序 『妖魔の城』〜『淫魔大戦』


 

 郊外の廃ビル、吸血鬼の住処――

 そこへ、『化け物狩り』組織のチーム・イプシロンが踏み込んでいた。

 タクティカル・アーマーにフェイスマスク、多彩な武装で身を固めた物々しい四人組。

 彼らはまず階下を押さえ、そして上へ上へと敵を追い詰めていく。

 たちまちのうちに、最上階の一つ下まで制圧し――そして彼らは、とうとうチェックメイトに入ったのである。

 

 「よし……最もスリリングでエキサイティングな瞬間が近付いてきたぞ。

  まあ、敵は低級な妖魔一匹。大した脅威でもないだろうが――」

 チーム・イプシロンの隊長――リチャード・エインズワースは言った。

 ハンティングの最終局面を前に、彼は昂ぶりを隠せない。

 力や速度などの肉体能力が、人間より遙かに高いとされるバケモノ。

 それを、技量のみで倒してしまう――これこそが、ハンティングの妙味。

 原始的な肉体的優越を、人間的理性で制する――それが、彼の愉悦なのだ。

 「へへへ……楽勝ですね」

 部下の一人――スコットが、フェイスマスクの下で笑みを浮かべながら頷く。

 彼らのやり取りは、全て英語。そして四人とも、明らかに日本人ではなかった。

 「……だが、決して油断はするな。これより、最上階へ踏み込むわけだが――」

 エインズワースは、部下三人の顔を見回した。

 「日本のコトワザには、『窮鼠猫を噛む』ってのがある。追い詰められた雑魚の反撃は、意外に侮れんということだ。

  分かったな、お前達――?」

 「イエッサー!」

 隊長の言葉に、敬礼のポーズを取る三人の部下。

 そして彼らは、いよいよ最上階への階段を駆け上ったのだった。

 

 妖魔が追い詰められた最上階――そこへ突入した、四人の特殊部隊。

 そう広くない一直線の廊下には客室が連なっており、少なくとも十以上のドアが並んでいた。

 おそらくターゲットは、どこかの部屋に潜んでいるはず――全ての部屋を洗うのは、大変な作業だ。

 「……ヘイ、ずいぶんと簡単な仕事だな。ただ面倒臭いだけだ」

 スコットは鼻歌さえ奏でながら、掌でナイフを弄んでいる。

 くるくると掌で回すように、通常の握りから逆手に持ち替え――様々な握りを見せているのだ。

 「……油断するな、スコット」

 眉をひそめ、エインズワースは苦言を弄していた。

 スコットも優秀な隊員ではあるが、敵が格下だと見るや油断が多くなるという欠点を持っている。

 ましてナイフの握りのバリエーションを意味もなく開陳するのは、そこらの映画のチンピラがやる不作法。

 ナイフの握りはすなわち、ナイフの攻撃パターン。それを見せるのは、手の内が読まれるのに他ならない。

 「す、すみません……隊長」

 スコットはナイフをホルダーに収め、警戒体勢を取った。

 そして彼らは、まず一番近くのドアを開けようとした――その時だった。

 

 「……ん? なんだ……?」

 背中を、ぞわぞわと駆け巡る寒気。

 不穏な気配でも感じ取ったのか――いや、違う。これは本物の寒気。

 周囲の気温が、急激に低下しているのだ。

 「お、おかしいぞ……!? なんなんだ、これは――」

 部下達も、突然の異変にどよめき始める。

 いつしか、階段や床には霜が降りていた。

 ぞくぞくと身を震わせるほどの冷気に、四人は息を呑んでしまう。

 「我々が追っているのは……低級な妖魔のはずだったな?」

 「はい、そのはずです。このような特殊能力など、持っているはずは――」

 「……」

 窓から見る限り、雪さえ降り始めている有様。

 しかもこのビルの周りにだけ、局所的に――だ。

 気象操作などという芸当、相当に格の高い妖魔でなければ不可能のはず。

 見積もりより強力なバケモノだったのか、それとも仲間が救援に現れたのか――

 

