序 『妖魔の城』〜『淫魔大戦』
郊外の廃ビル、吸血鬼の住処――
そこへ、『化け物狩り』組織のチーム・イプシロンが踏み込んでいた。
タクティカル・アーマーにフェイスマスク、多彩な武装で身を固めた物々しい四人組。
彼らはまず階下を押さえ、そして上へ上へと敵を追い詰めていく。
たちまちのうちに、最上階の一つ下まで制圧し――そして彼らは、とうとうチェックメイトに入ったのである。
「よし……最もスリリングでエキサイティングな瞬間が近付いてきたぞ。
まあ、敵は低級な妖魔一匹。大した脅威でもないだろうが――」
チーム・イプシロンの隊長――リチャード・エインズワースは言った。
ハンティングの最終局面を前に、彼は昂ぶりを隠せない。
力や速度などの肉体能力が、人間より遙かに高いとされるバケモノ。
それを、技量のみで倒してしまう――これこそが、ハンティングの妙味。
原始的な肉体的優越を、人間的理性で制する――それが、彼の愉悦なのだ。
「へへへ……楽勝ですね」
部下の一人――スコットが、フェイスマスクの下で笑みを浮かべながら頷く。
彼らのやり取りは、全て英語。そして四人とも、明らかに日本人ではなかった。
「……だが、決して油断はするな。これより、最上階へ踏み込むわけだが――」
エインズワースは、部下三人の顔を見回した。
「日本のコトワザには、『窮鼠猫を噛む』ってのがある。追い詰められた雑魚の反撃は、意外に侮れんということだ。
分かったな、お前達――?」
「イエッサー!」
隊長の言葉に、敬礼のポーズを取る三人の部下。
そして彼らは、いよいよ最上階への階段を駆け上ったのだった。
妖魔が追い詰められた最上階――そこへ突入した、四人の特殊部隊。
そう広くない一直線の廊下には客室が連なっており、少なくとも十以上のドアが並んでいた。
おそらくターゲットは、どこかの部屋に潜んでいるはず――全ての部屋を洗うのは、大変な作業だ。
「……ヘイ、ずいぶんと簡単な仕事だな。ただ面倒臭いだけだ」
スコットは鼻歌さえ奏でながら、掌でナイフを弄んでいる。
くるくると掌で回すように、通常の握りから逆手に持ち替え――様々な握りを見せているのだ。
「……油断するな、スコット」
眉をひそめ、エインズワースは苦言を弄していた。
スコットも優秀な隊員ではあるが、敵が格下だと見るや油断が多くなるという欠点を持っている。
ましてナイフの握りのバリエーションを意味もなく開陳するのは、そこらの映画のチンピラがやる不作法。
ナイフの握りはすなわち、ナイフの攻撃パターン。それを見せるのは、手の内が読まれるのに他ならない。
「す、すみません……隊長」
スコットはナイフをホルダーに収め、警戒体勢を取った。
そして彼らは、まず一番近くのドアを開けようとした――その時だった。
「……ん? なんだ……?」
背中を、ぞわぞわと駆け巡る寒気。
不穏な気配でも感じ取ったのか――いや、違う。これは本物の寒気。
周囲の気温が、急激に低下しているのだ。
「お、おかしいぞ……!? なんなんだ、これは――」
部下達も、突然の異変にどよめき始める。
いつしか、階段や床には霜が降りていた。
ぞくぞくと身を震わせるほどの冷気に、四人は息を呑んでしまう。
「我々が追っているのは……低級な妖魔のはずだったな?」
「はい、そのはずです。このような特殊能力など、持っているはずは――」
「……」
窓から見る限り、雪さえ降り始めている有様。
しかもこのビルの周りにだけ、局所的に――だ。
気象操作などという芸当、相当に格の高い妖魔でなければ不可能のはず。
