お前はそんなに俺が嫌いなのか?
「まあ……済んだ事はどうでもいい。それより、話を戻そう」
「あ、そうですね。えっと、長船さん。その……わ、私と結婚してください!」
「待て待て、いくらなんでも早すぎだろ!」
思わず突っ込みを入れる俺。
「どうしてですか!? ちゃんと約束通り、美人になろうと頑張ってきたのに……はっ! ひょっとして……もう他に好きな人が!?」
「いや、それはいないけど……っておい!」
俺がそう言うと、来夢さんは俺に抱きついてきた。
「よかった……じゃあ安心して結婚できますね!」
「待てって! 俺達、まだ学生だろ? それに、こういうものには順序ってものが……」
「ふふ、長船君と結婚……はわぁ〜」
……駄目だ、全然聞いてくれない。一体どうしたものだろうか?
「……あー、青栖さん。少し聞いておきたい事があるのだが」
そんな俺達を前に、正宗兄貴が口を開いた。
「あっ、お兄さん。何でしょうか?」
「ひょっとしてだが……帝強大学に入ったのは、長船を追いかけてなのか?」
「はい! いつも格闘技の雑誌とかで長船君の事はチェックしてたんですけど、そこで長船君が帝強に入ってるって事を知ったんです。だから一緒の大学に行きたくて、猛勉強して……合格通知が来た時は、本当に嬉しくて……」
「よほど頑張ったのだな、偉いものだ」
そう言うと、そこの卒業生である正宗兄貴は来夢さんの頭を撫でてやった。うちの大学は文武両道をモットーにしており、独特なカリキュラムにより数多くの優秀な人材――格闘技者以外にも、有力な政治家や高名な学者など――を輩出している。そのため入学を希望するものは数多いが、実際に入学できるのはその中の一握りだけ。大概は凄まじく難易度の高い筆記試験で振り落とされる事になる。そのため入学しようと思えば、かなりの学力が要求されるのだ。
「すごいね……誰かさんなんて、補欠でぎりぎり受かったくらいなのに」
「虎徹……お前、よほど死にたいらしいな……」
こいつ、言わなきゃわからない事をわざわざ言いやがって……本気で一度あの世に送ってやろうか。
「えっ? 長船君って補欠合格だったんですか?」
「まあ、そうだ……それはともかく、そういう事なら話は早い。先程青栖さんには手を出さないよう伝えていたが……長船のみ手を出してもよい事にしよう」
……御兄様、貴方は何を仰っているのですか?
「わあっ、ありがとうございます!」
「って、喜んでるし! つーか待て兄貴、いくらなんでもそれはまずいだろ!?」
「安心しろ、無論互いの合意がある事が条件だ……何だったら、青栖さんの方から手を出してやっても構わんぞ」
「焚き付けるなこのクソ兄貴! 俺の意思を無視して話を進めるなっての!」
「は、はい! 私頑張ってやってみます!」
「いやそこ、頑張らなくていいから! 誰かこの二人に何とか言ってやってくれ!」
傍にいた二人の弟に助けを求める視線を送る。そんな俺に対し、虎徹はにこやかに笑いながら口を開いた。
「兄さん……お幸せにね〜!」
「ブチ殺すぞ虎徹!」
こいつは駄目だ……こうなったら頼りになるのは吉光、お前しかいない! そう思った俺は、吉光に視線を向けた。だが吉光は視線をそらし、後ずさりを始める。
「あー……何というか、長船兄も大変そうだね……」
「そう思うなら助けてくれ! つーかさり気無く逃げようとするな吉光!」
……とまあ、こんな感じで。
俺達の家に、新しい住人が一人増えることになった。 (第二話へ続く)
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