 「油断するな、尋常じゃない雰囲気だぞ……」

 「……イエッサー!」

 四人は顔を見合わせ、気を引き締める。

 その時――

 「た、隊長……あれは……!?」

 廊下の先――その真ん中に、幽鬼のように立つ影が一つ。

 闇のように黒い、不気味な影――

 それを捉え、チームはたちまち応戦態勢に入った。

 「なんだ、あいつは――?」

 その黒い影は、距離があるにも関わらず尋常ではない圧迫感を伝えてくる。

 完全な人型――体格は、やや華奢な成年男子のもの。身長も平均レベル。

 その顔は良く見えないが、男であることに間違いはない。

 彼が身に纏っている陰影のようなものは異様に濃く、視界さえ歪めるほどだ。

 その身に、黒いオーラを背負っているようなバケモノ――

 このようなものを目にするのは、実戦経験豊富なエインズワースさえ初めてだった。

 そして――そいつは、一歩こちらへと足を踏み出したのだ。

 

 「た、隊長――!」

 「近付いてきます、ご指示を!!」

 一歩一歩、こちらへとスローモーに接近してくる影に銃口を向けながら部下達が叫ぶ。

 「よし――撃て! 弾幕を張って近寄らせるな!」

 エインズワースがそう叫んだ次の瞬間、部下三人が放つ弾丸の雨が影へと放たれた。

 「……」

 一歩一歩を踏みしめながら、ゆっくりこちらへと歩み寄っていた影。

 その姿が、まるで流水のように滑らかになった。

 「な……?」

 それを一目見て、エインズワースは息を呑む。

 まるで熟練したサムライのような、静から動への足運びの移行。

 その一瞬で、部下三人は影の位置を見失ってしまう。

 「た、隊長――!」

 「落ち着け、上だ! 跳んだんだ!!」

 「ぐ……!」

 三人は、銃口を上方に向ける。

 しかし――エインズワースの指示は、一手遅れていた。

 その影はとうに着地し、前衛の二人の至近まで踏み込んでいたのだ。

 「え……?」

 「うわぁぁぁぁぁ――!!」

 その速度に反応できなかった部下達にとっては、いきなり目の前に瞬間移動してきたようにしか見えない。

 そして――影は右腕を掲げ、それを大きく薙ぎ払った。

 影を中心として、まるで大斧を振り回したかのような斬撃が周りへと襲い掛かる。

 「あ……!」

 「ぎゃ……!!」

 悲鳴さえ最後まで放たれることはなく、前衛二人の体が引き裂かれた。

 その破壊力はそれにとどまらず、背後の壁をも風圧だけで破壊していく。

 みしりと砕け、崩れ出すコンクリート――それを背景に、二つの血煙がブチ撒けられた。

 一人は肩口あたりから、もう一人は胸の辺りを断ち切られ――その上半身が、びちゃりと床に転がる。

 少し遅れて、残った下半身も床の上へと倒れ伏した。

 血と臓物の臭いが、たちまち周囲へと満ちる――

 「な、なんだと……!?」

 あまりの威力に、エインズワースは目を疑うのみ。

 一瞬、斧のような武器を持っているのかと疑ったが――相手は、間違いなく素手。

 一撃で二人もの人間を引き裂いたのは、ただの手刀なのだ。

 