見積もりより強力なバケモノだったのか、それとも仲間が救援に現れたのか――
「油断するな、尋常じゃない雰囲気だぞ……」
「……イエッサー!」
四人は顔を見合わせ、気を引き締める。
その時――
「た、隊長……あれは……!?」
廊下の先――その真ん中に、幽鬼のように立つ影が一つ。
闇のように黒い、不気味な影――
それを捉え、チームはたちまち応戦態勢に入った。
「なんだ、あいつは――?」
その黒い影は、距離があるにも関わらず尋常ではない圧迫感を伝えてくる。
完全な人型――体格は、やや華奢な成年男子のもの。身長も平均レベル。
その顔は良く見えないが、男であることに間違いはない。
彼が身に纏っている陰影のようなものは異様に濃く、視界さえ歪めるほどだ。
その身に、黒いオーラを背負っているようなバケモノ――
このようなものを目にするのは、実戦経験豊富なエインズワースさえ初めてだった。
そして――そいつは、一歩こちらへと足を踏み出したのだ。
「た、隊長――!」
「近付いてきます、ご指示を!!」
一歩一歩、こちらへとスローモーに接近してくる影に銃口を向けながら部下達が叫ぶ。
「よし――撃て! 弾幕を張って近寄らせるな!」
エインズワースがそう叫んだ次の瞬間、部下三人が放つ弾丸の雨が影へと放たれた。
「……」
一歩一歩を踏みしめながら、ゆっくりこちらへと歩み寄っていた影。
その姿が、まるで流水のように滑らかになった。
「な……?」
それを一目見て、エインズワースは息を呑む。
まるで熟練したサムライのような、静から動への足運びの移行。
その一瞬で、部下三人は影の位置を見失ってしまう。
「た、隊長――!」
「落ち着け、上だ! 跳んだんだ!!」
「ぐ……!」
三人は、銃口を上方に向ける。
しかし――エインズワースの指示は、一手遅れていた。
その影はとうに着地し、前衛の二人の至近まで踏み込んでいたのだ。
「え……?」
「うわぁぁぁぁぁ――!!」
その速度に反応できなかった部下達にとっては、いきなり目の前に瞬間移動してきたようにしか見えない。
そして――影は右腕を掲げ、それを大きく薙ぎ払った。
影を中心として、まるで大斧を振り回したかのような斬撃が周りへと襲い掛かる。
「あ……!」
「ぎゃ……!!」
悲鳴さえ最後まで放たれることはなく、前衛二人の体が引き裂かれた。
その破壊力はそれにとどまらず、背後の壁をも風圧だけで破壊していく。
みしりと砕け、崩れ出すコンクリート――それを背景に、二つの血煙がブチ撒けられた。
一人は肩口あたりから、もう一人は胸の辺りを断ち切られ――その上半身が、びちゃりと床に転がる。
少し遅れて、残った下半身も床の上へと倒れ伏した。
血と臓物の臭いが、たちまち周囲へと満ちる――
「な、なんだと……!?」
あまりの威力に、エインズワースは目を疑うのみ。
一瞬、斧のような武器を持っているのかと疑ったが――相手は、間違いなく素手。
一撃で二人もの人間を引き裂いたのは、ただの手刀なのだ。
「……」
瞬時にして二人を引き裂いた影は、残るスコットとエインズワースに視線をやった。
やはり、外見は人間そのもの。
まるで心の闇が具現化したような黒いオーラを除いて、一般男性と変わることはない。
牙も羽もなければ、肉体が変質しているわけでもない――
それなのに、こいつは一体――
「ぐ……! くそっ……!」
スコットはナイフを抜くと、その影に挑み掛かった。
「よせ、スコット!! 距離を取るんだ――!」
そう言いながら飛び退くエインズワースだったが、スコットに忠告を聞く気配はない。
同僚二人が瞬時に殺されたという事態に、平静さを欠いてしまったのだ――
「うぉぉぉぉぉぉ……!!」
そのまま、影に対してナイフを振り抜くスコット。
しかし――
「え……?」
その刃が影へと届くその瞬間、ナイフは彼の手から消え失せていた。
そのナイフは、いつの間にか影の手許にあった――
スコットはもちろんエインズワースにさえ見切れない早業で、奪い取ってしまったのだ。
「……」
影が手にしているナイフ――それは、ぴきぴきと凍結していった。
そして氷細工のように、影の手の中で脆くも崩れ去ってしまう。
「う、おぉぉぉぉ――!!」
そのまま瞬時に腰を落とし、スコットは地面スレスレの回し蹴りを繰り出した。
影の足をすくい、その体勢を崩す一撃――
「……」
みしりと、その足が真上から踏み抜かれる。
「がぁ……!」
スコットの足は砕け、折れ曲がり、足下の床へとめり込んだ。
まるで、1トン以上もの圧力でプレスされたかのように――
「あぐ……ぎゃぁぁぁぁぁぁ……!」
皮膚が裂け、血が滴り、露出した骨が足下の床片に食い込んでいる――
常人なら目を背ける光景を、エインズワースは目を血走らせて見据えていた。
正面から止めたのではない。
孤の軌道を描く回し蹴りを、真上から踏み抜いたのだ。
相手は、生半可な動体視力と反射神経の持ち主ではない――
「あ、あひぃ……ひぁ……」
悶絶しながら、スコットは床へと転がる――
――その頭を、影の踏み出した足がみしりと踏み抜いた。
そう太くもなく、むしろ華奢にも見える足――
それは容易に頭蓋骨を破砕し、まるでスイカを潰したかのような惨状を生み出したのだ。
スコットの頭部は床ごと粉砕され、あっという間に即死してしまった――
「――ッ!!」
その瞬間に、エインズワースは銃の引き金を引いた。
何も今まで、のんびり見ていた訳ではない。
部下を捨て石にしながら、あらゆる生物が最も油断するタイミング――獲物を仕留めた瞬間を狙っていたのだ。
スコットの頭部を踏み潰した影の背へと、無数の銃弾が飛来する――
「……」
その弾丸は全て、狙いから外れて背後の壁へと食い込んでいた。
影は疾風のような身のこなしで、背後から迫った弾丸を見もせずに避けたのである。
「な……! そ、そんな……!!」
エインズワースは血の気の引いた顔で、影にフルオートでの掃射を浴びせ掛けた。
獲物を仕留めた時というのは、どんな生物でも気が緩む瞬間。
そのタイミングでの奇襲に対処できる――それは、人為的な戦闘訓練を受けているという証。
「う、うぉぉぉぉ……!!」
咆吼しながら、エインズワースは前方にアサルトライフルを撃ち続ける。
しかし影は、洗練された動作――まるで武術家のような足運びで銃弾を避けているのだ。
「ば、馬鹿な……! フルオートだぞ!!」
顔を引きつらせ、エインズワースは叫ぶ。
彼はこれまで無数のバケモノを始末してきて、常々思うことがあった。
バケモノの多くは、人間とは比較にならない筋力と敏捷性を持ち合わせている。
しかしそいつらは、その破壊力を大雑把に目の前にぶつけ、その敏捷性で直線的に動くだけ。
人間を遙かに超えた肉体能力を、有効に使えもせずに持て余しているだけなのが実情なのだ。
そんな怪物を、練達した戦闘技能で始末してきたエインズワースは、常々思う――
それだけの肉体能力を持った者が、優れた戦闘技能を身につけたなら――いったい、どれほどの脅威になるだろうか。
「お、お前は――お前は、いったい――」
そんな怪物が今、目の前にいた。
並外れた肉体能力と、磨き抜かれた戦闘技能。
それを両立させた妖魔が、この世に存在したのだ――