 「……」

 瞬時にして二人を引き裂いた影は、残るスコットとエインズワースに視線をやった。

 やはり、外見は人間そのもの。

 まるで心の闇が具現化したような黒いオーラを除いて、一般男性と変わることはない。

 牙も羽もなければ、肉体が変質しているわけでもない――

 それなのに、こいつは一体――

 「ぐ……! くそっ……!」

 スコットはナイフを抜くと、その影に挑み掛かった。

 「よせ、スコット!! 距離を取るんだ――!」

 そう言いながら飛び退くエインズワースだったが、スコットに忠告を聞く気配はない。

 同僚二人が瞬時に殺されたという事態に、平静さを欠いてしまったのだ――

 「うぉぉぉぉぉぉ……!!」

 そのまま、影に対してナイフを振り抜くスコット。

 しかし――

 「え……?」

 その刃が影へと届くその瞬間、ナイフは彼の手から消え失せていた。

 そのナイフは、いつの間にか影の手許にあった――

 スコットはもちろんエインズワースにさえ見切れない早業で、奪い取ってしまったのだ。

 「……」

 影が手にしているナイフ――それは、ぴきぴきと凍結していった。

 そして氷細工のように、影の手の中で脆くも崩れ去ってしまう。

 「う、おぉぉぉぉ――!!」

 そのまま瞬時に腰を落とし、スコットは地面スレスレの回し蹴りを繰り出した。

 影の足をすくい、その体勢を崩す一撃――

 「……」

 みしりと、その足が真上から踏み抜かれる。

 「がぁ……!」

 スコットの足は砕け、折れ曲がり、足下の床へとめり込んだ。

 まるで、1トン以上もの圧力でプレスされたかのように――

 「あぐ……ぎゃぁぁぁぁぁぁ……!」

 皮膚が裂け、血が滴り、露出した骨が足下の床片に食い込んでいる――

 常人なら目を背ける光景を、エインズワースは目を血走らせて見据えていた。

 正面から止めたのではない。

 孤の軌道を描く回し蹴りを、真上から踏み抜いたのだ。

 相手は、生半可な動体視力と反射神経の持ち主ではない――

 「あ、あひぃ……ひぁ……」

 悶絶しながら、スコットは床へと転がる――

 ――その頭を、影の踏み出した足がみしりと踏み抜いた。

 そう太くもなく、むしろ華奢にも見える足――

 それは容易に頭蓋骨を破砕し、まるでスイカを潰したかのような惨状を生み出したのだ。

 スコットの頭部は床ごと粉砕され、あっという間に即死してしまった――

 

 「――ッ!!」

 その瞬間に、エインズワースは銃の引き金を引いた。

 何も今まで、のんびり見ていた訳ではない。

 部下を捨て石にしながら、あらゆる生物が最も油断するタイミング――獲物を仕留めた瞬間を狙っていたのだ。

 スコットの頭部を踏み潰した影の背へと、無数の銃弾が飛来する――

 「……」

 その弾丸は全て、狙いから外れて背後の壁へと食い込んでいた。

 影は疾風のような身のこなしで、背後から迫った弾丸を見もせずに避けたのである。

 「な……! そ、そんな……!!」

 エインズワースは血の気の引いた顔で、影にフルオートでの掃射を浴びせ掛けた。

 獲物を仕留めた時というのは、どんな生物でも気が緩む瞬間。

 そのタイミングでの奇襲に対処できる――それは、人為的な戦闘訓練を受けているという証。

 「う、うぉぉぉぉ……!!」

 咆吼しながら、エインズワースは前方にアサルトライフルを撃ち続ける。

 しかし影は、洗練された動作――まるで武術家のような足運びで銃弾を避けているのだ。

 「ば、馬鹿な……! フルオートだぞ!!」

 顔を引きつらせ、エインズワースは叫ぶ。

 彼はこれまで無数のバケモノを始末してきて、常々思うことがあった。

 バケモノの多くは、人間とは比較にならない筋力と敏捷性を持ち合わせている。

 しかしそいつらは、その破壊力を大雑把に目の前にぶつけ、その敏捷性で直線的に動くだけ。

 人間を遙かに超えた肉体能力を、有効に使えもせずに持て余しているだけなのが実情なのだ。

 そんな怪物を、練達した戦闘技能で始末してきたエインズワースは、常々思う――

 それだけの肉体能力を持った者が、優れた戦闘技能を身につけたなら――いったい、どれほどの脅威になるだろうか。

 「お、お前は――お前は、いったい――」

 そんな怪物が今、目の前にいた。

 並外れた肉体能力と、磨き抜かれた戦闘技能。

 それを両立させた妖魔が、この世に存在したのだ――

 フルオートの弾丸を避けきり、とうとうエインズワースの前に立つ影。

 「あ、あうぅぅぅぅぅ……」

 そいつが眼前に迫り、エインズワースは異様な雰囲気に圧倒される。

 凍り付くような殺意と、息も詰まるような気迫。

 この世の全てを、真っ黒に塗り込めてしまうような憎悪――

 しかもそいつは――なんと、エインズワースの知っている顔だったのだ。

 「お前、まさか――!」

 エインズワースは目を見開き、驚愕するしかなかった。

 こいつは、チーム・アルファの隊長だった男――

 「まさか――須藤啓か!?」

 「違う――人違いだ」

 影は、初めて人間の言葉を口にした。

 その右手が、エインズワースの顔面を掴む。

 まるでハンガーに吊したシャツを持ち上げるように、エインズワースの屈強な体が軽々と掴み上げられる。

 みしみしと、凄まじい握力が彼の顔面を締め付けた。

 「バ、バケモノ……」

 「それも違う――」

 次の瞬間、影――須藤啓の目が見開いた。

 空が轟き、激しい落雷がビルを直撃する。

 地を揺るがすほどの雷はビルの天井を打ち崩し、そしてエインズワースの体を直撃していた。

 須藤啓に吊された彼の体を、何万ボルトもの電流が駆け巡る――

 「が――」

 口や鼻からしゅうしゅうと煙を漏らしながら、真っ黒な炭屑となって絶命するエインズワース。

 「……」

 須藤啓は、人の形をした炭屑を床へと無造作に投げ捨てた。

 こうしてチーム・イプシロンは全滅し、フロアは静まり返ってしまう。

 ――いや。

 

 「ふふ……助かったわ」

 客室のドアが開き、一人の女吸血鬼が姿を現した。

 彼女こそ、チーム・イプシロンの本来のターゲットであり、この廃ビルを拠点にしていた存在。

 女吸血鬼は、艶やかな笑みを浮かべながら須藤啓の前に立つ。

 「どこの誰だか知らないけど、ありがとう。もう少しで、狩られるところだったわ――お仲間さん」

 「違う、仲間じゃない――」

 須藤啓は、すっと吸血鬼に右手を差し出した。

 「あら、なぁに……?」

 握手でもしようというのか――?

 そう、女吸血鬼が思った次の瞬間――その手が翻った。

 「が……!」

 手刀は彼女の右肩から入り、その体を引き裂きながら左脇腹へと抜ける。

 一瞬で肉体を断裂された吸血鬼は、そのまま床へと転がり――

 「……」

 ――そして、容赦なく頭部を踏み潰されてしまった。

 ぶちゅり、と須藤啓の足下で赤い花火が弾ける。

 

 ビル内の冷気は勢いを増し、壁や床はすっかり凍り付いていた。

 そこに立ち尽くす、一人の男――

 その心は黒く凍てつき、闇のように黒く塗り込められている。

 憎しみと憎悪によって、黒く、黒く、黒く染まった存在――

 

 「俺は――」

 

 人間ではない、人外でもない。

 彼は、結局何にもなれなかった。

 復讐と信じた行為に手を染め、屍の山を築き――

 そして、結局それは復讐などではなかった。

 血を吐くような復讐の日々は、ただの錯誤に過ぎなかった。

 もはや、復讐者ですらない。

 何を仇にして、何に復讐したのか――もはや、彼には分からない。

 

 「俺は、何なんだ――」

 

 自分は人間ではない。

 そして、バケモノにもなれなかった――

 もはや、彼には分からない。

 ただ、身も心も黒く染め上げるような憎悪だけが彼を突き動かしていた。

 

 『化け物狩り』組織――

 カーネル・ガブリエラ――

 あの連中だけは、絶対に許さない。

 彼等を、彼女達を、この世から絶滅させる。

 その肉の一欠片も、この世に残しはしない。

 

 「俺は――」

 

 この日、一人の魔人が誕生した。

 

 

            ※            ※            ※

 

 

 人間界と表裏一体の形で存在している、闇の住処――魔界。

 魔王城の周囲に広がる大平原は、次から次へと馳せ参じる大軍勢で埋め尽くされていた。

 それを魔王城の五階テラスから、マルガレーテが退屈そうに見下ろしている。

 愛用の玉座に、その小さな腰を沈ませたまま――

 当然ながら、その背後には従者エミリアも影のように控えていた。

 

 「『淫蜘蛛姫』アレク・リアラ、八千の眷族を引き連れ到着いたしました――」

 眼下では、下半身が蜘蛛の美女が魔王ベールゼブブの足下でかしずいていた。

 その背後に、虫型淫魔の大群を引き連れて――

 クモ、ムカデ、カマキリ、蝶――そんな妖女達も、アレク・リアラの背後に控えながら跪いている。

 「よくぞ参った……我が手足となり、忠義に励むがいい」

 「はっ、おおせのままに……」

 深々とかしずいた後、軍勢を引き連れ脇に退くアレク・リアラの一団。

 その次に、魔王の前へと銀髪の綺麗な少女が進み出る。

 「『凍舞姫』クリスキャロル……一万二千の軍勢と共に……」

 言葉短く告げ、少女は魔王に忠誠を誓う。

 同時に、その背後に控えている氷妖女達も一斉に跪いていた。

 このように、666の軍団が次々と魔王の元に馳せ参じているのだ。

 その中には、百八姫の位にある者さえ多数存在する――

 「『妖乳姫』ティラハ、参りました。一万の部下と共に、魔王様のおそばに――」

 魔王の前でかしずく、妖艶で豊満な淫女。

 「ふぁ……」

 そんなやり取りを見下ろしながら、マルガレーテは大きな欠伸をした。

 