フルオートの弾丸を避けきり、とうとうエインズワースの前に立つ影。
「あ、あうぅぅぅぅぅ……」
そいつが眼前に迫り、エインズワースは異様な雰囲気に圧倒される。
凍り付くような殺意と、息も詰まるような気迫。
この世の全てを、真っ黒に塗り込めてしまうような憎悪――
しかもそいつは――なんと、エインズワースの知っている顔だったのだ。
「お前、まさか――!」
エインズワースは目を見開き、驚愕するしかなかった。
こいつは、チーム・アルファの隊長だった男――
「まさか――須藤啓か!?」
「違う――人違いだ」
影は、初めて人間の言葉を口にした。
その右手が、エインズワースの顔面を掴む。
まるでハンガーに吊したシャツを持ち上げるように、エインズワースの屈強な体が軽々と掴み上げられる。
みしみしと、凄まじい握力が彼の顔面を締め付けた。
「バ、バケモノ……」
「それも違う――」
次の瞬間、影――須藤啓の目が見開いた。
空が轟き、激しい落雷がビルを直撃する。
地を揺るがすほどの雷はビルの天井を打ち崩し、そしてエインズワースの体を直撃していた。
須藤啓に吊された彼の体を、何万ボルトもの電流が駆け巡る――
「が――」
口や鼻からしゅうしゅうと煙を漏らしながら、真っ黒な炭屑となって絶命するエインズワース。
「……」
須藤啓は、人の形をした炭屑を床へと無造作に投げ捨てた。
こうしてチーム・イプシロンは全滅し、フロアは静まり返ってしまう。
――いや。
「ふふ……助かったわ」
客室のドアが開き、一人の女吸血鬼が姿を現した。
彼女こそ、チーム・イプシロンの本来のターゲットであり、この廃ビルを拠点にしていた存在。
女吸血鬼は、艶やかな笑みを浮かべながら須藤啓の前に立つ。
「どこの誰だか知らないけど、ありがとう。もう少しで、狩られるところだったわ――お仲間さん」
「違う、仲間じゃない――」
須藤啓は、すっと吸血鬼に右手を差し出した。
「あら、なぁに……?」
握手でもしようというのか――?
そう、女吸血鬼が思った次の瞬間――その手が翻った。
「が……!」
手刀は彼女の右肩から入り、その体を引き裂きながら左脇腹へと抜ける。
一瞬で肉体を断裂された吸血鬼は、そのまま床へと転がり――
「……」
――そして、容赦なく頭部を踏み潰されてしまった。
ぶちゅり、と須藤啓の足下で赤い花火が弾ける。
ビル内の冷気は勢いを増し、壁や床はすっかり凍り付いていた。
そこに立ち尽くす、一人の男――
その心は黒く凍てつき、闇のように黒く塗り込められている。
憎しみと憎悪によって、黒く、黒く、黒く染まった存在――
「俺は――」
人間ではない、人外でもない。
彼は、結局何にもなれなかった。
復讐と信じた行為に手を染め、屍の山を築き――
そして、結局それは復讐などではなかった。
血を吐くような復讐の日々は、ただの錯誤に過ぎなかった。
もはや、復讐者ですらない。
何を仇にして、何に復讐したのか――もはや、彼には分からない。
「俺は、何なんだ――」
自分は人間ではない。
そして、バケモノにもなれなかった――
もはや、彼には分からない。
ただ、身も心も黒く染め上げるような憎悪だけが彼を突き動かしていた。
『化け物狩り』組織――
カーネル・ガブリエラ――
あの連中だけは、絶対に許さない。
彼等を、彼女達を、この世から絶滅させる。
その肉の一欠片も、この世に残しはしない。
「俺は――」
この日、一人の魔人が誕生した。
※ ※ ※
人間界と表裏一体の形で存在している、闇の住処――魔界。
魔王城の周囲に広がる大平原は、次から次へと馳せ参じる大軍勢で埋め尽くされていた。