 「……退屈でしょうか、ノイエンドルフの姫君?」

 ふと、そこへ現れたのは――頭から黒いローブを被り、巨大な鎌を手にした赤髪の美女。

 魔界元老員において、魔王を護衛していた三側近の一人――『死鎌姫』ミレイシア。

 「あら……魔王の側にいなくてもいいのかしら?」

 「ええ、心配はご無用です。百八姫の中でも、特に戦闘に長けた『猛龍姫』と『獅子心姫』が、我が君のお側におりますので」

 ミレイシアはにこやかに告げると、マルガレーテの背後に控えるエミリアに視線をやった。

 「……エミリア、あなたにご用のようね」

 くすり……と笑うマルガレーテ。

 ミレイシアが、エミリアに対する敵意――いや、挑戦心を抱いていることに気付かないはずがない。

 「お見通しのようで、ノイエンドルフの姫君。貴女様にご用はありません。

  用があるのは、そこの従者。この私は、あのような澄ました顔を見ると、つい――斬り刻みたくなってしまうもので」

 おもむろにミレイシアは、エミリアに向かって手袋を投げ付けた。

 その頬に向かって、一直線に飛ぶ純白の手袋――それを、エミリアは左手の甲で受け止めてしまう。

 「な、何を――!」

 次の瞬間、ミレイシアは目を見開いていた。

 それも当然――魔界貴族にとって、手袋を頬に叩きつけるという行為には深い意味がある。

 勝った方が、負けた方の全てを手にすることになる――古式に基づいた決闘の申し込みなのだ。

 そして手袋を投げつけられた側――決闘を挑まれた側は、まずそれを頬で受けるというのが礼儀。

 その屈辱を、決闘という場で返す――それこそが、魔界貴族の間の掟でありルールなのだ。

 その手袋を頬で受けず、手で止めてしまうというのは――決闘を放棄してしまったということ。

 エミリアの反応は、魔界貴族の間では恥知らずな行為そのものなのである。

 「エミリア! 貴女には、誇りというものがないの……!?」

 「……はい、ありません」

 エミリアはきっぱりと言い放った。

 「私が持つのは、主君マルガレーテの従者であるという誇りのみ。魔界貴族の誇りなど、私には無縁です――」

 「く……!」

 ミレイシアは唇を噛み、エミリアを睨む。

 「詭弁を弄すな! いかに隠そうとも、貴様の技量は一挙手一投足を見るだけで分かる!

  その腕、無駄に腐らせるつもりなの――!?」

 「……他者と競うため、身につけた技ではありません」

 エミリアは、涼しい顔でミレイシアの挑発を受け流す。

 「それに――大きな戦いを控えている今、仲間同士で潰す合う余裕などおありなのですか?」

 「戦い……? 馬鹿を言わないで、人間界など餌場に過ぎない。

  我らが出向いて、餌を食い漁るのみ――最初から、戦いになどなりはしないわ」

 「ふふふっ……」

 ミレイシアの言葉に対し、マルガレーテは横からくすくすと笑った。

 「おや――姫君も、それを楽しみになされておりましたか」

 楽しげに笑うマルガレーテに対し、冷たい微笑を返すミレイシア。

 そして彼女は、エミリアに視線を戻した。

 「ともかく――決闘を受けないというのなら、仕方ない。それなら、私闘に及ぶまで!!」

 ミレイシアはローブを翻し――そして、ばさりと脱ぎ捨てた。

 エミリアから見て、ミレイシアの姿がローブに隠れてしまった瞬間――

 「……!?」

 その姿は、煙のように消え失せていた。

 ひらひらと、床に落ちるローブ。

 ミレイシアの姿も、気配も完全に消えている――

 「どこへ――」

 その姿を捕捉しようと、エミリアが周囲を見回した時だった。

 エミリアの影が蠢き――まるで水から飛び出す鮫のように、影の中からミレイシアが姿を現したのだ。

 巨大な鎌を振り上げての、死角からの奇襲――

 「……ッ!」

 一刀両断にしようとする刃を、エミリアは日本刀で受け止めていた。

 直前まで反応できなかった影からの一撃に、刀を抜かざるを得なかったのだ。

 「やはり……! 私の一撃をも受け止める技量、見込み通り! さあ、掛かって来い――」

 ミレイシアが言った、その時だった。

 「――もうやめろ、ミレイシア」

 その場に、もう一人の女性が現れた。

 龍鱗の鎧を着込んだ、無骨で屈強そうな女戦士。

 その肉体は美しく豊満、そしていかにも鍛え抜かれた筋肉。

 まさに、戦士としての肉体を持つ歴戦の勇女――『猛龍姫』ドラクリア。

 彼女も、魔界元老員で魔王を護衛していた三人のうちの一人だ。

 ドラクリアはつかつかと歩み寄ると、ミレイシアの前に立った。

 「相手が決闘に乗らなかった以上、これはただの仲間割れだ。

  戦いの一番最初に、味方の血を流す気か――?」

 「ふぅ……分かった分かった、私が悪かったわ」

 興が削がれたのか、ミレイシアは素直にエミリアから離れる。

 そしてローブを拾い上げると、巨大な鎌を肩に乗せた。

 ドラクリアはそんな同僚を尻目に、マルガレーテの前で床に膝を着く。

 「……とんだ失礼を致しました、ノイエンドルフの姫君。それに、従者エミリア。

  このミレイシアは武辺者ゆえ、礼に欠けるところがありまして――」

 「……あなたが言わないでよ」

 溜め息混じりに告げ、影の中に溶けていくミレイシア。

 彼女の気配は、完全にこの場から消えてしまった。

 「では、重ね重ね無礼をお詫びいたします。この私も、これにて失礼――」

 マントを翻し、ドラクリアは威厳のある背中を見せる。

 そしてミレイシアに続き、彼女もその場から立ち去っていった――

 

 「ふふふ……愉快ねぇ、エミリア」

 魔王配下の二人が立ち去った後、マルガレーテはくすくすと笑った。

 「いえ、むしろ不愉快です――」

 エミリアは、さっきミレイシアの鎌を受け止めた刀を掲げた。

 その刃が真ん中からぽっきりと折れ、真っ二つになって床へと転がってしまう。

 メリアヴィスタとの戦いでも折れなかった刀――こうもあっさり、潰されてしまったのだ。

 「ふふ……不機嫌な様子ね、エミリア。腹が立ったのなら、殺してしまえば良かったのに――」

 「……ご冗談を」

 エミリアは目を閉じ、涼しい顔でそう呟くのみだった。

 

 「『緑粘姫』ライムワーズ、八千の仲間を引き連れてやってきました〜♪」

 「並びに『赤粘姫』ライムワース――魔王閣下の剣となりましょう」

 眼下では、緑と赤の粘状淫魔が魔王の元にかしずいている。

 そちらにちらりと視線をやりながら、マルガレーテは口を開いた。

 「エミリア――あなたも、戦いにならないと思うかしら? 人間界は餌場同然、我々の圧勝だと――?」

 「人間界には、まだまだ手練れの者が少数ながら存在します。

  局地的に見れば、淫魔側が敗北を喫する局面もあるでしょう――」

 エミリアが脳裏に描いていたのは、あの侵入者――須藤啓や深山優のことだった。

 「しかし――戦争全体の趨勢となると、こちらに傾くかと」

 「まだまだねぇ、エミリアも……あなたは、人間という生物の本質を分かっていないわ」

 まるでエミリアの答えを予期していたように、マルガレーテは笑った。

 「それに――あなたも、魔王でさえも見落としているファクターがあるわ。

  もしかしてこの戦争、淫魔と人間の戦いになると思っているのかしら……?」

 「……違う、とおっしゃられるのですか?」

 「ええ――この戦争、魔界と人間界の戦いよ」

 にこやかに言い放つマルガレーテ。

 しかしエミリアは、その意図するところが分からなかった。

 淫魔と人間の戦いではなく、魔界と人間界の戦い――同じだとしか思えない。

 「あなたの思考も、魔界という狭い枠を抜け出せてはいないようね。

  現在の人間界に棲んでいる淫魔達――そうした連中は、我々魔界生まれの淫魔達を同胞とみなしていると思う?」

 「……生まれは違えども、同じ淫魔であるはずです」

 そう、エミリアは言い放つ。

 「故郷というのは重要よ、エミリア。

  当の彼女たちは、住み慣れた人間界、共に暮らしてきた人間達に親近感を持っているのではないかしら――?