それを魔王城の五階テラスから、マルガレーテが退屈そうに見下ろしている。
愛用の玉座に、その小さな腰を沈ませたまま――
当然ながら、その背後には従者エミリアも影のように控えていた。
「『淫蜘蛛姫』アレク・リアラ、八千の眷族を引き連れ到着いたしました――」
眼下では、下半身が蜘蛛の美女が魔王ベールゼブブの足下でかしずいていた。
その背後に、虫型淫魔の大群を引き連れて――
クモ、ムカデ、カマキリ、蝶――そんな妖女達も、アレク・リアラの背後に控えながら跪いている。
「よくぞ参った……我が手足となり、忠義に励むがいい」
「はっ、おおせのままに……」
深々とかしずいた後、軍勢を引き連れ脇に退くアレク・リアラの一団。
その次に、魔王の前へと銀髪の綺麗な少女が進み出る。
「『凍舞姫』クリスキャロル……一万二千の軍勢と共に……」
言葉短く告げ、少女は魔王に忠誠を誓う。
同時に、その背後に控えている氷妖女達も一斉に跪いていた。
このように、666の軍団が次々と魔王の元に馳せ参じているのだ。
その中には、百八姫の位にある者さえ多数存在する――
「『妖乳姫』ティラハ、参りました。一万の部下と共に、魔王様のおそばに――」
魔王の前でかしずく、妖艶で豊満な淫女。
「ふぁ……」
そんなやり取りを見下ろしながら、マルガレーテは大きな欠伸をした。
「……退屈でしょうか、ノイエンドルフの姫君?」
ふと、そこへ現れたのは――頭から黒いローブを被り、巨大な鎌を手にした赤髪の美女。
魔界元老員において、魔王を護衛していた三側近の一人――『死鎌姫』ミレイシア。
「あら……魔王の側にいなくてもいいのかしら?」
「ええ、心配はご無用です。百八姫の中でも、特に戦闘に長けた『猛龍姫』と『獅子心姫』が、我が君のお側におりますので」
ミレイシアはにこやかに告げると、マルガレーテの背後に控えるエミリアに視線をやった。
「……エミリア、あなたにご用のようね」
くすり……と笑うマルガレーテ。
ミレイシアが、エミリアに対する敵意――いや、挑戦心を抱いていることに気付かないはずがない。
「お見通しのようで、ノイエンドルフの姫君。貴女様にご用はありません。
用があるのは、そこの従者。この私は、あのような澄ました顔を見ると、つい――斬り刻みたくなってしまうもので」
おもむろにミレイシアは、エミリアに向かって手袋を投げ付けた。
その頬に向かって、一直線に飛ぶ純白の手袋――それを、エミリアは左手の甲で受け止めてしまう。
「な、何を――!」
次の瞬間、ミレイシアは目を見開いていた。
それも当然――魔界貴族にとって、手袋を頬に叩きつけるという行為には深い意味がある。
勝った方が、負けた方の全てを手にすることになる――古式に基づいた決闘の申し込みなのだ。
そして手袋を投げつけられた側――決闘を挑まれた側は、まずそれを頬で受けるというのが礼儀。
その屈辱を、決闘という場で返す――それこそが、魔界貴族の間の掟でありルールなのだ。
その手袋を頬で受けず、手で止めてしまうというのは――決闘を放棄してしまったということ。
エミリアの反応は、魔界貴族の間では恥知らずな行為そのものなのである。
「エミリア! 貴女には、誇りというものがないの……!?」
「……はい、ありません」
エミリアはきっぱりと言い放った。
「私が持つのは、主君マルガレーテの従者であるという誇りのみ。魔界貴族の誇りなど、私には無縁です――」
「く……!」
ミレイシアは唇を噛み、エミリアを睨む。
「詭弁を弄すな! いかに隠そうとも、貴様の技量は一挙手一投足を見るだけで分かる!
その腕、無駄に腐らせるつもりなの――!?」
「……他者と競うため、身につけた技ではありません」
エミリアは、涼しい顔でミレイシアの挑発を受け流す。
「それに――大きな戦いを控えている今、仲間同士で潰す合う余裕などおありなのですか?」
「戦い……? 馬鹿を言わないで、人間界など餌場に過ぎない。
我らが出向いて、餌を食い漁るのみ――最初から、戦いになどなりはしないわ」
「ふふふっ……」
ミレイシアの言葉に対し、マルガレーテは横からくすくすと笑った。
「おや――姫君も、それを楽しみになされておりましたか」
楽しげに笑うマルガレーテに対し、冷たい微笑を返すミレイシア。
そして彼女は、エミリアに視線を戻した。
「ともかく――決闘を受けないというのなら、仕方ない。それなら、私闘に及ぶまで!!」
ミレイシアはローブを翻し――そして、ばさりと脱ぎ捨てた。
エミリアから見て、ミレイシアの姿がローブに隠れてしまった瞬間――
「……!?」
その姿は、煙のように消え失せていた。
ひらひらと、床に落ちるローブ。
ミレイシアの姿も、気配も完全に消えている――
「どこへ――」
その姿を捕捉しようと、エミリアが周囲を見回した時だった。
エミリアの影が蠢き――まるで水から飛び出す鮫のように、影の中からミレイシアが姿を現したのだ。
巨大な鎌を振り上げての、死角からの奇襲――
「……ッ!」
一刀両断にしようとする刃を、エミリアは日本刀で受け止めていた。
直前まで反応できなかった影からの一撃に、刀を抜かざるを得なかったのだ。
「やはり……! 私の一撃をも受け止める技量、見込み通り! さあ、掛かって来い――」
ミレイシアが言った、その時だった。
「――もうやめろ、ミレイシア」
その場に、もう一人の女性が現れた。
龍鱗の鎧を着込んだ、無骨で屈強そうな女戦士。
その肉体は美しく豊満、そしていかにも鍛え抜かれた筋肉。
まさに、戦士としての肉体を持つ歴戦の勇女――『猛龍姫』ドラクリア。
彼女も、魔界元老員で魔王を護衛していた三人のうちの一人だ。
ドラクリアはつかつかと歩み寄ると、ミレイシアの前に立った。
「相手が決闘に乗らなかった以上、これはただの仲間割れだ。
戦いの一番最初に、味方の血を流す気か――?」
「ふぅ……分かった分かった、私が悪かったわ」
興が削がれたのか、ミレイシアは素直にエミリアから離れる。
そしてローブを拾い上げると、巨大な鎌を肩に乗せた。
ドラクリアはそんな同僚を尻目に、マルガレーテの前で床に膝を着く。
「……とんだ失礼を致しました、ノイエンドルフの姫君。それに、従者エミリア。
このミレイシアは武辺者ゆえ、礼に欠けるところがありまして――」
「……あなたが言わないでよ」
溜め息混じりに告げ、影の中に溶けていくミレイシア。
彼女の気配は、完全にこの場から消えてしまった。
「では、重ね重ね無礼をお詫びいたします。この私も、これにて失礼――」
マントを翻し、ドラクリアは威厳のある背中を見せる。
そしてミレイシアに続き、彼女もその場から立ち去っていった――
「ふふふ……愉快ねぇ、エミリア」
魔王配下の二人が立ち去った後、マルガレーテはくすくすと笑った。
「いえ、むしろ不愉快です――」
エミリアは、さっきミレイシアの鎌を受け止めた刀を掲げた。
その刃が真ん中からぽっきりと折れ、真っ二つになって床へと転がってしまう。
メリアヴィスタとの戦いでも折れなかった刀――こうもあっさり、潰されてしまったのだ。
「ふふ……不機嫌な様子ね、エミリア。腹が立ったのなら、殺してしまえば良かったのに――」
「……ご冗談を」
エミリアは目を閉じ、涼しい顔でそう呟くのみだった。
「『緑粘姫』ライムワーズ、八千の仲間を引き連れてやってきました〜♪」
「並びに『赤粘姫』ライムワース――魔王閣下の剣となりましょう」
眼下では、緑と赤の粘状淫魔が魔王の元にかしずいている。
そちらにちらりと視線をやりながら、マルガレーテは口を開いた。
「エミリア――あなたも、戦いにならないと思うかしら? 人間界は餌場同然、我々の圧勝だと――?」
「人間界には、まだまだ手練れの者が少数ながら存在します。
局地的に見れば、淫魔側が敗北を喫する局面もあるでしょう――」
エミリアが脳裏に描いていたのは、あの侵入者――須藤啓や深山優のことだった。
「しかし――戦争全体の趨勢となると、こちらに傾くかと」
「まだまだねぇ、エミリアも……あなたは、人間という生物の本質を分かっていないわ」
まるでエミリアの答えを予期していたように、マルガレーテは笑った。
「それに――あなたも、魔王でさえも見落としているファクターがあるわ。
もしかしてこの戦争、淫魔と人間の戦いになると思っているのかしら……?」
「……違う、とおっしゃられるのですか?」
「ええ――この戦争、魔界と人間界の戦いよ」
にこやかに言い放つマルガレーテ。
しかしエミリアは、その意図するところが分からなかった。
淫魔と人間の戦いではなく、魔界と人間界の戦い――同じだとしか思えない。
「あなたの思考も、魔界という狭い枠を抜け出せてはいないようね。
現在の人間界に棲んでいる淫魔達――そうした連中は、我々魔界生まれの淫魔達を同胞とみなしていると思う?」
「……生まれは違えども、同じ淫魔であるはずです」
そう、エミリアは言い放つ。
「故郷というのは重要よ、エミリア。
当の彼女たちは、住み慣れた人間界、共に暮らしてきた人間達に親近感を持っているのではないかしら――?