  我々魔界の者達が人間界に攻撃を仕掛けたとき――人間界に棲む淫魔は、どう動くのでしょうね……?

  彼女達は、守ろうとするのではないかしら……人間界という、彼女たちの大切な故郷を」

 「……」

 確かに、その通りだ。

 人間界生まれの淫魔達にとっては、人間界こそが故郷であるはず。

 そこで生まれ、そこで育った淫魔――彼女達は魔界生まれの自分達とは、もはや価値観も何もかもが異なる存在なのかもしれない。

 「……しかし、人間界に棲む淫魔のほとんどは下級淫魔です。そのような抵抗など――」

 「竜宮神楽乙姫、それにネフェルシェプス――長く人間界に棲んでいる女王七淫魔が、二人もいるわ。

  特に、乙姫――彼女は海の淫魔をまとめ上げている龍神の巫女。そんな彼女が、魔界の我々に味方するかしら……?」

 「まさか――乙姫は、人間側に――」

 エミリアは、驚きを隠せなかった。

 乙姫も、マルガレーテや魔王ベールゼブブ、妲己と並ぶ存在。

 そんな者が敵に回ったら、百八姫でさえ太刀打ちなど出来ない。

 「それに――ネフェルシェプスとて、どう動くか分からない。

  良くて中立、悪ければ敵……といったところかしら」

 「そんな、まさか――」

 女王七淫魔のうち二人までが敵に回れば、苦戦などというレベルでは済まない。

 この戦争の趨勢は、まるで読めなくなる。

 それは、人間と淫魔の戦いなどにとどまらない。

 人間界と魔界そのものの激突――まさしく淫魔大戦だ。

 

 「でもでも〜」

 不意に、頭上から声がした。

 「……!?」

 全く気配が読めず、思わず動揺するエミリア。

 そこには――天井のシャンデリアに脚を絡め、逆さまになってぶら下がる妲己の姿があった。

 その姿は、あどけない幼女のもの――今は、蘇喜媚の人格らしい。

 一体、いつからそこにいたのか――

 「こっちには、女王級が三人もいるでしょ〜?」

 目をぱちくりさせながら、妲己は言う。

 「ふふ、どうかしら……?」

 足を組み直しながら、くすくすと笑うマルガレーテ。

 「あれ〜? マルガレーテちゃん、あんまりやる気ないのかな〜?」

 「ええ……あまりないわね」

 マルガレーテは平然と言い放つ。

 「い〜のかな〜? 魔王ちゃん、怒っちゃうよ?」

 「怒りはしないわ……魔王は、全て自分の軍団で済ませるつもりなのだから。

  あなたはどうなのかしら、妲己……?」

 「私は――せいぜい、愉しませてもらうわ」

 ふわり……と、シャンデリアから離れて着地する妲己。

 九本の長い尾が、しゅるりと舞う。

 その姿は、二十代後半の妖艶な美女のもの――またしても、別の人格に入れ替わったようだ。

 「『約束の時』を前にして、宴に興じるのも一興。

  私は、人間の泣き叫ぶ顔が大好きなの。特に、快楽に歪んだ顔――愉悦だわ」

 そのまま、妲己もひたひたとその場から去っていく。

 

 「ふふ……誰も彼も、随分とやる気ねぇ……」

 マルガレーテはくすくす笑いながら、眼下に集まる666の軍団を見下ろした。

 そして、その666名がそれぞれ従える大軍勢――その総数は、空前絶後の規模となっている。

 「『約束の日』が訪れるまでに、いったいどれだけ残っているのやら――」

 人間界への全面侵攻――それを目前にして、マルガレーテは金色の瞳を静かに輝かせるのだった。

 

 

 ...To Be Continued

 




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