我々魔界の者達が人間界に攻撃を仕掛けたとき――人間界に棲む淫魔は、どう動くのでしょうね……?
彼女達は、守ろうとするのではないかしら……人間界という、彼女たちの大切な故郷を」
「……」
確かに、その通りだ。
人間界生まれの淫魔達にとっては、人間界こそが故郷であるはず。
そこで生まれ、そこで育った淫魔――彼女達は魔界生まれの自分達とは、もはや価値観も何もかもが異なる存在なのかもしれない。
「……しかし、人間界に棲む淫魔のほとんどは下級淫魔です。そのような抵抗など――」
「竜宮神楽乙姫、それにネフェルシェプス――長く人間界に棲んでいる女王七淫魔が、二人もいるわ。
特に、乙姫――彼女は海の淫魔をまとめ上げている龍神の巫女。そんな彼女が、魔界の我々に味方するかしら……?」
「まさか――乙姫は、人間側に――」
エミリアは、驚きを隠せなかった。
乙姫も、マルガレーテや魔王ベールゼブブ、妲己と並ぶ存在。
そんな者が敵に回ったら、百八姫でさえ太刀打ちなど出来ない。
「それに――ネフェルシェプスとて、どう動くか分からない。
良くて中立、悪ければ敵……といったところかしら」
「そんな、まさか――」
女王七淫魔のうち二人までが敵に回れば、苦戦などというレベルでは済まない。
この戦争の趨勢は、まるで読めなくなる。
それは、人間と淫魔の戦いなどにとどまらない。
人間界と魔界そのものの激突――まさしく淫魔大戦だ。
「でもでも〜」
不意に、頭上から声がした。
「……!?」
全く気配が読めず、思わず動揺するエミリア。
そこには――天井のシャンデリアに脚を絡め、逆さまになってぶら下がる妲己の姿があった。
その姿は、あどけない幼女のもの――今は、蘇喜媚の人格らしい。
一体、いつからそこにいたのか――
「こっちには、女王級が三人もいるでしょ〜?」
目をぱちくりさせながら、妲己は言う。
「ふふ、どうかしら……?」
足を組み直しながら、くすくすと笑うマルガレーテ。
「あれ〜? マルガレーテちゃん、あんまりやる気ないのかな〜?」
「ええ……あまりないわね」
マルガレーテは平然と言い放つ。
「い〜のかな〜? 魔王ちゃん、怒っちゃうよ?」
「怒りはしないわ……魔王は、全て自分の軍団で済ませるつもりなのだから。
あなたはどうなのかしら、妲己……?」
「私は――せいぜい、愉しませてもらうわ」
ふわり……と、シャンデリアから離れて着地する妲己。
九本の長い尾が、しゅるりと舞う。
その姿は、二十代後半の妖艶な美女のもの――またしても、別の人格に入れ替わったようだ。
「『約束の時』を前にして、宴に興じるのも一興。
私は、人間の泣き叫ぶ顔が大好きなの。特に、快楽に歪んだ顔――愉悦だわ」
そのまま、妲己もひたひたとその場から去っていく。
「ふふ……誰も彼も、随分とやる気ねぇ……」
マルガレーテはくすくす笑いながら、眼下に集まる666の軍団を見下ろした。
そして、その666名がそれぞれ従える大軍勢――その総数は、空前絶後の規模となっている。
「『約束の日』が訪れるまでに、いったいどれだけ残っているのやら――」
人間界への全面侵攻――それを目前にして、マルガレーテは金色の瞳を静かに輝かせるのだった。
...To Be Continued